叫び
この時期赤本執筆者・校閲者の仕事をしている。これを機に大学入試センターの報告も読み直している。世間ではマークをやめて記述式にしろという議論が多いが、マークでもこれだけのことがやれているという議論はない。わたしは大いに評価しているのだが。問題作成部会の意見を見ると泣けてくる。「じゃ記述なのか?俺たちの工夫を見ているのか?」という叫びが聞こえてくる。数字でなくa,b,c,dを選ぶ問題に批判を受けた。
解答用紙の解答欄には、例年、数字(0~9)に加えて符号(-)及び文字(a~d)が選択肢として提供されているのだから、いくつかの設問の正解が文字になることに原理的な不都合はないと考える。とはいえ、正解が文字になる設問がセンター試験の過去の出題において比較的少なかったということは多くの受験者の記憶に刷り込まれているであろう。この事情に対して、当部会としても何らかの配慮をしてよいであろう。具体的にどのような対応が可能であり適切であるかについて、今後検討したい。
批判も良いが、どれだけの功績があったのか評価した上で行いたい。表面だけの批判は批判たりえず、難癖つける批難だと思うが。
カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞をとった。世間で騒がれていたが、その中身についてでないことは良いのだろうか?私はカズオつながりで初期三部作は読んでいる。イギリスの作家さんだが日本を考える上で実に興味深い。
当時は精神障害者を目障りだと思うような人はいなかった。平山の坊やを叩きのめす気になった現在の人々は、なにに取りつかれたのだろう。平山の坊やの軍歌や演説が気に食わないのかもしれないが、おそらく彼らはかつて平山の坊やの頭をさすって彼をそそのかし、二、三の短い歌詞が彼の大脳に根づくのを助けた張本人なのだ。
カズオ・イシグロ「浮世の画家」
彼はマージナルマンではないだろうが、境界領域を旅した方であることは確かだ。終戦、差別について整理をつけた作家さんだと思うが、その中身に真摯に報いたのか、日本?
私の主治医は反応を返してくれた。
区別がいつの間にか差別になっていってしまいましたね。区別はしたもののきちんとした教育をしてこなかったツケなのでしょう。
スティグマとスティグマ付与。まさしく社会学の現代的課題だ。イシグロさんの記述にもう現れている。怖い。先生がこんな私の呟きも見ている。学会後にバーで打ち上げたのもばれているはずだ?だけど読まれないよりよっぽどマシだ。
女の子はまじまじとわたしを見ていたと思うと、「なぜ、そんなものを持っているの」と訊いた。
「これ? サンダルに引っかかっただけよ」
「なぜ、持っているの?」
「言ったでしょ。足にからまっただけ。万里子さん、どうしたの」わたしはちょっと笑った。「どうしてそんな顔でわたしを見るの。わたしが怖いことなんかないでしょ」
万里子はわたしに目を据えたまま、そろそろ立ち上がった。「どうしたの?」わたしはくりかえした。
女の子は走りだした。その足音が木の橋に太鼓のようにひびいた。彼女は橋を渡り切ると立ちどまって、うさんくさそうにわたしを見た。わたしがにっこり笑って提灯を持ち上げると、子供はまた走りだした。
川の上に、半月が出ていた。わたしは何分か橋の上に佇んだまま、ひっそりとその月を見つめていた。一度だけ、家に向かって土手を走っていく万里子の姿が暗がりの中で見えたような気がした。
石黒一雄「遠い山並みの光」
記憶に残るものは斑である。でも思い出になっている部分は妙に生々しい。詳しく描写される感情と素っ気なく描写される原爆後の人々。記憶なら忘れるままに。思い出にしなくてもよい?戦後は我々とともに?
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