二部一章二話

香弥はミュズィースを見送って、やれやれこれで一安心だ、と息を吐いた。そのまま協会本部の正面玄関に向かって帰ろうとした。

「が、まだやることが残っていたわ」

踵を返して、正面の大階段を登り、二階へ。早歩きでまっすぐ研究棟へ向かう。

研究棟は協会本部の中で一番新しい建物だ。この建物の二階の端の壁を壊して、連絡路を作ってある。世界中の魔法使いたちが知識を集めて活用して、全ての建物は厳重に強化されているとはいえ。

「安全安心ってわけじゃないわよね、ここ」

歩くだけで少し揺れる連絡路を渡り、研究棟の中へ入る。研究棟は全体的に白っぽい。窓もなく、平べったい内装なので距離感が僅かに狂う。各研究室のドアもドアで、規則的に並んでいるわけではないから余計に目の錯覚を引き起こす。慣れたもので、香弥の足取りは変わらない。

エレベーターの前まで来て、上行きのボタンを押す。一応時計を見るが、問題なく対象の人物は起きている。今も仕事をしていることだろう。

到着したエレベーターの五階のボタンを押して、溜息をつく。

「姉さんも姉さんよ。常識なんか通用しない相手にあんなにヘラヘラへらへら……」

エレベーターが五階に着くと飛び出すように廊下へ出て、そのまま目の前のドアを開く。

目的の人物は、正面の机でPCの画面をじっと見ていた。香弥は視界の外である。誰が来たか分かっている上で、無視しているのだ。

「おはようございます、ドクター。今日も奥さん無視してのお仕事ご苦労様です。精が出ますね。働き過ぎで倒れろこのボケナス」

香弥にドクターと呼ばれた男性は、振り向きもせずに澄ました調子で答えた。

「いらっしゃい、香弥。面倒ごとは起こさなかったかい?額に気をつけた方が良いという助言はちゃんと守ったみたいだけど、僕が沙弥君の姉とイチャイチャしていたら『仕事しろ、クソ野郎』と言い放ったことは忘れてしまったみたいだね」

声の調子から食事はきちんととって健康的な生活を維持しているらしいことは分かり、内心ホッとしたが言わなきゃいけないことは言っておく。

「わざわざウチで一晩中繁殖行為に及んだ挙句、結婚して十年近く経つのに未だにベッタリしてるのを見せつけられたら誰だってキレるわ。ひと月半も嫁と娘を無視してひたすら仕事に没頭する旦那にもね」

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