やるぞ、やるぞ、やってやるぞ!!

 萱場・佐倉ペアは、負けなかった。ただ、楽に勝てた試合は一つも無かった。

 実業団の選手が学生と違う部分、それは常に「後が無い」ということと、「給料を貰ってやっている」ということだ。前者は自分自身に対する責任、後者は他者に対する責任だ。したがって、敵は全員、目の色を変えて立ち向かってくる。男子は体力と若さ、女子は技術と経験で自分たちを上回る敵を相手に、萱場・佐倉ペアは、‘常識を捨てる’ことで立ち向かった。

 まず、日奈の‘急失速するスマッシュ’は、相手がそうそう見たことの無いショットだ。そして、これを活かすために常識と反対のことをした。

 普通、混合ダブルスは、スマッシュの破壊力を活かすため、できるだけ男子を後衛に回すようなフォーメーションを取る。だから、男子選手のサービスも、わざわざ女子選手の背後から打って、あらかじめ後衛に回る準備をする。

 だが、萱場・佐倉ペアは日奈が後衛に回る割合を多くした。そして、前衛に長身でリーチの長い萱場がどん、と居座ることで逆に相手へプレッシャーをかけ、更に日奈が攻撃しやすくなる。

 敵チームは、とにかく反撃の糸口を見つけようと、自陣に甘いレシーブが上がると、当然のように弱点であるはずの日奈に集中してスマッシュを叩きこんだ。

 しかし、サイド・バイ・サイドになっても、萱場・佐倉ペアは常識通りではなかった。

 萱場が長いリーチを活かして、日奈のコート半面の1/4ほどをカバーする。そして、自分の受け持ちを3/4に絞った日奈は、相手のスマッシュ・カット・ドライブを返しまくった。

 守備範囲を絞ることでコーナーへの攻撃は簡単にさばける。すると、敵は日奈のボディーを狙うしかないのだが、小柄で的が絞りにくい上に、リーチも短い日奈は手の動きの小回りが利き、ボディーに来たシャトルもまったく窮屈な思いをせずに打ち返せる。

 しかも、膨大な走り込みで鍛えた足腰の上に体幹のしっかりした胴体を乗っけた日奈は、足から腰、胴体へと伝わる力を最短・最少の動きで短い腕・手首へと伝え、目の覚めるようなレシーブで敵陣へ返す。いや、返すというより、レシーブを‘打ち込む’という表現がぴったり来る。何を打ってもしつこく返してくる日奈に根負けしてつい萱場の方にシャトルを打ち込むと、萱場は相手の心理の裏の裏まで読んだフェイントとコース選択で敵の態勢を崩す。たまらず敵が甘いレシーブを日奈に上げればどんな態勢からでも、‘くるん’とラケットを回転させて失速スマッシュのイン・アウトを使い分けて打ち込み、前衛の萱場に上がると、じっとしていても壁のように大きな萱場が、年齢相応以上のジャンプをしてほぼ垂直にシャトルを叩きこむ。

 萱場・佐倉は、1セット目は敵の様子をじっと窺って弱点を見つけ出す作業に使う。そして、2セット目以降、敵の弱点を徹底的に攻め抜いて生き残って来た。実際、2・3セットで逆転して勝つ試合がほとんどだった。

 転戦を続け、「負けたくない!」という日奈の根性そのままに勝ち星を積み重ねた2人は、気が付くとオリンピック強化選手の中に食い込んでいた。

 バドミントンだけでなく、各競技のオリンピック強化選手だけが使用を許される総合トレーニングセンターに初めて招集された日、日奈は完全に我を忘れていた。

「はあ・・・」

 総合トレーニングセンターの最新鋭の設備をまるで観光客のように見て回った後、体育館に入った日奈は、ピカピカに磨き上げられた床を見ながら、うっとりとした表情でいた。

「わたしみたいな凡人がここに来られるなんて・・・夢のようだわ・・・」

 珍しく挙動だけでなく発言まで‘らしくない’日奈の様子に気付いた萱場は、ちょっと‘余興’でもやってみるか、と思いついた。

「みんな、凡人さ・・・神様・仏様からご覧になれば人間なんて、全員、大したことない。試してみるか?」

 日奈が、は?というような顔をしているのに構わず、萱場は向こうのコートの方にさっさと歩いて行き、基礎打ちをやっている選手たちの1人に話しかけた。

「斎藤君、悪いんだけど、ちょっと相手してくれないかな?1セットだけでいいから」

 斎藤君、と声をかけられた相手は、明らかに萱場の申し出を嫌がっている様子が見えたが、無碍に断るのも失礼、と感じているらしい。萱場と斎藤はそういう力関係のようだ。

「え・・・相手って・・・僕らが混合ダブルスの相手をですか?」

「うん、あの子と俺のペアだ。男子トップとやるなんてなかなかない機会だから胸を借りたいと思ってさ」

 斎藤が返事に迷っている間に、萱場はまたさっさと次の行動に移る。

「多田さん、玲子ちゃん、申し訳ないけどラインズマンやって貰えないか?それで、日奈の動きをチェックして、後でアドバイスしてやって欲しいんだ」

 同じくオリンピック強化選手として来ていた東城トランスポートの女子部員は、萱場に呼ばれて、はい、と答えながら機敏な動きでパイプ椅子を持って来、それぞれのコートの隅に座った。

 ここまでお膳立てされてしまうと、もはや斎藤は断る機会を失った。仕方なく、パートナーに声をかけて、準備の整ったコートに向かう。

 萱場が日奈の方に歩いて来る。

「さ、やるぞ。1セットだけだけどな。相手を待たせちゃ悪いから、アップは軽くな」

 日奈は半ば固まった状態で萱場を見る。

「あれって、斎藤・金谷ペアですよね」

「おっ、知ってるのか?」

「・・・・男子ダブルスの全日本チャンピオンですよね」

 斎藤・金谷ペア。国内製紙会社最大手の新日本製紙所属。男子ダブルス全日本5連覇中のペアだ。世界ランキングは3位。国内だけでなく、世界でも憧憬を持たれるペアだ。国内3位の東城トランスポートの別府・太田ペアも世界ランキングは8位なのだが、一度も勝ったことがない。

「遠慮することないからな。ガンガン打ち込んでやれ」

「・・・・・」

 ‘試合’が始まると、ギャラリーは軽いどよめきを立てていた。

 終始、斎藤・金谷ペアが大量リードしているのだが、2人の汗の量が尋常ではない。更に、斎藤・金谷ペアはフォームまで崩し始めている。息を切らしながら、力に任せた初速400km/h近いスマッシュを打ちこんで、ようやく点数を積み重ねている、といった状態なのだ。

 片や萱場・佐倉ペアは。日奈も大量の汗をかき、息を切らしてはいるが、斎藤・金谷ペアのような悲壮感はなく、いきいき・のびのびとコート内を駆け回っている。そして、萱場の術中にはまってフォームを崩しているとはいえ、男子世界トップレベルのスマッシュを女子の自分が、‘返せた!’と、嬉々として試合にのめり込んでいる。

 新日本製紙の古城監督は、「恥をかいてでもやらせるんじゃなかった」と今になって唇を噛んでいる。この大事な時期に萱場の野郎、と舌打ちをしながら苛立ちを隠せない。

 コート上に立っている斎藤・金谷自身も、「やるんじゃなかった・・・」と後悔していた。

 萱場がまだ男子ダブルスに参戦していた時、萱場という選手を一番恐れていたのは他ならぬ斎藤・金谷本人たちなのだ。

 2人は萱場ペアのビデオや生の試合を見る度に、「なんて嫌なバドミントンをする選手なんだ」と、その執拗な粘着質のプレーと狡猾一歩手前の‘賢さ’に心底恐れをなした。できればやりたくない、と思った。

 事実、萱場のペアと対戦した相手は仮に勝てたとしてもただでは済んでいなかった。自分達のバドミントンに迷いが生じ、ガタガタに調子を崩され、長いスランプに陥れられた。

 不思議なことに、斎藤・金谷と萱場は公式戦では一度も対戦していない。組み合わせの妙、と言えばそうだが、団体戦でも新日本製紙は、斎藤・金谷ペアを絶対に萱場ペアにぶつけないように、細心の注意を払ってオーダーを組んだ。明らかに避けていたのだ。

 準決勝で萱場ペアに辛勝して精魂使い果たした相手と全日本の決勝戦を行うのが斎藤・金谷ペアの恒例行事のようになっていた。決勝で相手とラリーをしながら、「なんだ、この気の無いプレーは・・・」と、かつて対戦した時の面影もない変わり果てた姿を前に、唖然としながら圧勝して、そのまま毎年世界へ出て行った。

 混合ペアならまさか、と油断し、成り行きで練習試合の誘いに乗った自分達の甘さを思い知らされていた。

そして、2人が一番ぞっとしているのは、萱場の身体に何の変化も見られないことだ。

 敵陣の萱場は自分達と同じように激しい動きをしている。全力でプレーをしているはずなのだ。だが、額・顔・腕・足、どこを見ても萱場は汗の一滴も滲ませていない。息も全く上がっていない。涼しい顔をして斎藤と金谷の渾身のジャンピングスマッシュを厳しいコースに打ち返してくる。

‘化け物か?’

‘萱場さんと当たらなかったから俺たちは今の地位にいるだけなんじゃないか?’

 5年間も世界のトップで戦い続けてきた国内最高のペアすら、既にこのような煩悩を持ち始めている。精神的に萱場に踏みつぶされてしまっている。人間とは、こんなにも弱いものなのか、と斎藤は自分を客観視していた。

 このまままともにプレーし続ければ、俺らは廃人にされる。とは言っても、力を抜いて万が一にも混合ペアに負けることがあれば、そちらの方が精神的ダメージは大きい。フォームが崩れ去り、違和感を感じながらも全力でスマッシュを打ち続けるしかなかった。

 結局は大差で斎藤・金谷が勝ったが、挨拶もそこそこに2人はシャワーを浴びに行った。

 日奈は負けたのに「よし、よし!」と小さくガッツポーズをしながら、ラインズマンをしてくれた女子部先輩の講評に熱心に耳を傾けている。今までの日奈では考えられないことだ。そんな様子を見て先輩も日奈の急激な精神的成長に目を細める。

「日奈は‘負けて悔しい!’っていう闘争心ばっかりで‘反省する’ってことが無かった。今日の一戦、日記につけとくといいよ。それから、萱場さんにちゃんとお礼を言うんだよ」

 体育館の隅で、背を向けてスポーツドリンクを飲んでいる萱場の所へ、日奈は駆け寄った。

「タイスケさん、ありがとうございました!」

 そう言って、振り返った萱場を見ると、風呂から上がったようなおびただしい汗を流し、髪までぐっしょりと濡れている。そして、全身で、大きく荒い息をして、今にも倒れ込みそうに顔面が蒼白になっている。

「タイスケさん・・・試合中は汗一つかいてなかったのに・・・」

 ああ、と萱場はタオルで髪と顔を拭う。

「我慢してたからな」

「え?」

 日奈はまさか、と思ったが念のために訊いてみた。

「我慢してたって、何をですか?」

「汗をかくのを我慢してた」

「!」

 大抵のことは笑って済ます日奈だが、萱場の言うことの意味を言葉通りに捉えていいものかどうか判断しかねて質問を繰り返した。

「・・・そんなこと、できるんですか?」

 萱場は当たり前のように答える。

「うん、30過ぎてから急にできるようになった。本当に、ここぞ、っていう心理戦にもつれこんだ時しかやらないがな。ポーカーフェイスに毛が生えたようなもんだろ」

 そう言ってごくごくと美味そうにスポーツドリンクを飲みながら冗談ぽく続けた。

「まあ・・・年取って新陳代謝が鈍ってるだけなんだろうけどな」

 これまで萱場を怖がったことなど一度も無かったが、日奈はこの時初めて萱場の厳しさに畏怖の念を覚えた。

 この人のバドミントンは最早スポーツの域を超えている、と思った。

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