第4章 ~京編~

16.解離性同一性障害

パソコンの光源だけの薄暗い部屋。

パソコンのディスプレイに表示された検索エンジンを見ながら

『多重人格について』の文字を打ち込む。

静寂な部屋にパソコンのハードディスクとファンの音が響く。

いくつか検索結果が表示される。

俺は『解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがい』をクリックした。

その内容を読んだ俺は深くため息をつく。

要するに彼女は解離性同一性障害なのであろうと確信した。


俺は今日の出来事を思い出す。

彼女と初めてデートをした。

映画を見て、ショッピングに行き、観覧車に乗った。

そして俺は彼女とキスをした。


映画では終始泣いている彼女。

その姿がとても儚く愛おしいと思った。

ショッピングでは時折見せる幼さが残る無邪気な笑顔。

観覧車では海に沈む夕陽をじっと眺め『この景色が一番好きなんです』言った彼女の顔はこれまでにないほど可愛かった。


そして俺は柔らかく優しい彼女の唇にキスをした。

彼女は驚いていた。

俺の心臓は破裂寸前だった。

止めどなく流れる血液が俺の体を熱くした。

遂に思いを打ち明けた。

彼女の表情は嬉しそうでもあり、悲しそうなでもあった。

そして答えは『ごめんなさい』だった。

俺は振られたのだろう。

それでも俺は諦めが悪く食い下がった。

彼女は『幸せになれないと』はっきり言った。

『あの子が立ち直り幸せになるまでは』と。

あの子とは一体誰だろうか?

彼女が傷つけたと言っていたが……


彼女には心の傷があるようだ。

それも俺なんかが想像できないほどの大きな傷が……

その傷に耐え切れなくなったからだろうか?

彼女には別の人格がある。

儚く消えそうな彼女。

明るくエネルギッシュな彼女。

この二つの人格が彼女を構成しているのは間違いないだろう。

彼女がトイレから出てきたとき、彼女の人格は変わっていた。

俺は目を閉じその時の状況を鮮明に思い出す。

 

「あ、京君」

俺は驚いて振り返る。

彼女が戻ってきた。

「京君?」

彼女は今まで俺のことを京さんと呼んでいた。

それなのに呼び方を変えたことを不思議に思った。

初めて声を掛けた時のことを思い出した。

そう言えばあの電車で『では京君って呼びますね』と言っていた。

そう、今、目の前に居る彼女はあの時の彼女と同じだった。


困惑する俺に彼女は

「どうしたの?」

さっきまでの彼女とはまるで違う。

「莉菜ちゃんこそどうしたの?」

俺は混乱する頭でそう聞き返した。

「どうしたって?どういう意味?」

あの時もそうだった……話が噛み合わない。

「えっと……」

俺はどの様に説明をすれば良いか言葉を選んでいた。


「あー!」

彼女は突然、指を差して叫んだ。

驚いた俺は彼女の指差すほうを見る。

そこには先ほどの観覧車がある。

「ねぇねぇあれ乗ろう」

彼女は子供のようにはしゃいでいる。

さっきまで乗っていた観覧車。

キスをして思いを告げたあの観覧車。

彼女は先ほどの記憶がない?

俺は確信した。

彼女は彼女であって彼女ではないと。

彼女をじっと見つめる。

彼女は首を傾け

「どうしたの?」

と聞く。

その顔は笑顔だった。

でも、その笑顔の裏に何か悲しみやさみしさといった感情もあるのに気づいた。

「ねぇねぇ観覧車。観覧車乗ろう」

俺の戸惑いなど彼女は知る由もなかった。


観覧車に走り出す彼女の腕を掴んだ。

そして、彼女を抱き寄せた。

「え?」

彼女の笑顔が初めて消えた。

困惑している表情に変わったのだ。

俺は彼女にキスをした。

鼓動が高鳴る。

だけど、先ほどのそれとはまったく違った。

「ど、どうしてこんなことするの?」

彼女は唇を触りながら少し戸惑っている。

「ごめん、もしかして初めてだった?」

俺は最低だ。

「う、うん」

彼女は恥ずかしそうに答えた。

君は一体誰なんだ!

思わず言葉にしたくなるのをぐっと堪えた。

俺はもう一度、彼女を抱き寄せる。

彼女は少し抵抗をするが俺に身を委ねた。

そしてもう一度キスをした。

やはり違う……

これは挨拶のキスに近い……

彼女は俯きながら

「もう、こんな沢山の人の前で」と恥じらいながら言う。

「ごめん。やっぱり雰囲気が良いところのほうが良かったね。観覧車の時みたいに」

俺は意地悪で言った。

「え?」

彼女は驚き顔を上げる。


そしてもう一つ気になっていたことを彼女に聞いた。

「ねぇネックレスどうしたの?あの指輪を通していたネックレス」

彼女はネックレスをしていない。

首元を触る彼女。

そして

「そう、あの子、あのネックレスして来てたんだ」

あの子?あの子と言った。

「えへへ、京君凄いね。騙し通せないものだね」

笑顔で言う彼女。

「君は一体誰?」

俺は直球で聞いた。

「私?莉菜だよ。樋川莉菜」

その答えは分かっている。

別の聞き方をした。

「さっきまで俺と一緒に居た莉菜ちゃんは今どこに居るの?」

この答えも想像がつく。

私の中に居るよ。だろう。

「うーん」

少し考える彼女。

「たぶん、家に居るよ」

「え?」

想像した答えとは違った。

「家?」

一本道を進んでいたはずが突然迷子になったような気分になる。


そんな俺を見ながら

「それより、どうして分かったの?」

彼女のほうから質問が来た。

この質問は馬鹿げている。

「どうしてって……あまりにも違いすぎるでしょ」

「あ、そう言えば、さみし気で儚げだった」

失敗しちゃったってそぶりを見せる。

「ごめん、騙せると本気で思っていたの?」

俺は少し吹いてしまった。

「もう!意地悪!」

彼女の頬が膨れる。

少し落ち着いた。

「それで、君は一体誰?あ、樋川莉菜って答えは無しで。それは分かるから」

逃げ道を塞いだ。

「うーん、今はまだ言えないかな。そのうち話すね。だからこれで許して」

彼女は俺の腕を掴むと引っ張った。

そして頬に軽くキスをした。

「えへへ、さっきのお返しね」

彼女は照れ笑いを浮かべながらそう言った。


周囲の街灯が灯り始める。

「それより、観覧車!」

どうしても観覧車に乗りたいようだ。

「はいはい」

俺はそんな彼女ともう一度観覧車に乗ることにした。

彼女と同じ姿と声の別の彼女と。

観覧車の中で彼女はうっすらと赤色を残した空を眺めている。

その横顔は何か思い詰めた表情に見えた。

さっきまでの彼女とは少し違う。

でもあの儚げな彼女とも違う。

「あ、家見えるかな?」

彼女はそう言うと自分の家のある方角を眺め、

「全然、見えないや」

と言った。さっきまでの思い詰めた表情は消えていた。


「で、あの子とキスしたの?」

突然の質問に少し戸惑った。

「あ、うん……」

彼女のことを思い出すと胸が少し苦しくなる。

「あの子どうだった?」

「可愛かった」

素直に言った。

「そうか、可愛かったか……じゃなくて、どんな様子だった?嬉しそうとか?嫌がっている感じだったとか?」

彼女は意地悪な笑みを浮かべながら聞いてきた。

「うーん……正直分からない……」

嬉しそうな表情と悲しそうな表情の両方があった気がした。

「なにそれ?全然分からないじゃない」

彼女は呆れた様子でそう言うと

「じゃあじゃあ、私とのキスとあの子のキスとではどっちがドキドキした?」

またも意地悪な笑みを浮かべる彼女。

「君じゃない莉菜ちゃん」

即答した。

「な!ちょっとは考えてよ。同じ顔じゃん、そこは普通一緒じゃないの?」

少し膨れる。

「全然違った」

またも即答した。

「結構ショック」

そう言いながら笑う。

「まぁ実際、あの子は喜んでいたと思うけどな」

彼女は嬉しそうにそう言った。

「そうかな?告白は見事に失敗に終わったけど……」

「な!告白もしたの?」

「うん……」

彼女は俺の肩をトントンと叩いた。

「まぁ、なんですか……その……とにかく、どんまい」

彼女はこれでなぐさめているのだろうか?

「でもどうしてだろう?あの子絶対京君のこと好きだと思ったのになぁ」

「え?そうなの?」

「うーん……分からないけど」

彼女は笑顔でそう言う。

「なにそれ?結局分からないんじゃん」

彼女のペースに乗せられているのだろう。

少し元気が出てきた。

これが彼女の慰め方なのかも知れないと思った。

「だって会ったことないもん」

彼女はあっけらかんと言った。

それもそうか、彼女が表に出てきている時はもう一人の彼女は眠っているみたいなものなのだろうと勝手に思っていた。

少し元気を取り戻した俺は彼女に

「ありがとう」と告げた。

彼女は何も言わず微笑み返した。


先ほどまで微笑んでいた彼女の表情が変わっていく。

彼女はとても真剣な眼差しで俺を見つめる。

観覧車は頂上付近に差し掛かっていた。

「どうしたの?」

俺が聞くと

「あの……あのね……私……今しか出来ないことをどうしてもどうしてもしたいの……」

彼女は思い詰めた表情でそう言う。

「別にいいけど……何がしたいの?」

俺の答えを聞いた彼女は立ち上がった。

一度、外の景色を眺めてから、俺に近づいてきた。

俺の前に立った。

そして彼女は両手を出すと、俺の後ろにある観覧車の手すりを握ると

「えい」

と声を出し観覧車を揺らし始めた。

「え?」

俺は唖然あぜんとした。

彼女は楽しそうに観覧車を揺らしている。

やがて満足したのか

「ふぅ、やっぱり観覧車に乗るとこれやらないと駄目だよね。しかも頂上で」

とても楽しそうだった。

「揺らしたかったの?」

よく分からないけど、観覧車って揺らしたくなるものなのか?

「え?基本でしょ?」

彼女は真剣にそう答えた。


まだ少し揺れている観覧車の中で彼女は席に座ろうとするが自分のバッグの上に座ってしまった。

「きゃ」

驚いて飛び退く。

その勢いでバッグが席の下に落ちた。

中身が全て散乱してしまった。

「あちゃー」

彼女は失敗って表情でバッグを拾い上げ、席の上に置く。

俺は散乱した中身を彼女と一緒に拾い上げる。

何かの錠剤じょうざいが目についた。

俺はその錠剤を拾うと手を伸ばすが、彼女の手のほうが早かった。

彼女は錠剤を慌ててバッグにしまう。

「それは?」

何も考えずに聞いてしまった。

「うん?なんでもないよ」

彼女はそう言う。

「そうなの?」

「うん。なんでもない。なんでもない」

しまったと思った。

聞いてはいけなかったのだと確信した。

「さて、降りたら帰ろうか」

彼女は何事も無かったかのようにそう言った。

「うん、そうだね」

俺は彼女に同意した。

「京君は今日はラッキーだったね」

彼女は笑顔でそう言う。

「え?どうして?」

「だって、あの子とのデートと私とのデートだよ。これはラッキーでしょ」

「そうだね」

俺がそう言うと、彼女は満足げに笑った。


地上に戻り観覧車を出た俺たちは駅に向かって歩き出す。

他愛のない会話をしながら電車に乗って彼女の最寄りの駅に着いた。

「今日は短い時間だったけど、楽しかったよ。また会えたらいいね」

彼女はそう言った。

「俺も楽しかったよ」

俺は軽い感じでそう言うと

彼女は電車から降りて振り返ると

「あの子のこと諦めないでね。京君が頑張ってあげてね」

微笑みながらそう言うと

「さよなら」

彼女はどこか悲しそうに最後にそう言い残し、歩き去った。

振り返ることなく。

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