交換女
「ただいまー」
私は誰に言うでもなく、何もない空間に語りかける
合鍵を使って、大好きな彼の家に上り込む
いつもの見慣れた景色。自分の部屋といっても差し支えない空間
朝倉君はまだ、帰って来てないか…バイトの時間だね
靴を綺麗に並べ、部屋に入る
「もう…またペットボトルが、机の上に置きっぱなしになってる
しょうがないなぁ」
袋にペットボトルを詰め、机の上を綺麗にする
高校生だった時には、こんな事になるとは考えても見なかった
好きな人と、同じ空間を共有できる喜び。毎日が幸せだ
ベランダに干していた洗濯物も取り込む
洗剤の、優しい匂いがする
「今日は天気が悪いから、出しっぱなしだと洗濯物が雨で濡れちゃうよ?
もぅ、天気予報見てないんだからっ
しょうがないなぁ…」
台所の食器も片付け、部屋中に手を入れる
部屋での用事があらかた終わり、ひと段落する
「疲れたー!」
私は、大好きな彼の布団にもぐりこむ
彼のバイトが終わるまで、ここでゆっくりしよう
布団には大好きな彼、朝倉君の匂いがする
暖かくて、赤ちゃんみたいな優しい匂い
この優しい匂いを、独占している幸福感
私は、枕に顔を埋め、精一杯彼との幸福を享受する
高校生の頃から、願い続けていた
大好きな彼との、空間の共有
幸せ幸せ幸せ…
布団にくるまりながら、昔の出来事をなんとなく思い返す
3年前、私と朝倉君が高校一年生だった頃、
スポーツしている朝倉君の姿に、私は一目惚れした。
来る日も来る日も彼のことを考え、朝倉君の事を忘れた日は無かった
気が付いたら、何も話せずに2年が経過していた。
好きだから緊張して、朝倉君と会話できなかった
高校三年生の時に、同じ大学に進学すると知った時は、彼に近づくチャンスだと思った
大好きな彼と一緒になりたい
まず私は、彼が一人暮らしを始める、借りた部屋を調べた。
私は、いくつかの不動産に出向き、学生向けの部屋を見て回った。
大学からの距離、家賃、寮生活の生活水準から、いくつかあたりをつけた。
引越し当日は、その内の1つで私はずっと待った
ずっとずっと…
沢山ある候補の中で、きっとこの部屋が、朝倉君が住むに違いない。
いや、絶対、この部屋に朝倉君は引っ越す。
そう盲信めいた場所で、ずっと待ち続けた
きっと、ここだといいな。
違っていたら、大学生になってから、朝倉君の帰り道をついていこう。
待ち続けて、3時間経つ頃には、淡い期待と不安が、灰色の諦めへと変化していた。
更に待ち続け、昼に知らない車と、毎日のように見ていた彼が見えた時は、
大きな喜びと共に、私は運命を感じた。
これは運命だ。
朝倉君と、私は、運命で繋がっているんだ。
不動産で調べていた時に、隣の部屋が空いていたのを覚えていた。
念の為に申し込んでいた予約を、その日の内に確定させる。
これで数ヶ月後には、壁一枚を挟み、毎日数メートルの距離に彼がいる事になる。
これで彼に近付ける。
これで大好きな朝倉君と、同じ空間を過ごせる。
2週間後、私は朝倉君の隣に越した
毎日、好きな人が隣にいてくれる幸せ。
暇さえあれば、壁に耳を当て、彼の生活音を聴き続けていた。
盗聴器が欲しいなぁ…
大学生になったら、好きな人のために、少し大胆になれるかなと思っていたけれど、
いざ、本人を目の前にしたら、緊張して上手く喋れなかった
朝に出かけるタイミングを合わせ、偶然を装った挨拶が精一杯だった。
「あ、朝倉君、おはよう」
「高木さん、おはよう」
「本当、隣同士とか偶然だね」
「そうだねー。一緒に大学まで歩こっか
高校の時は全然話さなかったんだし、高木さんの事教えてよっ」
「あ、あ、あの、
ちょっと用事で別のとこ行ってからだから、先に行っちゃってて!」
「あ、そう?ごめんねっ」
せっかくのチャンスを棒に振ったことを、少しだけ後悔した
私は変化が怖かった
毎日、見ているだけで良かったのに、近付きすぎたかもしれない
環境が変わる事によって、朝倉君との関係性が良くも悪くも変わってしまう
朝倉君に興味がないと言えば、嘘になる
好きかと言われたら…そうなのかもしれない
付き合いたいかと言えば…少し疑問だ
高校生の頃から、この感情は変わらない。
それに私は…アレが欲しい
大学では共用のロッカーがあり、朝倉君はいつもカバンを入れていた
4桁の番号で開け閉めするタイプで、番号さえわかれば誰でも開けられた。
どうにかして、朝倉君のロッカーを開きたい
私は、そのことばかり考えていた
一度、わざと開けられないフリをし、マスターキーで開けてもらった事があるけれど、その場合は、学生証や免許証など見せ、本人確認が必要になっている
「やっぱり、番号を割り出さなくちゃ」
とりあえず、4桁の数字を適当に回してみるけれど、当然朝倉君のロッカーは開かない。なんとなく、周りの人達のロッカーの番号も、メモを取って調べてみる
何日かにかけて、人と数字の傾向を調べていたら、ある法則に気が付いた
佐藤君のロッカーは、一桁目以外の残り3つの数値がいつも同じ…
まさかと思い、試しに一桁目だけを回しつつ弄っていたら、6の数値の時に開いた
私は、他人の秘密に踏み込めた事に興奮した
朝倉君のロッカー開錠まで、一歩近づけた気がした
野木君は誕生日の1128
中野先輩は、4桁とも同じ数字のゾロ目
成績は良いけれどやっぱり先輩はちょっと馬鹿っぽい
大学で知り合った和田さんは、携帯電話の下四桁の2639
馬場君はその日の日付
誰だか知らないけれど、1234なんてものもあった
結構皆、適当なんだな
かく言う私も、朝倉君が高校生の頃の、寮の部屋番号だったりする
「…でも、今日もダメ…」
一向に、朝倉君の秘密にはありつけそうになかった
思いついた番号はことごとくダメだった
全通り試そうにも、長く弄っていたら怪しまれてしまう
あと1週間で見つけないと、私はきっと、狂ってしまう
暗い気分で、朝倉君の隣のロッカーの扉を開ける
朝倉君の隣が、私の居場所
ふと、開いていて、鍵の掛かっていない扉が視界に入る
それはゾロ目の4桁の数値であった
ゾロ目だから中野先輩だ
扉が開いてるから、ロッカーを使った後かな
思いついた
3日後、私は3301の4桁の数字で、朝倉君のロッカーを開いた
「もう、朝倉君ったら…不用心なんだからっ
私が泥棒だったら…危ないよぉ?うふふ」
朝倉君は、先輩と同じように、ロッカー使用後の番号がいつも同じだった
そう3301
「本当に不用心」
私は目的と手段を混合しない
素早くカバンをまさぐり、目当ての物を探す
「あったぁ。うふふ、本当に本当に不用心」
かばんの中には、朝倉君の部屋の鍵が入っていた
私は、朝倉君が住む部屋を当てたし、暗証番号も当てたし、想定通り鍵がカバンに入ってた
偶然じゃなくて、運命なんだ
2度目の笑いをこらえて、素早く鍵の型をとる
朝倉君の合鍵を手に入れた
これで、私は朝倉君と近付けた
私は濡れた
それから毎日、私は朝倉君の部屋にお邪魔している
なんとなく昔の事を思い出し、現状の悦びを再確認していたら、
それなりに時間が経ってしまっていた。
そろそろ、朝倉君がバイトから帰ってくる時間だ
名残惜しかったけれど、私は布団から重い腰をあげた
後10分…いや、20分はいても大丈夫なハズ…
でも見つかったら、もう朝倉君の部屋に入れない
部屋の飲み物や洗濯物を再度確認して、朝倉君の部屋を出る。
合鍵で彼の扉を閉める
外を見たら、やっぱり雨が降り始めていた
「もぅ…天気予報は見なくちゃ駄目だよ?」
周りに人がいない事を確認したら、隣の私の部屋に戻る。
私は、ライターとハサミを取り出した
ライターでハサミを炙る
「良かったぁ。私の毎月の習慣を守れて。」
持ってきた朝倉君の下着を鼻にこすりつける
匂いをひとしきり嗅いだ後、鋏で切り刻む。
一口大になった下着を口に含んだら、幸せが溢れる。
反射のように沢山濡れた。彼の下着を食べれてよかった。
こんな素敵で、独占的で、官能的な悦びをお預けされてたら、私はきっと狂っていた。口に含めば幸福を感じ、一度知れば何度も欲しくなる。
まるで麻薬だ。
麻薬を嗜みながら、もう一枚の下着をベランダに干す
冷蔵庫には飲みかけの飲み物を入れ、台所には皿を置く
机の上には、朝倉君の部屋で片付けたペットボトルを置く
私の部屋は、朝倉君の部屋と、まるで鏡のように同じ空間になっている
布団に潜って、再び朝倉君の匂いを嗅ぐ
もちろん、布団も朝倉君の布団と交換している
私の部屋だけれど、彼の部屋。
少しずつ、朝倉君の部屋と同じものを購入し、
少しずつ、朝倉君の部屋の物と購入品を交換し、
少しずつ、私の部屋を朝倉君の部屋に変えていく。
布団は勿論、机やシャンプーも交換済みだ。机の上のペットボトルもそう
わざわざ買って、空にしたものを交換した
これも、彼の部屋を彩る小道具なんだ
「本当、ペットボトルとかすぐに捨てないんだから、しょうがないなぁ
ふふふふふふふふ…」
布団に潜りながら、机の上にある空のペットボトルを見つめる
今はまだ少しだけしか演出出来ていないが、いつか全てを朝倉君色に模様替えするんだ
交換作業が終わったら、外に出る。雨が降っているけれど、傘はささない
傘をささないから、服が雨に濡れて肌に張り付く
玄関から回れ左をして、建物の裏へ回る
視界に入れたのは朝倉君と私のベランダ
まるで鏡のように、同じ男物の下着とシャツが干されていた
「もう、本当にしょうがないんだからぁ
天気予報見てないから、洗濯物が雨に濡れちゃってるよ?」
もう片方には男物だけでなく、女性物の下着や服が見えた
私のベランダだ
「私の服も、雨で濡れちゃった…
私も、天気予報確認してなかったからしょうがないよね」
朝倉君の下着が、雨でびしょ濡れになっている
私のシャツが、雨を吸い込みすぎて、ハンガーから床に叩き落ちる
私と彼が、同じ環境で過ごしている事を、再確認する
ひとしきり見て満足したら、表にまわって彼の帰宅を待つ
当初の予定通り、五分後には走ってる彼の姿が見えた
「やっぱり傘を持って行かなかったんだね
折りたたみでも持ってたら良かったのにね」
雨で凄く濡れた彼を見て、私も濡れる
もう雨なのかどうか分からないほどに
私も彼も、雨でずぶ濡れ
全てを朝倉君と共有する悦びに、体が震えた
朝倉君に見つからないように部屋に戻ったら、ベランダの洗濯物を取り込む
「あーあ、服がびしょ濡れだよぉ。仕方ないなぁ…」
雨に濡れた、朝倉君の下着の臭いをかぐ
雨独特の土臭い匂いと、洗剤の匂いが混ざり合う。
隣から、洗濯機を回す音が聞こえた
濡れた彼の下着をひとしきり嗅いだら、私も服を洗濯にかける。
雨に濡れてしまったボクサーパンツを夕食にするのも、悪くないかな
あれだけ濡れてたし、きっとお風呂に入ってるよね
きっと今日もシャワーかな
いや、シャワーを浴びてるに違いない
毎日、ガスメーターを見る限り、お風呂にキチンと入っているのは日曜日だけ
私もシャワーを浴びよう。風邪引いちゃう
もし朝倉君が風邪引いたなら、それはそれで
一緒に風邪をひいたら、どうなるかな
毎日家に帰ったら、彼と同じ空間にいる悦び
この悦びが、いつまでも続くと思っていた
数ヵ月後、朝倉君の部屋に入ったらいつもと違う、微かな臭いに顔をしかめた
タバコ…?
すぐに原因は分かった
朝倉君はタバコを吸わない。朝倉君と仲が良い、馬鹿の中野だ
昨日は、壁の向こうから、あいつの大きな声が聞こえてとても不快だった
毎日壁に耳を重ねる私の都合も考えてほしい
あいつ、タバコを吸っている。昨日泊まりに来ていたし、絶対にあの馬鹿だ
タバコの煙の匂いが、朝倉君の香りと混ざって不快なものへと変わり果ててしまっていた
布団の臭いを嗅ぐと、爽やかな朝倉君の顔と共に、あの坊主頭が呼び起こされる
私にとって致命的だったのは、部屋の中より、外の洗濯物の方がずっと臭い事だった
一応、あの坊主頭は気を使って、外で吸っていたのだろう
洗濯機の中の、朝倉君が昨日着ていたシャツを嗅ぐと、とても強い煙の匂いがした
朝倉君は優しいから、あの坊主のために、
ベランダでタバコを吸わせながら、一緒に外でお話ししたりしてたんだろうな
外に1人で放り出して、鍵でも閉めておけば良かったのに
朝倉君は優しいから、私と違ってそんな事しないんだね
月に一度の私の楽しみが、あの狐野郎に奪われた気持ちだった
二枚の麻薬は、本来の赤ちゃんの優しい洗剤の香りと、人工的な果物の煙たい臭いが混ざりあっていた
許せない。あの狐目、こんな事しやがって
習慣と化していたので、赤と黒のボクサーパンツは交換した
それから、定期的に朝倉君の部屋から、タバコの臭いがするようになった
私と朝倉君の、大事な部屋を壊された気分だ
うっすらと、意識しなければそれは臭わない…
けれど、私にとっては大事なテリトリーを侵された事に他ならない
消臭剤を使いたいけれど、私はあの狐の坊主頭を殺したいだけで、
朝倉君の匂いは殺したくない
朝倉君の部屋を再現するために、自分のベランダでも吸わないタバコに火を付ける
忌々しいけれど、この煙の臭いが、今の朝倉君の部屋の要素の1つなんだ
あいつの事なんか知りたくないのに、タバコの銘柄を調べるためにゴミを漁った私の姿は、滑稽で、無様で、情けなかった
あいつ、昨日は4本も吸いやがった
ベランダに置いてある百均の灰皿を見るたびに、殺意が湧いてくる
あの灰皿は朝倉君じゃない
なんで朝倉君のものじゃないものを、私が揃えて買わないといけないんだろう
きっと、朝倉君の肺は副流煙で毒されてる
かわいそう…
私も、朝倉君と同じように肺を煙で犯しながら、殺意を育てる
ベランダから部屋に戻った私は、
匂いのついたシャツを、脱いで布団に叩きつける
タバコの臭いを移すために
「くそっ!くそっ!くそっ!
うっ・・・ うえっ・・・・ えっ・・・」
中野だけじゃない、もし、これから彼女ができても、朝倉君自身や部屋の内装は変わってしまうだろう
多少の変化は、人にはあるかもしれない
でも今回みたいに、許せない事がこれから絶対に何度も起きる
中野を殺す…?
でもそんな事したら、朝倉君は悲しむ
私が朝倉君と付き合って、タバコについて小言でも言えばなんとかなるだろう
でも、それは朝倉君の意思じゃない
私は、朝倉君の思いのままに作った空間に、一緒にいたい
私は朝倉君を縛り付けたくない
朝倉君に私の刺激を与えたくない
愛しているから
今理解した
私は、朝倉君の事をこの世の誰よりも愛してる
でも、そんな朝倉君に私を介入させたくない
朝倉君とは付き合えない。朝倉君を見守りたい
だとしたら…やる事は決まっている
「高木さーん待った?」
「大丈夫です。今来たところです
それよりも、先輩と腕を組んでみたい」
「えへへへ、まさか、高木さんが、俺の事が好きだったなんて…
こんな可愛い子が俺のことを…」
「実は…一目ぼれなんです。だから、今とっても幸せ
でも先輩の事、好きなんだけどね…」
「あ、わかってるよ。今はタバコは吸ってないから」
「嬉しい…大好きです」
「えへへへ、幸せだなぁ。ちゅーしよう」
男なんて、愛嬌を振りまいて近付けばなんて事はなかった
これからも、朝倉君に近寄って悪い影響を与える奴は矯正してやる
必要なら社会的に抹消してやる
女にだってなんでも出来る
朝倉君のためにそばに居続けよう
同じ空間にいるために…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます