#2

「かなわないって思ったんだ。そんなの初めてだよ。住んでる世界が違う、って」

「そんなこと」そう言ったさほ子の言葉を、博人がさえぎる。

「うん。きっとね、本当はね、そんなことなかったんだ。今ならわかる。

 けど、あの時の、どうしようもなく手の届かなく見えたあなたに、ぼくは自分を見失うくらい恋したんだ。そう。訳が分からなかったよ。抱きたいのかも、一緒になりたいのかも。なんだかわからないまま、とにかくあなたに惹かれた。

 ただただずっと、そばにいたかったんだ。手に入らないならいっそ、ただ黙って近くで見てるだけでもいいと、本当にそんな風にさえ思ったよ」

 うん、とさほ子はうなずくしかなかった。言葉が重なるたび、すこしずつ、悲しみの薄い膜が、心に折り重なっていく気がした。

「本当は、セックスだってどうでも良かったのかも知れない。ただ、こうして、肩を並べて、気軽に話す時間が、一番欲しかったのかもね。でもそういうの、全然思いつかなかったよ。これっぽっちも発想できなかった。あなたに振り向いて欲しくて、必死だった」

「もう、」思わずさほ子は口にした。「もう、そんな風には思えないの?」

「あなたの前で裸になって。あんなに欲しがったあなたと、でもセックスできなくて。けど、不思議と惨めな気持ちはなくて。自分でも変な感じだったよ。酒に酔ったみたいにさ。けどね、そのとき気づいたんだ。自分が必死だったことに。あなたに似つかわしい男であろうとして、無理をしていたことに。勃起しないおちんちんが、そう、教えてくれたんだよ。お前には、無理だ、ってさ」

「どうしてそんな風に思うの?」

「うん。勝手だよね。もしかしたら今でも、あなたの前では、リラックスして振舞えないのかも。無理に格好つけたり、いい人ぶっていたいのかも」

 言って、博人はうんうん、と自分の言葉にうなずいた。

「縁がなかったって言えば、すごく薄っぺらいけど。でもね、いまは、すごくニュートラルな気持ちでいられるよ。リラックスできてる」

「うん」

「愛の告白、しようか?」ニヤリと笑って、博人は言った。「すっごい熱い奴がいい? それともラフな感じがいい?」

 さほ子は笑った。本当は泣き笑いだったけれど。

「馬鹿ね。あなたって」からからと、のどを上げて笑った。

 そして、背中を海の側に倒した。博人の横顔が、すぐそこにあった。

 自分から、選び取る時だ、とさほ子は思った。今こそ、自分らしく、一番正しい行いをするのだ、と思った。それは意外にも、ものすごい勇気の要ることなのだ、とその瞬間、気づいた。


 海を見ている博人の横顔が、スローモーションで、こちらを向く。

 さほ子は、そっと、目を閉じた。そして、ほんのわずかに、顎を上向けた。

 博人はその気持ちをきちんと汲んだ。

 ふたりの肩が少しだけ触れるだけ。手も添えず、声も出さずに、彼はそっと、やさしくゆっくりと、そのみずみずしくふくらんだ唇に、キスをした。


 唇を、博人から離した。

 さほ子は今一度、背を起こし、背筋を伸ばしてベンチに座りなおした。

 ふたりは真逆を向き合ったまま、言葉を失っていた。

 博人は、さほ子と知り合った中で、いちばん心地の良い時間を持っていた。そしてさほ子も同じ気持ちであることを理解していた。

 もうこれ以上、自分たちに物語がはじまることはない、と知った。

 それをすこし残念に思ったけれど、でもとても清々しい心持ちを、彼は味わっていた。

 隣に座るさほ子が、クラッチバッグをまさぐっている。何事か、と博人は思った。

「見ないで」とさほ子。

 博人は笑って、海を見ていた。

 まだ港は、金色のさざなみに覆われていた。貨物船と駆逐艦が、ゆっくりと視界を横切っていた。


 と、不意に何かが宙を浮いているに気づいた。

 握りこぶしほどの大きさの、透明な。

 シャボン玉だ。

 風に乗って、あっという間に手の届かないところへ運ばれてゆく。

 するとまた、次々に、シャボン玉が飛んでくる。

 風に吹かれて、七色のオイル模様を表面に流転させながら、いくつもの大きさのシャボン玉で、博人のまわりの空間が満たされる。

 夕日の光線を反射する、金色の海を背景に、七色のシャボン玉が空間を圧倒する。そしてあっという間に、風に吹き流されてゆく。

 あぁ、と彼は思う。

 いま、自分は振られてゆくのだ、と直感した。

 この美しい人をいま、失ってゆくのだ、と理解した。


 彼のとなりで、シャボン玉を吹きながら、さほ子はほろりと、一粒の涙をこぼしていた。

 その涙にも、夕暮れの光線は等しくオレンジ色の光を投げかけた。

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