フレンチ・キス
#1
「いまでも、あたしとセックス、したい?」
その言葉は博人の胃を、きゅっと縮こまらせた。
その言葉からは、さほ子の気持ちを図りかねた。あの頃だったらそれが、誘惑なのかジョークなのか、すぐにでもわかったのに。そして間髪入れずに気の効いた返事を繰り出せたというのに。
彼女の、さほ子の目を見てはいけない、と思った。
ノォ、という、自分の答えが透けて出てしまうような自分の目を、顔を、彼女には見せられないと思った。
それは、その気持ちを隠したいという自分の都合でなく、彼女を傷つけまいとする優しさから出た言葉だ。
傷つけまい?
博人は瞬間、自問する。
ということは、さほ子のその問いは、ジョークでなく、シリアスな問いだというのか?
そうだとするなら、なおのこと、自分はなんと答える? 直感が導き出した結論を、理性がなぞってゆく。そう、それは…。
「それは、」と博人は口を開く。金色に輝く海を見たまま。そのまま、言葉が12月の空に消えた。
言った瞬間に、さほ子は後悔をした。
そして自分がとても幼い子どものような気がした。まるで自分の息子たちと同じだ、と彼女は思う。正しい言葉の使い方を知らず、あちらにぶつかり、こちらにぶつかりしながらコミュニケーションの仕方を学んでゆく彼らと、まるっきり同じだ、と彼女は思う。
いつも、男たちにちやほやされてきた。
自分はそこで微笑んでいるだけで、彼らは彼女にさまざまなものをもたらした。彼女はそれを選ぶだけでよかった。ただしい選択をし続けること、が男女関係におけるさほ子の基本的なスタンスだった。時に間違いを犯すことはある。それは学習となり、次の機会には正しい選択ができるような知識を与えてくれた。
でもさほ子は、自分から能動的に何かを掴み取ったことがなかった自分自身の歴史を、その瞬間痛烈に意識した。
言った瞬間に、さほ子は後悔をした。
自分は、正しい言葉遣いができないのだ、と思った。「あたしとセックス、したい?」ではなく、「あたしは、あなたと、セックスがしたい」と言うべきだったのだ。
現に、自分のとなりにいるこの彼は、言葉をなくしてしまったではないか。
「ごめん、ごめん」と彼女は言った。「困らせるつもりはなかったの。ごめんね」
「いや、こっちこそ」と、博人は答える。
「あのね、」と彼はさほ子の方を向いて言う。その顔を見て。その目を見て。
「どうしたんだろ、って自分でも思うよ。あなたのこと、あんなに好きだったのに」
「うん」
「あの時、セックスできなかったことが原因なんじゃないんだ」彼は照れくさそうに髪を掻きながら言った。「きっとそれも、別にある原因のひとつの結果なんだ」
「どういうこと?」
「理屈っぽい話だけど、いいかい?」
さほ子は、肩の力が抜けるのを感じた。優しい男だ、と改めて思った。
「もちろん」そういって彼女は立ち上がると、海に背を向け、改めてベンチに座りなおした。博人と真逆、芝生の丘越しに、暮れかかってゆく冬の空が見えた。さほ子はそっと、がっしりとした博人の肩に、自分の肩を預けた。「つづけて。聞かせて。あなたの、理屈」おだやかな気持ちだった。
ちいさく博人はうなずく。
「あの日、言ったよね? 『妄想と、リアルがつながらない』って。あなたみたいなタイプの人、ぼくは初めてだったんだ。聡明で、鋭くて、美人で」
あはは、とさほ子が笑った。「ほめ過ぎよ。あぁ、気持ちがいい」
「スタイルもセンスも良くて、それに―――」
「それに?」
「エッチで」言って、博人は笑った。さほ子も微苦笑した。
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