#2
日が沈んだ街路は、オレンジ色の水銀灯や、商店の明かりに照らされている。
アスファルトの路面には、路面電車のレールがカーブして埋め込まれ、その銀色のレールが街灯に照らされて、オレンジ色に輝いている。
ふたりで4車線道路の真ん中に作られた、コンクリートの島のような路面電車のホームに立って、新市街へつづく路線の電車を待つ。彼女の左手は、博人の右手に包まれて、さらに彼のダッフルコートのポケットで温められている。
やがて黄色に赤のラインの入った、市営電車がやってくる。小さな二連結の車両だ。
彼らの目の前で停車した車両の前側のドアは、中心で折りたたまれて開き、彼女が先に電車のステップを上がる。
その時、車両の中央側のドアが開き、男女のカップルがホームに降りてきた。
博人の時間が、止まった。
そこにさほ子がいた。
まるで、奇跡のように。
最初に博人が思ったのは、何故ここにさほ子が?、という素朴な疑問だった。そしてすぐ近くの、いままで自分たちが滞在していたホテルに思い至った。
彼の身体は半自動的に、車両のステップに右脚をかけ、体重をそちらへ移し始めた。
さほ子は、こちらを見ていた。
車両に乗り込む博人。
連れ合いのハンサムな男性に手を引かれて、ホームに降り立つさほ子。
彼女の目には、驚きの色はなかった。
一万分の一秒だけ、さほ子は唇を曲げ、目尻を下げた。
刹那の微笑。
瞬間のほほ笑み。
それだけで、博人にはすべてが理解できた。何もかもが、すっと見通せた。あの階段室での抱擁の時のように。
さほ子は、ホームに近づいていく電車の中から、博人に気づいていたに違いない。
なおかつ、つれあいの男性にはその気持ちを隠し切っていた。
そして、博人にだけ、こっそりと親密な目配せを送ってくれた。
あの、黒いヒップハングのランジェリーの写真が、白い柔らかそうなAラインのコートを着た彼女にオーバーラップする。
博人は何度もそのメールを読み返し、そしてその意味を汲み取ろうとした。
そしてそこには何の意味もないのだ、と結論した。
時候の挨拶のようなものだ。さほ子なりの。そしてわずかに、煮え切らない彼をなじるニュアンスを、そのセクシーなショーツの写真に感じた。
それも含めたさほ子の微笑だった。
こんばんわ。おひさしぶり。
元気だった?
私もこのとおり、素敵な恋人と楽しくしているわ。
あなたの彼女も素敵なひとね。
ねぇ、いまでもあたしとセックスしたいって思う?
ふふ。
それはあなた次第なのよ。
わずかなのすれ違いの瞬間は、極度の集中で、何時間も続くスローモーションのように引き伸ばされる。
もう片方の足を車内にひきこむと、目の前の機械から整理券を抜き取る。
博人の背後で入り口のドアが閉まり、車両の中央で出口のドアが閉まる。圧搾空気のため息が、二箇所で聞かれる。
年若いガールフレンドは手すりにつかまって、窓の外を見ていた。
彼はもう一度、車両の窓からさほ子を探す。
さほ子は、道路の真ん中のホームの端の階段へ向けて、歩いていくところだった。片手は連れの男性の手を握り、空いた手を、自分の白いコートの腰へ回していた。
そして、その手は、Vサインを作っていた。
博人はその瞬間、隣にいるガールフレンドのことを忘れた。
さほ子と博人だけがそこにいて、ふたりだけが分かり合える何ごとかをそっと、分かち合っていると信じた。透明な鼓動が、ふたりのあいだを行き交った。そこにはどんなモラルも、ルールもなかった。
あぁ、ぼくはあの人を愛し始めている。
どうしようもないくらい、彼はそう思った。
ただの一度も、くちづけさえしたことがないというのに。
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