ミネ
食べて、増えて、死ぬ。その単調なサイクルは幾度となく繰り返された、生命の営み。あらゆる生命は食う側であり、食われる側である。それを知る個体はほとんどいない。
仲間が食べられる光景、それを目の当たりにして初めて知り得ること。ただ孤独に生きているのなら、最期を迎えるその瞬間まで、己こそが捕食者と錯覚したままだ。
砂漠の地下深くは、砂で支えられた洞窟が点在し、その大半は淡い光に包まれている。地上に葉を広げ、受けた光を根まで送り放出する、奇怪な生態を持つ青い植物の恩寵だ。光は植物の成長を促し、崩壊と形成が繰り返される空洞の中で多くの生物が生き永らえていた。
ミネはその内の一匹だ。白い綿毛に覆われた小さな動物。どれとも知れぬ植物の根を齧り、果実に集う虫を食べる。湿った砂に含まれる水を体毛で吸い取り、淡い光の下で眠る。遠い昔、一本の根を平らげるのに何週間もかけていた。果実に集う虫と肩を並べていた。
同じように育つ者はいて、しかし気付けばいなくなっていた。遥か上、輝かしい光で満たされた、ここではない何処かに行ったと誰かが言った。ミネは、その言葉を理解しなかった。食べて、眠り、それだけが全てだった。
今では、果実に連なる全てを食べてなお満たされなくなっていた。歯は鋭くなり、綿毛の小さな動物までも、求めるようになった。
その頃から、黒い甲殻を持つ、細長い生物を見かけるようになった。観察するようにミネの周りをうろつき、ふっと砂の中へ潜る。妙な行動をしているが、不思議に思うことは一度もなかった。あれは大きく、素早い。
ミネにとって、食べられる対象でないのなら、注意を払う必要はないのだ。
ほどなくして、あの細長い生物が砂の壁に穴を空けて現れた。触覚と黒い目は何かを推し量るように、その体を観察する。一方ミネは気にも留めず歩みを続けた。瞬間、足に強い痛みを感じた。綿毛ごと、足の肉が抉られていた。視線をずらすと、黒い甲殻に肉がこびりついていた。肉は赤い血と白い綿毛で彩られ、みるみる内に何処か、口の奥へ吸い込まれていく。
食べるという行為は知っている。そしてミネは、食べられる行為を知り、捕食者という存在を知った。食べられたらどうなるか。ミネは知らない。口の中でかみ砕かれた根や虫や動物は、体のどこからも現れない。消えて無くなる。それがこれから、自分自身にも起きようとしている。痛みは単純な結論を与えていた。食べられるのはとても痛い。痛みは回避するべきだ、と。一歩、退いた。
細長い生物は砂に埋もれた残りの体も引きずり出し、口を広げながらゆっくりと近付く。まだ満たされてない。もっと、もっと、もっと。血も肉も、何もかも。
足りないから食べる。食うに値するものを。未熟な果実は見守るように。熟した果実はすぐ食い尽くすように。小さな虫には見向きもせず、片手に収まらないような大きい虫ばかりを食べるように。ミネは育ち過ぎた。獲物にされる程度には、大きく、肥えている。
傷ついた足をかばうようにミネは逃げた。頭上からは砂がパラパラと落ち始めている。砂で支えられていた洞窟が崩れ、新たな洞窟が形を成そうとするその兆候。食う側、食われる側共にそこへ注意を払うことはなく、喉笛を噛み切る瞬間、巨大な口が閉じようとする瞬間、洞窟は激しい流砂を伴って崩壊した。
ミネは幸運であった。食べて、眠り、それだけが全ての彼は、生まれて初めて逃げ、しかも生き延びた。白い綿毛に覆われた体は赤い血で絡めとられ、自分を支えていた足の細さに絶望する。
一心不乱に砂をかき分けた先には何もなかった。どこまでも続く純白の砂漠と白い空。ここが地上に立っている認識は、光と影の強烈なコントラストに支えられていた。青く分厚い葉は、まるで宙に浮いてるように見える。下に落ちる自分の影はいつもより濃く、瞼は光を頑なに拒む。七つ目の太陽は、ふらつきながら歩くミネを満面の笑みで見つめていた。
背後から爆音と共に砂塵が巻き上がる。霧のような砂煙に紛れて、黒い甲殻の生物が地上に躍り出たようだ。ミネを食らおうとし、今なお追い続ける捕食者。よく成長した、大きな塊を食べるために。
砂漠の地下深くで長く生きていたミネの瞼に開く気配はない。あまりにも眩しすぎる。身に伝わる振動が捕食者の接近を察知しても、逃げる先は見えない。襲われたことは勿論、傷ついたことすらないミネの体は、未知に突き刺され震えている。先の見えない一歩は重く、小さい。
太陽の微笑みを帯びた光は、砂塵は、体を緩やかに焼く。大きな体躯からは想像もつかないほど静かな足取りで捕食者が近づく一方で、何処からか、何かが騒音を掲げてやってきている。8本の脚で流れるように捕食者は近づき、ミネに飛び掛かった。まだ眩しい。何かが目前にまで迫る。全身の筋肉は、まるで自分を締め付けるかのように硬直し、自由を奪っていた。
「キャハッハァ―――ッ!」
甲高い声を発しながら、それは真上を飛び越す。ミネは目を開ける。不思議と眩しさは失せ、はっきりと世界が脳裏に焼き付く。ミネを食べるはずだった捕食者は声の主の手中にいた。
それはバイクに跨った、人の形をしていた。ミネには思い当たる姿も、言葉も持ち得ていないが。
耳まで覆う白い帽子、体を余すことなく隠す白い服は、僅かに脈動し蠢めいている。その中でちらりと覗く灰色の髪と、赤く濁った瞳はとても目立っていた。
彼女は腕に、体に巻き付く捕食者を見つめて、無造作に引きちぎる。細長い体は、骨から肉を剥くように、するりと、ぶつりと両断され、骨と内臓が砂漠に落ちる。両手に残った肉も放り投げ、彼女は視線を周囲へ向けた。
ミネは放り投げられた肉に近づき、貪り始める。未知も、恐怖も、既知の行動とは比べるべくもない。目の前に食べられる物があるのなら、食べる。それがミネの生き方。その時影が差し掛かった。
七つ目の太陽が空にある限り、目玉を落とす雲は存在しない。巨大な、あるいは空を飛ぶ物体か。しかしミネには何も感じなかった。音も、振動も、嫌な気配も。故に振り向いた。逃げることはまだ選択肢に含まれていない。
そこには薄い円盤が幾重にも交わった物体が、空中に”固定”されていた。一切を感じないのは変わらず。しかし、近くにいた彼女はバイクを唸らせ、一目散に離れていく。
――反射的に、ミネは伏せた。
――直後に、頭上を円盤が掠める。
円盤はどうしてか、すぐ、“そこ”にいる。あと少しでも頭が持ち上がっていたら、ミネは円盤と重なっていただろう。しかし円盤は動いていない。思わず、何もない後方へ飛び退いたとき、円盤はミネの腕と重なり、半ばで途切れた。
腕が落ち、痛みが訪れる僅かな時間、思考は止まり、心臓の鼓動と共に鳴動を始める。金切声を上げ、傷ついた足で強く地面を蹴り、正面に向かってひたすらに駆けた。
だが、背後にいた円盤は平然とミネの“前”に存在する。可能性を考えるほどの知性はないが、現実を直視するにはあまりにも、世の理の外にいた。ミネは思考する。恐怖と、痛みと空腹を。策を思いつく知能はやはり無い。
七つ目の太陽は円盤の隙間から覗き込むようにミネを見つめる。その顔は笑みを象り、極限まで引き釣り上げられ、口は円を、目は新月を描き、微笑みかけた。
気持ち悪い。なんだあの太陽は。
ミネは眉間に皺を寄せ、血の流れる腕を見る。
奴は逃げた。逃げれるから。俺にだって、逃げれるはず。
ミネは激しい頭痛に襲われながら記憶を遡る。バイクの女が何をしたか。ただ、置いて行かれただけ。それは単純明快な答えだ。円盤は一つの肉で満足する。あとはどうするか。昼の砂漠に、生物は殆ど存在しない。誰もが七つ目の太陽を嫌い、地下深くに潜み、夜になって初めて地表に姿を現す。
が、ミネは笑い、肘から先のない腕を、地面に向かって突き刺した。細かい砂は傷口を擦り、激しい痛みを生む。それでもなお、深く腕を押し込んでいく。
食べられる物があるのなら、食べる。それが血を流しているなら、今すぐに。先を越される前に、一目散に。
心は揺れる。自身に降りかかる死の未来は、まだここにある。早く来い。地面に向かって。まだ来るな。円盤に向かって。汗は綿毛に吸われ、湿った綿毛は太陽に微笑まれ乾いていく。血は赤く変色し、殻のようにこびりつく。
無限大の数秒間は過ぎ、砂の底から震えを感じた。餌を求めに来た生物だ。ミネは腕を引き抜き、後ろに飛ぶ。砂を巻き上げ、命は地上に躍り出た。
「来るだろう、お前も。食べる為に、生きる為に、食べる為に!」
ミネはそう声を荒げ、跳ね出た命を蹴り上げる。そして掘られた穴へ、砂と一緒に流れ込む。暗闇に覆われ、心地よい冷たさが身を包み込んだ。生きて帰れる、深い安堵を胸に、流れに身を任せた。
砂漠の地下深く、気まぐれに姿を変える砂の洞窟。慣れ親しんだ景色の中へミネは吐き出された。傷ついた足は折れ曲がり、腕は失い、血は流れたまま。それはまさしく、死にかけた新鮮な食べ物の姿だ。それを察知した者たちはゆっくりと集まってくる。一つの目的を辿るために。
ミネは乾いた笑い声をあげ、無理矢理に身を起こした。
生きるために食べていただけでは、やがて死ぬ。俺より強い何かに食われる。
だから何よりも強くなる。死なない為に、生きる為に、強くなる為に、食べる為に、生きる。
目前まで来た者を見て、ミネは笑みを浮かべる。威嚇と喜びの含んだ、狂った顔。
こいつらは餌。俺の、俺の為の。
登場☆紹介
ミネ:ウサギのような小さい綿毛。耳は短い。
コットン:細長い、黒い甲殻の大きな虫。優れた捕食者、あるいはありふれた餌。
肉の王:生きた肉を纏う女。バイクも生きた肉。
停滞の怪物-空:数多の薄い円盤が重なり、あるいは交差する存在。理の外から、法則の一部分に触れている。
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