ダウンロードコンテンツ

 物語のつづきへようこそ。

 本作は24話でこれ以上ないくらい、完全に完璧に完結しています。

 つまりここから先にあるできごとは全て公式設定ではございません。

 ストーリーは24話のつづきで登場するキャラクターの名前も見た目も性格も同じですが、別世界の別人のお話だと受け取っていただければ幸いです。

 なにより、お楽しみいただければ幸いです。




 ── ダウンロードコンテンツ N編 ──




 異世界にいくのは思いのほか簡単で、例えば歩き慣れた登下校の道を、いつもとは違う時間、違う人といるだけで、そこはもう日常とは異なる世界に変わる。


 その世界で迷子にならないよう気をつかってくれているのか、村瀬は僕の少し先を歩いて目的地へと導いてくれる。


「それで、そのとき笑ったんですよ──」


 夏休みに起きた愉快なできごとを楽しそうに僕に話してくれる。


 村瀬は僕の少し先を歩いていた。それは本当にわずかな距離で、僕が歩幅をちょっと広げるだけで簡単に追いつけてしまえる程度のものだ。


「──先輩は貯金と預金の違いってご存じでしたか?」


 校門を出てから、たぶん五分くらいが経過していた。夏休み前にオープンした本屋の前を通過する。もうすぐ噴水公園が見えてくるはず。


 しかし、なんだろうこれは。


 なんともいえない違和感が自分の中で渦巻いていた。


 何かを忘れている。思い出すべきことを思い出せないでいる。あるいは、気づくべきことに気づけないでいる。


「だから私も海の家の係になって──」


 身振り手振りを交えて村瀬は笑う。


 そこで唐突にわかってしまった。違和感の正体に。


 あまりに不自然なせいで、かえって自然に見えていた。


 村瀬は僕より少し先を歩いてる。


 村瀬はずっと僕に話かけている。


 村瀬はこっちを向いて話してる。


 つまり村瀬は、ずっと後ろ向きに歩いていたのだ。学校を出てからずっと。


 こんなことって、できるものなのか。


 街灯や民家からこぼれる光りのおかげで完全な暗闇を感じることはないけれど、それなりに視野は制限される夜道を村瀬は難なく前方未確認で歩きつづける。


 曲がるべき場所ではちゃんと曲がり、道路のくぼみは自然な動作でかわす。


 目が背中にもついているのか、常軌をいっした身体能力を備えているのか。


 それとも一般的に、これはできて当然の芸当なのか。


 そもそも、そうやって歩く意図がわからない。


 僕を見ていると楽しいのか、それとも監視でもしているのか。


 たぶん、どちらでもない、はず。


 噴水の音が聞こえてくる。目指す場所はすぐそこだ。


 公園へと近づくにつれ、世界は眠りにつきはじめるように街灯の数は減り、周囲の家からあかりが消えていく。


 ぴたっと僕の左腕に何かがふれた。


 半袖からのびる村瀬の右腕だった。


 いつの間にか隣にいた。


「あっ、ごめんなさい」


 はじけるように離れると、スカートのポケットからハンカチを出して、それで僕の腕をぬぐおうとしてくる。


「別に気にしなくていいよ」


「でも私、汗かいてますし」


「僕だって汗かいてるから」


「……はい。わかりました」


 村瀬はハンカチをポケットにしまう。


 そんなやりとりをしているうちに公園の入り口に着き、僕たちは歩くのをやめた。


 さてさて、これはどういうことだろう。


 夜がそのまま落ちてきたみたいに、周辺は一面の暗闇。


 噴水の音だけが存在を告げるように耳に届く。


 噴水公園の大きな噴水の内部には照明が設置されていて、それは時間に応じて点灯し、ここを幻想的にライトアップする役割を担っていた。


 それを撮影するためだけに県外から人が訪れるのも恒例となっていた。


 それなのにどういうわけか、今は真っくらだ。


 電球にも夏休みは存在するのか、帰郷ききようしてしまったのか、常識的に考えれば故障しているのだろう。


 村瀬はこのあたりに蕎麦屋そばやがあると言っていたけれど、それらしき建物は見あたらない。


「こっちです、先輩」


 夜に溶けるように村瀬は公園の敷地内に入っていく。


 さっきまでずっと僕を見つめていたのに、今度は前だけ向いて、心なしか歩みもはやい。


 まだ闇に目が慣れないまま、僕は後輩の後を追う。


 噴水の音が強くなる。水しぶきが顔をあおる。視界は黒。


 明らかに足早に進む村瀬の白いスクールシャツだけが、モンシロチョウみたいにゆらめいていた。


 かろうじて視認できるその蝶を見失ってしまうと、この闇から出られなくなってしまうのではないかと、非科学的な不安に襲われる。


 かさかさと足下で雑草を蹴る音と感触がした。


 噴水公園の奥には広い茂みがあり、そこに入ったのだろう。


 茂みに入ると村瀬はさらに速度を上げた。何をそんなに急いでいるのか。蕎麦屋の閉店時間が迫っているとでもいうのか。


 そんなことを考えていると突然、村瀬は立ち止まり、こっちを振り向く。


 なかば真剣に村瀬を追っていたせいで急停止することができず、それなりの勢いを維持した状態で衝突するかと思った瞬間、村瀬の背後に木の存在を確認してそこに手を伸ばす。


 村瀬の頭上で張り手を打つ姿勢で僕は停止した。


 奇行と称しても認められるであろう一連の流れに対して、さすがに説明の一つも求めたくなり、口を開こうとした刹那、それも村瀬に封じられてしまう。


「──先輩にお伝えしたいことが二つあります」


 村瀬のほうが先に喋ってしまったからだ。


「なんだ?」


「ここにお蕎麦屋さんなんてありません」


「だろうな」


 それは薄々わかっていた。


 この状況で蕎麦屋があるとすれば、実は村瀬の背後にある木の幹が扉になっていて、そこを開くとその先に──といったファンタジーな展開でしかありえないだろうし、ファンタジーと蕎麦屋はあまり相性がよくない気がする。その場合はせめてピザ屋であるべきだ。


「……それと、もう一つは……」


「うん」


「…………」


 言葉を忘れてしまったかのように、沈黙して、うつむく少女。


「言いたくないことなら、無理に言わなくてもいいよ」


「……いえ、聞いてもらいたいんです。先輩には……先輩だけに……」


 今さらだけど話したいことがあるなら、わざわざこんな人気のない場所じゃなくても、学校にいたときに言ってくれてもよかったのでは。


「……先輩」顔を上げて、村瀬は口を開く。はっきりとはわからないけど、唇がふるえているように見えた。「……私、よごれてるんです」


 いくつかの解釈ができる表現だった。ただし、前向きな解釈は一つもない。


「……えっと、それはどういう」


 はぐらかして、もう少し情報を引き出すしかなかった。


「……昨日、電車に乗っていました」可能な限り感情をし殺していた。「夕方、人がいっぱいで、だから最初は気のせいっていうか、不可抗力であたってるのかなって思ってました。でも……」


 できればここで言葉をとめてほしかった。何が起きたのか、察することはできたから。


「そうじゃありませんでした。誰かの手が、私の胸や脚を執拗しつようにさわってきて──あっ、いやなことされてるってわかって、それで相手を見たら、スーツを着たおじさんがにやにやして私を見てて、それで私、怒って叫ぼうとしたら、別のところから手が出てきて、それで私の口を塞がれて、そっちを見たらまた別のおじさんがいて、その人も私をさわってきたんです」


 おそらく僕は何かを言うべきなんだろう。気休めにしかならなくても、わずかであっても救いになる何かを。それが一つも出てこない。


「騒ぐなって、おとなしくしてればすぐ終わるって脅されて、それがすごくこわくて、もし逆らったら殺されるんじゃないかって気がしてきて、私、うなずいちゃって、それでおじさんたちはもっとにやにやして……」少女の声に涙が混じる。「……下着の中にまで手を入れられて、全然すぐ終わってくれなくて、もう私、死にたくなって、それで……そのあとのことはよく覚えてません……」


「……つらかったね」この言葉が正しいのかどうかはわからない。不適切ではないと信じたい。


 村瀬は、こくんとうなずく。


「だから、先輩にお願いがあるんです」


「ああ、何でも言っていいよ」


 村瀬はしっかりと僕を見つめ、勇気ある瞳で声を上げる。


「昨日、おじさんたちが私にしたことを、これから私にしてください」


「……うん? どうして?」


 ここで疑問を投げかけるのは間違いだろうか?


 とはいえ、はい喜んで、といさむのも違うだろう。


「ずっと消えないんです、その、おじさんにさわられた感触が、よごれた油みたいに……それを思い出すたびに涙がとまらなくなって……」恐怖に耐えるように、ふるえながらも懸命に声を発している。「だから先輩の手で塗りつぶしてほしんです……そうすればこの苦しさから開放されると思うんです」


 不条理なことを言われている気がする。しかし、電車に乗っているだけで痴漢に遭遇することだってこの上なく不条理な体験だろう。


 それならば不条理で不条理を上書きしようとする村瀬の提案はむしろ理にかなっているといえるのかもしれない。


「いや……だけど……」考えがまとまらない。


「やっぱり嫌ですよね、こんな汚れた体なんて……」


 首の骨が折れたみたいに村瀬はうなだれてしまう。


「いや、そういう意味のいやじゃなくて──村瀬は自分が何を言ってるのか理解できてるのか?」


「はい、私をさわってください」


 かわいい後輩の女の子が自分のために自分の体にふれてほしいと哀願してくる。


 有り余るほどの大金を手にして困っているから助けると思って一億円ほどもらってほしいという内容の露骨なスパムメールのような現実。


「……でも、どうしてこんなところで? 誰かに見られてるかもしれないし……」


 自分でもなぜこんなことを言っているのかよくわからない。本能的に沈黙を生むべきではないと判断して、とにかく口を動かしているのかもしれない。


 途端、村瀬は不敵に笑ったように見えた。


「安心してください先輩、ここはそういう場所なんです」


「え?」


「見えませんか?」


 そう言って村瀬はゆっくりと首を左右にふった。周囲を確認しろと促しているのだろう。



 せみかと思った。



 木にはりついて、幼体から今まさに脱皮しようとする蝉なのかと思った。


 でも違った。明らかに大きすぎたから。


 それは、それらは人だった。


 木に張りついた誰かを背後から別の誰かが抱きしめるような体勢。


 そこかしこの木でそれはおこなわれていた。


 つまりここは村瀬の言うように、そういう場所なんだろう。


「ね? だから安心してください、先輩」


 安心できる要素が一つも見あたらないは僕の理解が足りないせいなのだろうか。


「……いや、こういう場所って、それこそ盗撮とかされてるんじゃ?」


「大丈夫ですよ先輩、ここにはおまわりさんがいますから」と村瀬は言う。


「警察が?」


「警察官じゃなくて、おまわりさんです」と村瀬は訂正を入れてくる。


 リンゴじゃありません、アップルですよ、と言われた気分だ。何がどう違うんだ。


「この一帯には盗撮防止のシートが完備されているので離れた場所からの撮影はできませんし、特定の機器を使うと反応するセンサーを持っておまわりさんが見回りをしてくれているので、よからぬことをくわだてる不躾ぶしつけな人たちは、おまわりさんが排除してくれます」


「その、おまわりさんっていうのは何者なんだ? というか、そのおまわりさんこそ不審者って気もするんだけど」


「おまわりさんはそんなことしませんよ」村瀬は言いきった。「こういう場所をなくしたくないから、善意で管理してくれているんです」


 村瀬の言葉を鵜呑うのみにするなら、それは管理人というよりも怪談話に登場する怪異に近い気がする。そもそも実在するのだろうか、そんなやつ。


「ほら先輩、見てください」


 村瀬の声に誘導されて、数メートル離れた場所に目をやる。


 蟻の群れに運ばれる昆虫の死骸のように、一人のおそらく男性が、この暑さの中で全身をレインコートに包んだ何者かに引きずられていた。


 直感で悟ったのは、あのレインコートがおまわりさんで、引きずられているのは、のぞきか何かに手を染めた不躾者なのだろう。


 さすがに殺されてはいないと思いたいものの、不躾者はぴくりとも動かない。


 おまわりさん。それは、もののけの類いではなかったものの、過激な自警団ではあるようだった。


「あの、せんぱい……そろそろ、お願いします」


 しおらい声で村瀬は僕を見つめる。


 確かに僕は何でも願いを聞くと言った。


 それに嫌なわけではない。だけど、嬉しいという感情も湧いてこない。


 率直な感想を言っても許されるのなら、困っている。


 女の子に接触を強要されるのは本日二度目だ。今日はそういう日なんだろうか。


「はやくしないと、おまわりさんがきちゃいますよ」


「え、なんで?」


「何もしないでいると、不躾者だと思われてしまいます。不躾者はおまわりさんに意識を奪われて追い出されます。それがここのルールです」


 そんな大事なルールは公園の入り口あたりで教えてほしかった。


 そして僕は、ようやく自分が獣の巣に誘導された小動物だということに気づかされる。


 村瀬が昨日電車内で卑劣な目にあったのはおそらく事実で、そこで植えつけられた負の記憶を始末するために僕が必要なのも嘘ではないのだろう。


 外部からのぞかれる心配もなく、屈強な管理者もいるので安全。さらに好事家こうずかたちの社交場でもあるので、そういうことをするのに心理的なハードルの低い環境。それがこの茂みであり、だから村瀬はここに僕を連れてきたのだろう。


「……すみません、先輩」


 突然、村瀬はそんな言葉を口にする。


「急にどうした?」


「やっぱり、よくないですよね……こんなの間違ってますよね……好きでもない人に体をさわられて嫌な思いをしたのに……私……命の恩人の先輩に、同じように嫌なことを頼もうとしてるなんて最低です……これじゃ私も痴漢ですよね。気持ち悪いですよね、私……」


 頭を下げて、右手でスクールシャツを、左手でスカートを強く握りしめている。


 まるで懺悔ざんげでもするみたいに。


「ごめんなさい……全部忘れてください……」


 希望を失った声を落として、夜に溶け込むように、少女は立ち去ろうとする。


「──待って」何を思ってそう声をかけたのかは自分でもわからない。


 だけど、間違ってはいないはず。


「……たすけて、くれるんですか?」


 そう言われて首を横に振れる度胸を持っていたなら、おそらく僕は世界の紛争をいくつか解決して英雄にでもなれていただろう。


 要するに僕は、村瀬の問いに、うなずいたのだ。



 名前も知らない大きな木の幹に両手をついて、村瀬は背中を僕に向ける。


 電車内での体勢を再現しているのだろう。


 そして「……よろしく、おねがい、します」とつぶやいた。


「えっと、まず、どうすればいいん……だろう?」


「……最初は、腰の下のあたりを、手の甲で、さわられました」


「……なるほど」


 ついさっき日本語を覚えたばかりのような、つたないやりとり。


 僕は村瀬に接近して、言われた通り、手の甲で指定の場所にふれる。


 プリーツスカートの繊維せんいの感触、その先にあるものの感触が伝わってくる。


 本人の希望を叶えているだけという言い訳ができるせいか、思っていたよりも罪悪感はわいてこない。


「そのまま手を下に……脚と脚の間に手を入れて──きゃ」


 言語をつかさどる神経はもものあたりにあるのか、そこにふれた瞬間、村瀬の声は甘くはじけた。


「ご、ごめん」


 慌てて、手を引く。


「やめないでください」間髪入れず、警告が飛んできた。「……おじさんたちは、やめてくれませんでした……だから、せんぱいも、やめないでください」


「……わ、わかった」


 呼吸を整えて、再び右手を先ほどの場所に戻す。


 コッペパンの弾力を試すような感覚でさわってみる。


 よく引き締まっていた。でも、やわらかさもあった。


「左手……」少しだけ呼吸を乱した声で村瀬は言う。「左手は……胸に……」


 空いている左手はその部分に接していたというのだろう。


「……わかった」


 だから僕は左手を村瀬のそこに接触させた。


 最初に手のひらに伝わってきたのは汗。


 それからスクールシャツ、そして──。


「……あの、せんぱい」


「──はい」


「……あの、申し訳ないのですが、その、もっと、手を動かしてもらってもいいですか? おじさんたちは、もっと、乱暴にしてきたので……」


「……あ、ああ、わかった」


 あまり調子に乗るなとお叱りを受けると思ったけれど、実際はその逆だった。


 言われた通り、僕は手を動かす。


 右手は脚、左手は胸。


 背後から不自然なかたちで抱きしめるような体勢。


 鼻先には村瀬の後頭部。その髪からずっといでいたくなるような匂いがあふれてくる。


 村瀬の匂い。年下の女の子の匂い。


 そこに夏の匂いと汗の匂いが混ざり、端的に言って、たまらない。


 痴漢の再現をしろと言われたとき、何かのあやまちをおかす危険を自分の中に感じた。


 いざはじまってみれば、胸や脚の感触よりも、この匂いのほうが危険だとわかる。


 偶然をよそおって、髪に顔をうずめたくなる衝動を必死におさえ込む。


 いいじゃないか。それくらいやってもバレないし、バレても怒られないだろうと、ものわかりのよすぎる自制心が耳元でささやく。


「せ、先輩、そろそろ……その、下着に、手、入れてもらえますか?」


 鼻呼吸をやめて口呼吸のみにしようかと考え出したと同時に、村瀬はそんなことを言う。


「えっと、どっちの手を?」


「……両方、お願いします」


 そう言うと村瀬はスクールシャツのボタンをいくつか外した。ここから入れと誘導するみたいに。


 僕はゆっくりとそこに手を入れる。指先が下着にふれる。中指の爪でそれを下からぐように持ち上げると、じかに胸と接触した。それの平均的なサイズなどわかるはずもないのだけれど、おそらく同い年の子たちよりは小ぶりだと予想されるそれを手のひらで包み、さすったり揉んだを繰り返す。


 一方、スカートの上で催眠術をかける五円玉みたいにゆれていた右手は、手首を使ってスカートをまくり上げ、あらわになった下着に対してやはり指先をすべりこませ、覆われていた肌に直接ふれる。


 僕は何をしているのでしょう。催眠術にでもかけられているのでしょうか。嘘をつけ。全部自分の意思でしょう。


 直接ふれることでより感じられる村瀬の感触と鼓動と汗。特に僕の右手にしたたる汗。これは汗でいいんだよな。


 より密接に体を刺激されはじめたことで、村瀬の口からこぼれる音は、蝉がいなければ周囲に響くほどになっていた。


 僕が手を動かすたび、それに呼応して村瀬の口から音がもれる。


 小学生のころのピアニカの授業を思い出していた。


 指を動かせば音が鳴る。未知なるものにふれる原始的なたのしさ。


 ここはどんな音がするんだろう。こっちはどうだろう。


 次々と指を動かす。


 ただし、少女の口からもれる音はそのほとんどが五十音の最初と最後のものだった。


「……先輩、そろそろ……」


 正直、そのとき村瀬が何と言ったのかは定かではない。僕の耳にはそう聞こえただけだった。問題は村瀬の言葉ではなく、村瀬の行動だった。


 木に両手をついて、背後から僕にふれられている少女。


 彼女は右手を木から離して、僕のほうへと伸ばして、まず僕の右胸にふれた。


 そこから少し下がって腰に、さらに下がってズボンのファスナーを見つけるとそれを下げてそこに手を入れて、とっくの昔にどうにかなっていた僕の一部をしっかり掴んで動かしはじめる。


「む、村瀬さん? 一体、何をなさって──」そりゃ敬語にだってなるだろう。


「電車の中でおじさんたちにさわられてたら、急に一人のおじさんに手伝えって言われて、手首を掴まれて、おじさんのにさわらさせられて、それで、こうしろって命令されたんです。ごめんなさい先輩、ごめんなさい……」


 言いながらも村瀬はやめない。汚れた記憶を思い出すように。それを上書きするように。


「べ、べつに、いいけど……」うまく声を出せない。


 カクテルでも作るみたいに村瀬は素早く手を動かす。


 一瞬で臨界点に接近する。


 早く達してしまうのは恥だという、意味不明な意識が僕の中に生まれた。


 ほとんど毎日していることなのに、人の手でするだけでこうも違うのか。


 何かで気をまぎらわしてはどうかと思ってみたものの、そんなものはない。


 だから、村瀬への刺激を増やしてみた。


 少女からこぼれる声の大きさと高さが一段階上がった。


 僕の気のせいに間違いはないのだろうけど、お互い、この快楽に服従と抵抗の二つの感情を持っている気がした。


 そして快楽に対して抵抗など無意味でしかなく、間もなく僕たちはほぼ同じタイミングで声をもらし、相手の手のひらに制御できなかった結果をぶつけた。



 ずっと息をするのを忘れていたのか、僕たちは肩をゆらしながら何度も浅い呼吸を繰り返していた。


 僕は立ったまま。


 村瀬はさっきまで手をついていた木に背中を預けた状態で。


 世界最高の作家が今の村瀬を見たらなんと表現するだろう。


 作家の才能など微塵もない僕が見たままを表現するのなら。


 誰かに襲われた直後の少女。


 はだけた服とスカート、下着は中途半端に脱がされ右の手のひらには何か付着している。


 その付着物をしばらくながめると、おもむろに少女はそれをなめてみせた。


「お、おい、村瀬」


「痴漢のおじさんに、無理やりさせられたんです。手についたのを、無理やり口に入れられて、ちゃんと飲み込むまで許してくれなかったんです」


 そういえば、これらは全て村瀬が電車内で遭遇した悲劇の再現だった。


 なぜかひどく冷静になっていた僕は、痴漢に対してこのような意見を持つようになった。


 とりあえず、痴漢は全員死刑でいいんじゃないだろうか。



「……まだです。先輩」


「まだ?」


「もう一つ、汚れている場所があります」


「……それは?」


「……こっちにきてもらえますか?」


「……ああ」


 三歩進んで、村瀬とほぼ密接状態になる。


 村瀬は両手で僕の顔をはさむと、極めて自然な動作で引き寄せて、僕と口をあわせた。


 ソフトクリームを食べていると、コーンの奥にクリームが押し込まれ、舌を伸ばしてそれをなめるのが好きだった。


 ちょうどそんな感じで、村瀬は僕の口の中を味わっている。


 一分近くそれはつづき、村瀬は名残惜しむように僕を解放してくれた。


「……これで私の汚れは全部なくなりました。全部綺麗になりました。全部先輩になりました。ねえ、先輩──」


「なんだ?」


「大好きです。付き合ってください」


 付き合ってからやるようなこと、付き合ってもやらないようなことをやったあとで、そんな告白をされる。


 明らかに自分に好意を寄せてくれている可愛い後輩。


 今日、学校で何もなければ迷わずうなずいていた可能性は高い。


 だけど僕はもう──。


「生徒会長ですか?」


「え?」


「先輩から女の人の匂いがしました。すごく上品な。たぶん生徒会長ですよね?」


 疑問系だけど、既に確信を得ている口調だった。


「…………」


「さっきも言ったように、学校で生徒会長と何があったのかは聞きません。だけど私、あの人に、生徒会長に負けない自信があります。その──私のほうが若いし!」


 生徒会長が六十七歳くらいだったらその主張は魅力的だったかもしれないけれど、彼女と村瀬の年齢は一つしか違わない。


「それにもし一番じゃなくても、二番でもかまいません。遊びでもいいです。いつかきっと先輩の一番になってみせますから!」


 なんてまっすぐな情熱だろう。ここまで好かれる理由が、こんな僕にあるわけないのに。


 純粋な後輩の言葉に対して真摯に向きあうことを避け、沈黙することで逃げていると、ゆっくりと村瀬は僕の胸に頭をのせてきた。


「……先輩。私の一生に一度しかあげられないもの……先輩がもらってくれませんか?」


「……ダメだよ。その、もっと自分を大切にしないと」


「大切にしてます」村瀬は顔を上げて僕を見た。「私は自分のことしか考えてません。自分が一番大切だから、自分の大切なものを一番大切な人にあげたいんです!」


 たぶん、村瀬は本心を語っている。


 だけど、僕はそれを受け入れることができない。


 さすがにその一線をこえてしまうのは、生徒会長への裏切りに思えたから。


 それなのに、きっぱりと断る勇気が出ない。


 村瀬を傷つけたくないからなのか。とても都合のいい後輩の女子を手放したくないという欲が働いているのかはわからない。


「お願いです先輩、私を受け入れてください。そうじゃないと私、先輩を──」


 ズボンのポケットが小刻みにふるえる。条件反射でスマートフォンを取り出すと、こっちにくるのはまだ時間がかかりそうなのかい、という杉野君からのメッセージだった。


 お兄ちゃんが天使に見えた。


「村瀬、ごめん。杉野君の調子が悪いみたいだから、すぐに行かなきゃ。それじゃあまた今度、何かあったら相談にのるから」


 村瀬に背を向けて、わざとらしく走り出す。


 インターネットで『人間のクズ』と入力して検索したら参考画像として自分の顔が表示されることになっても甘んじて受け入れるしかない。


 いつか天罰が下されるだろう。


 いつか、なんてまどろっこく先延ばししなくても、それはすぐに下されることとなる。


 足下に不自然な重みが加わり違和感を覚えると同時に、次の瞬間、水の壁と衝突する。


 噴水に突っ込んでいたのだ。


 頭を冷やせ、と天から告げられた気がした。



「……雨、ってるの?」


 玄関を開けると、そこで待っていてくれた杉野君が目を丸くして迎えてくれた。


 全身ずぶれで現れたのだから、そう言いたくなる気持ちはよくわかる。


「いや、別に降ってないけど。杉野君にはやく会いたくて」


 だからこれは汗なんだよ、と冗談を言う。


「……べ、別に、だからってそんなに急がなくても。かして悪かったね」


 杉野君はときどきジョークが通じない。



 エアコンを発明した人がどこのどなたかは存じ上げないけれど、ちゃんと勲章はもらったのだろうか。


 シャワーを浴びて、タオルで体を拭って廊下に出ると、完璧に調節された涼しさに心身共にやされる。


 やっと人間らしくいられる環境にたどり着いた気がした。


 学校や公園で今日起きたこと。それらは全て夏の暑さにあてられて見せられていた蜃気楼だったのではないかと思えてくる。


 実際はそうじゃないのはわかっている。


 生徒会長とのこと、村瀬とのことは、ちゃんと向きあわないといけない。


「あれ? もう出たの?」


 二階から杉野君が降りてきた。手に服を抱えて。


 杉野君と同じサイズのものが合うはずもなく、今は杉野君のお父さんのシャツを短パンを拝借していた。


「とりあえず、これでも着てみたら」


 杉野君は手にしているいくつかの衣服の中から一つをつまんで、僕に渡す。


 うちの学校の制服だった。それも女子の。


「……杉野君、なんでこんなの持ってるの? 着てるの?」


「資料用に買ったんだよ」杉野君以外の口から聞けば絶対に嘘だと確信できることを言う。


「杉野君が着れば? 絶対に似合うと思うよ」この意見には全世界が同意してくれるはず。


 じゃあ今度着てみるよ、と笑いながら杉野君は人気漫画のキャラクターがプリントされたTシャツを僕にくれた。出版社からもらったものらしく、サイズはぴったりだった。



 二階の杉野君の部屋にて。


 ここにはいろいろなものが置いてあるけど、きちんと整理されている。


 僕は定位置である杉野君のベッドの上に腰をおろす。


 杉野君は椅子に腰かけている。


「そういえば、話があるって言ってたけど、どうしたの?」


「ああ、それなんだけどね、なんだか今じゃなくてもいいかなって」


「なにそれ。深刻そうだったのに」


「うん。本気で伝えたいことがあったんだけど、なんだかきみがあまりにもいつものきみすぎて安心したというか慌てなくてもいいのかなって気がしてね」


「杉野君がそう言うならそれでいいけど」


「テレビでも見よう」


 ちょうど深夜のニュースが今日のできごとを伝えていた。


 ここから近くの駅の付近で二人の男性の遺体が見つかった。二人とも胸を鋭利な刃物で一突きされており、殺人事件として捜査が開始されたそうだ。


 突然、視界が闇に覆われる。


「あれ? 停電だ。珍しいな」


 冷静に杉野君はスマートフォンの電灯アプリを起動させて、ちょっとブレーカーを見てくると言って一階に降りていった。


 何かやりたいことがあったわけではないけど、僕も自分のスマートフォンを手にとってスリープを解除する。


 ショートメッセージが十数件、届いていた。



『ごめんなさい、先輩』


『さっきはすみません、先輩』


『通話させていただいていいですか?』


『怒ってますか、先輩』


『怒ってますよね、先輩』


『さっきは本当にすみません』


『きらいにならないで下さい』


『先輩、声を聞かせて下さい』


『もしかしてもうお休みなんですか?』


『明日、また連絡します』


『ごめんなさい。やっぱり今日じゃないとダメです』


『これからそちらにうかがいます』



 村瀬からだった。


 最後のメッセージは数分前。


 うちにくると書いてあるけど、申し訳ないけど、今の僕は杉野君の家におじゃまして、実家には不在だ。


 伝えておくべきだと判断して、村瀬の連絡先を開く。


 おかしなことに気づく。


 僕は村瀬の連絡先を登録していない。というか、そもそもそれを知らない。


 加えて、村瀬に僕の個人情報を提供した覚えもない。


 文面や内容から見ても、これが村瀬から送られてきたのは間違いないだろう。


 どういうことだ?


 もしかしたら、以前、連絡先を交換したことを僕が忘れているだけなのかもしれない。


 そう思うとそんな気がしてくるし、そんなことはないという気もしてくる。


 それにしても、杉野君の帰りが遅い気がする。


 もしかしたら何か手伝いが必要な状況にいるのかもしれない。


 電灯アプリを開き、それを手にして廊下に出る。


 暗闇でうちの学校の制服を着た小柄な女子が立っていた。


 スポットライトをあてるように、僕のスマートフォンの光が少女を照らす。


 少女は奇声を上げて僕に迫る。


 それ以上の奇声を上げて、僕は廊下に尻餅をつく。


 それを見て、少女はけらけらと笑う。


「驚きすぎだよ」


 杉野君はそう言った。


「す、杉野君。びっくりさせないでよ。なんで女子の制服なんて着てるの?」


「きみが似合いそうって言うからさ。どう? 似合う?」


 くるりと回転する。スカートがふわっと踊る。


 似合ってない。似合いすぎてこわい。


 ブレーカーが高い位置にあって手が届かないとのことで、僕を呼びにきたのだそうだ。


 一階に降りてブレーカーを戻すと、ほどなくして電気は息を吹き返した。


「終わったよ、杉野君」


 そう言っても杉野君は僕に背を向けたまま反応を返すことなく、どこかへ消えた。


 聞こえなかったのか、考え事でもしていたのか。


「ありがとう助かったよ」


 背後から声がする。


 振り返ると手に麦茶の入ったグラスを持った杉野君がいた。


「あれ? 杉野君、今そっちにいなかった?」


 僕はその方向を指さす。


「いや、さっきまでキッチンでこれ入れてたけど?」そういってグラスをかかげる。


「……えっと、杉野君って年の近い妹かお姉さんっていたっけ? あと、ここって僕たち以外に誰かいるの?」


 杉野君は首をかしげて「何を言っているんだい?」と言った。


 見間違いだったのだろうか。疲れているのか。考えても答えは出ない気がする。


 しかたないので、麦茶と一緒に疑問を流し込んだ。



 女子の制服を杉野君はそれなりに気に入ったようで、部屋に戻ると女の子らしい仕草を僕に見せつけてくる。


「かわいい?」


「かわいいよ」


「本当に?」


「本当に」


「本当に本当に?」


「本当に本当に」


 なんだこの偏差値の低いやりとりは。


 だけど、それなりに楽しいのも否めない。


 ふう、と一息ついて、ベッドに腰をおろしていた僕の隣に、ぽすんと座る。


「……やっぱり、言わなかったこと、今、言ってもいいかな」


「うん、言ってよ」


「うん、言うよ」


「うん」


「きみが好きです」


「うん──うん?」


 理解できるはずなのに理解できない言葉をかけられると激しくまばたきをする癖が自分にはあったのか、まぶたを何度も開閉しながら杉野君を凝視する。


「……杉野君? それはどういう──」


 人さし指を立てて、それを僕のくちびるにあててきた。


「王道ラブコメの鈍感主人公みたいな反応はいらないよ。わかるだろ? ──そういう意味だって」


 つまり、そういう意味なのだそうだ。


 以前、テレビで同性愛者がこんなことを語っていた。


 自分が同性愛者であることをカミングアウトすると、その場にいた何人かの同性たちは、自分は異性愛者だから告白されても困りますという態度を取るのだそうだ。


 それに対して同性愛者は、同性愛者だからといって手当たり次第同性を好きになるわけじゃない、こっちにだって好みはあるし、そんなことを言う輩に限って誰からも相手にされそうにない顔も中身もぶさいくばかりだと言って笑いを誘っていた。


 ごもっともな意見だが、不完全な言葉でもある。


 実際に同性愛者に告白された異性愛者はどう接すればいいのか教えてくれなかったのだから。


「心配しないで」と杉野君は言う。「きみがこっち側の人じゃないのは知ってる。だけどこっち側に偏見のない人だっていうのも知ってる。それにもう一つ知ってるよ」


「──何?」どんなことを言われるのか、検討もつかない。


 杉野君は、小さく笑う。「体育の授業とか、夏の日とか、よく見てるよね。僕の──脚」


 心臓が強く鳴る。気づかれているとは思わなかった。


「きみ以外にも男子からの視線をよく感じるし、自分が女の子に間違われることなんて日常すぎてもうどうでもいいよ」


 杉野君は、ふうっと、僕の耳に息を吹きかけてきた。


「ねえ、好きなの? 脚?」


 スカートのすそを掴んで、ゆっくりと、たくし上げていく。肌が広がっていく。


 そこらにいる女子たちよりも、よっぽど女の子らしいそれに目を引き寄せられる。


「ねえ」杉野君は言う。「いいよ」


 なんらかの許可を与えてくれた。


「……なにが?」


「……なんでも」


 そう言って、少女のような少年は目を閉じた。


 杉野君は静かだった。僕は呼吸が乱れていた。


 ここにきて、本日最後にして最高の難題がそびえ立つ。


 僕はどうすればいいのか。


 わからない。わからない。わからない。


 ヒントをくれるように、杉野君はゆっくりと顔をこちらに近づけてくる。


 それはつまりもう、そういうことなんだろうか。


 僕は──。


 なんとも気の抜けた、それでいて主張の強い音が鳴り響く。


 インターホン。


「……こんな時間に誰だろう?」


 不服そうに目を開けて立ち上がる。


「すぐ戻ってくるからね」


 そう言って微笑んで、一階に降りていく。


 僕は人類の叡智えいちの結晶であるスマートフォンを手に取って、全力でこの問題への最適解を探ろうとした。


 しかし、数分前に到着していた一件のメッセージがそれを砕く。



『みつけました』



 おそらく村瀬から届けられたそれを見て、首をかしげる。


「あれ、きみは確か……」


 一階から杉野君の声が聞こえる。来客と何か話しているようだけど、はっきりとは聞き取れない。


 気のせいか、何かが倒れたような音がした。


 間もなく、ゆっくりと誰かがここに近づいてくるのがわかった。


 疑うまでもなく杉野君だろう。


 部屋に入ってきたのは小柄で、うちの学校の女子の制服を着た──村瀬だった。


「村瀬?」思わず大声をあげる。


「……せんぱい」


 これまでに何度も聞いている、村瀬の僕の呼び方。


「……せんぱい……せんぱい……」


 それがなぜか、はじめて聞くような感触を帯びていた。


 うまく説明できないけれど──不気味だった。


「……せんぱい……に……げ……」


 そして少女は倒れた。


「…………え?」


 背中でトマトをかじったように、村瀬のそこは赤く染まっている。


「………………え?」



 猫かと思った。



 それは部屋に入ると、一瞬で距離を詰めて僕の膝の上にのってきた。


 だから猫だと思った。


 でも、違った。


 小柄でうちの学校の女子の制服を着た少年。


 それは、杉野君だった。


 それを何に使うつもりなのか、ずいぶん立派なナイフを手にしていた。


 僕の膝の上で、杉野君は大きな大きなため息をつく。


「やっぱり、こうなっちゃうんだね」実に残念そうだった。


「すぎのくん?」


「きみがどうしようもなくいい人で優しくてかっこいいから、いくら排除してもこういう虫が寄ってきちゃうんだよね」


「……すぎのくん?」


「それにきみは教科書に載ってもおかしくないくらいのおひとよしだから、いつかの火事みたいに困っている人を放っておけなくて、自分から危険に飛び込んじゃうんだよね」


「…………すぎのくん?」


「ねえ、きみはわかってる? 僕がどれだけきみのことばかり考えているか。息をしている間、眠っているときも、僕の中にはきみしかいないんだよ?」


 ふいに、こんな情報が頭をよぎった。


『それ』は一見、可愛い女の子に見えたという。


『それ』はうちの学校の制服を着ていたという。


『それ』はとても鋭利な刃物を扱うのだという。


『それ』は今世間を震撼させている連続殺人鬼。


 僕は目の前の親友を「ニナ?」と呼んだ。


 杉野君は笑った。


「その呼び名は好きじゃないけど、きみの口から聞けるのは悪くないね」


『それ』は手にしていたナイフを掲げた。


「きっときみはいずれその正義感から、僕にとってはゴミよりも価値のない誰かのためにその尊い命を犠牲にするだろう。そんなの絶対に耐えられない。ねえ、だから──」


『それ』はこう言った。


「世界でただ一人、僕の心を奪った人。だからお願い、僕にきみを奪わせて」


『それ』はそう言うと、手にしていたナイフを僕の胸に突き立てた。


 それは一瞬のできごとで、逃げることも守ることもできなかった。


 それともこれは何かの冗談なのか、不思議なことに痛みが全くない。


「全然痛くないでしょ? この日のためにいっぱいいっぱい練習したからね」


 ということらしい。



 ぐらりと、経験したことのない目眩めまいがした。


 意識が失われていくのがわかる。


 これが死?


 幼かったころ、死というものに得体のしれない恐怖を覚えていた。


 実際に得体が知れないのだからしかたないだろう。


 だけど成長するごとにその感覚は薄れていき、今ではどちらかといえば、病気になるだとか、怪我や老化で体が不自由になることを漠然と怖れるようになっていた。


 いつか死を迎え入れるときは、健康なまま、さらっと世界から退場したいと思っていた。


 喜ぶべきなのだろうか、その願いは間もなく叶えられようとしている。


 くちびるに感触があった。


 杉野君が僕にくちづけをしていた。


 もうすぐ僕の意識は世界から消えてなくなる。


 それは夢にまでみた不安のない世界。


 そう信じていたはずなのに、新たな不安のしずくが耳にこぼれる。


「心配しなくていいよ。きみと僕はこれからもずっとずっと一緒だからね」


 誰か教えてほしい。


 僕の体は死後このあとどうなってしまうのでしょう。




 Nina編 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔王少女と呼吸の生徒会 キングスマン @ink

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説