第21話

「勇敢な行動に敬意を表します」「危険だとは思わなかったのですか」「怖くありませんでしたか」「いま一番会いたい人は誰ですか」


 マイクを持った女性は次から次へと質問をぶつけてくる。彼女は質問マニアで最初から答えさせるつもりなどないのか、僕に喋る隙を与えない。


 僕が唖然あぜんとしていると、部屋に数人の警備員が入ってきて女性とカメラマンをつまみ出して扉を閉めた。それでもしばらくは扉の向こうから女性キャスターの声が響いてきた。すさまじい執念だ。何が彼女をそこまで突き動かすのか。


 それからおよそ二分が経過して、やっと静寂が戻ったころ、杉野君が部屋に戻ってきた。


「……さっきは取り乱して、ごめん」


 小さな声でうつむいている。


「気にしてないよ。それより、ありがとう。ずっと看病してくれてたみたいで」


「え?」杉野君はくいっと顔を上げた。その表情がどんどん熱を帯びていく。「いや、それはあの、何ていうか、だってあれだろ、僕はきみの兄なわけで、家族として当然のことをしたまでというか、その──」


 僕は笑って、もう一度ありがとう、と伝えた。


「ところで杉野君、ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけど」


「お、おう。何でも訊きくがいいぞ、弟よ」


「ここはどこ? 僕は何をしてるの?」


 ぽかん、と口を開けて漫画みたいな顔になる杉野君。


「おいおい、まさか記憶喪失になったとかいうんじゃないだろうな」


「いや、そういうわけじゃないと思うんだけど──」今の自分の心境を表現する最も的確な言葉は何だろうと考える。「──ごめん、やっぱりそうかもしれない」


 ふむ、と杉野君は腕を組む。お叱りの言葉がやってくると予想したけど、それははずれた。彼は冷静に僕の知りたい情報を教えてくれた。


 ここは自宅からずいぶん離れた場所にある病院で、僕はこの場所で一週間も意識不明の状態にあったらしい。


「なんで?」と僕は訊いた。


「こっちが教えてもらいたいね」杉野君はつづけた。「どうしてあんなことをしたんだ?」


「あんなことって?」


 杉野君はキョロキョロと室内の様子をうかがっている。すでに看護師の姿はなく、今ここには僕と杉野君しかいない。


「自分で見たら思い出すかもな」


 そう言うとポケットからスマートフォンを取り出して、少し操作してから僕にわたしてきた。


 受け取った画面の中では動画サイトの映像が再生されていた。


 夜の街。喧騒。賑やかというより慌ただしい。むしろ混乱という表現がふさわしいかもしれない。映像はそこにいた誰かが携帯で撮影したような代物しろもので、酷くブレている。


 飛び交う悲鳴と罵声。非常事態が起きているというのは嫌でも伝わってくる。そんな中で、カメラが赤い柱を捉えた。それは燃えさかるビルだった。


 ──あ。


 どくん、と心臓の鼓動が耳まで届く。


 瓶の蓋を開けたみたいに頭の中で記憶が蘇り、その瓶を倒したみたいに一気にこれまでのことが流れ込んできた。


 死を望んだこと。夜の街と燃えるビル。笑う自分。ビルの中に入って階段をのぼっていく。猫のような鳴き声。泣いていた女の子。


 氷柱つららで背中を刺されたような感覚に全身が震える。


 あれから、どうなったんだ。どうして自分は生きているんだ。


 答えはスマートフォンが教えてくれた。


 おい、見ろよ誰か出てくるぞ! 映像の中で男が叫んだ。


 カメラがビルの出入り口に向く。


 赤く揺れ、灰色の息を吐き出すビルの奥に人影が確認できる。


 燃えさかるビルから、見覚えのある男が現れた。


 僕だ。


 右腕に二人、左腕に二人の女の子を抱えて、首にもう一人の女の子がしがみついている。


 一歩一歩、重い足取りで、しかし確実に生還に向かって進んでいる。


 カメラはズームして、僕の顔がアップになる。ひどくたくましい目つきをした僕は、ビルから数歩離れたところで、がくんと両膝をついた。女の子だけとはいえ、五人も抱えていたら、そりゃ疲れるだろう。


 割れるような歓声が響き上がる。


 なにこれ、映画の撮影? すげーよ、あいつ何者だよ。


 喝采かっさいが連鎖していく。


 すぐに複数の人が僕に近づいて少女たちを保護してくれた。おい、誰か僕も助けてやってくれよ。そう思っていたら、数人の男性が僕を持ち上げて、その場から避難してくれた。


 ビルの炎はその勢いを増す。遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる。


 動画はそこで終わった。



 しばらく、僕は固まっていた。


 あんなことがあったなんて、まったく記憶にない。


 自殺をはかろうとしていたことすら、空想の中のことのように思える。


 少なくとも、今は死ぬ気なんて微塵もない。


「さっきやってきたニュース番組もそうだけど」杉野君は僕の手からスマートフォンを取り上げた。「これからきみは大勢の人から高い評価を浴びせられる日々がはじまるだろう。でもこれだけは言っておくぞ。僕はあんなの認めない」


 大きな瞳をより大きくして、頬をふくらませてこっちを睨んでいる。たぶん怒っているんだろうけど、かわいくて笑いそうになる。


「本当に心配したんだからな。例えどんな理由があったとしても、もう絶対にあんなことはするなよ」


「……うん」


 正直なところ、まだ記憶があやふやすぎて、さっき見た映像にも実感がわかない。本当にあれが自分なのか、自分でもわからない。


 でも杉野君をこれ以上困らせたくはなかった。


「マコト君」僕は杉野君を下の名前で呼んだ。


「な、なんだよ急に」


「──ごめんね、ありがとう」


 どちらを伝えるべきか迷った結果、両方伝えることにした。


「な、なんだよそれ」


 ぷいっと彼は僕から顔をそらした。


 なんとなく許してもらえたような気がして、僕は小さく笑った。


 病室の扉が勢いよく開かれ、僕と杉野君は同時にその方向を見る。


 一人の女性が息を切らせて、強くまっすぐにこっちを見ていた。


 僕は小さくもらした。「……母さん」


 母は一直線に僕に向かってきて、何も言わず、強く抱きしめてくれた。


 杉野君はそっと病室から去った。


 それから僕と母は久しぶりに二人だけで、いくつもお喋りをした。


 それは、本当に久しぶりのできごとだった。



 杉野君の予言は的中した。翌日から僕は常に賞賛の中にいた。


 連日テレビ局の取材が押し寄せてきた。あの映像は海外でも話題になったようで、外国のテレビ局もいくつかやってきた。


 学校からかなり離れた場所にある病院なのに、退院するまで毎日クラスメイトたちがお見舞いにきてくれた。八割以上は話したこともなければ名前もはっきりしないただの同級生なのに、みんな僕に優しかった。


 僕に命を救われた五人の女の子たちが花を持って病室に訪ねてきてくれた。五人とも特に怪我もなかったようで、すぐに退院していたらしい。


 五人のうち四人は小学生の女の子で、もう一人は同じ学校に通っている下級生の村瀬亜美という少女だった。


 あのビルのあの場所で裁縫教室をやっていたらしく、突然の火災にも関わらずほとんどの人は何とか避難できたものの、逃げ遅れた五人はあそこで意識を失っていたのだという。


 五人の少女は僕に感謝の言葉を繰り返した。特にその中の一人の女の子はテレビ局のインタビューで、ちょっと怖いくらい僕をたたえた。


 それにしても、小さな女の子ばかりとはいえ、よくこれだけの人数を抱えられたものだと、少し自分に感心した。


 そして、退院後に小さな奇跡は起こった。


 二週間ぶりとなる我が家の扉を開けると、一人の少女が立っていた。


 その少女をすぐに妹だと気づけなかったのは、もう見ることはないだとうとあきらめていた喜びの表情を顔にともしていたからだ。


「お……おにい、ちゃん……」妹は不器用に笑う。「お……おかえり、なさい……」


「…………」


 それはこれまで味わったことのないような、あるいはとても懐かしい気持ちだった。


 考えるよりも先に、抱きしめていた。


 目の下が湿しめっていく。


「おにいちゃん」


 妹の手が僕の背中に回る。


 なんだか、どうしようもなく、救われた気がした。


 大丈夫。きっともうすぐ、もっとよくなっていく。


 だから、それまで支えていこうと強く誓った。


 この小さな存在を。


 しかし、全てが綺麗なことばかりでもなかった。


 退院してから何度か行われた警察からの事情聴取。その帰り道での出来事だった。


「ちょっとよろしいですか」


 振り返ると、気品のいい身なりをした白髪の男性が立っていた。


 事情聴取を受けているとき、いつも静かに警察官の後ろにいる人だった。何も喋らないのに妙に存在感が強いせいで気になっていた人でもある。


「笹野と申します」


 彼から見れば孫みたいな僕にも丁寧な態度で接してくれた。


 刑事さんなんですか? という僕の質問に笹野さんは、そんなところですね、と上品に答えてくれた。


「一つお訊ねしたいのですが、あの現場で前田のことについて何か覚えていることはありませんか?」


「マエダ?」僕は首をかしげた。


 事故についてのことなら、どうして事情聴取のときに訊いてくれなかったのだろうか。そもそも前田って誰だ。


 実はあの現場には、もう二人、人がいた。そのことを知らされたのは、少し後になってからだった。


 前田さんというまだ若い警察官と、彼の恋人で裁縫教室の先生をしていた女性の遺体が現場から発見されたのだ。


 なぜかマスコミはそれを小さく扱い、僕を大きく報道した。


 僕はあの場所にいた全ての命を救えたわけではなかった。


 それは僕を複雑な気持ちにさせた。


 だけど、ありがたいことに世界がそれを忘れさせてくれた。


『AMAZING!!!』『SuperHero』『SAMURAI』


 動画サイトでくだんの動画についた世界中のコメントたち。


 中学生レベルの英語力を持っているかどうかも怪しい僕でも理解できるアルファベットの羅列は、僕の気持ちを高揚させた。


 退院してからの数日間は、街を歩くだけで誰かが近づいてきて写真や握手を求められることも少なくなかった。


 学校へいけば英雄のように扱われ、数学の問題が解けなかったことですら肯定的に評価される始末。放課後の校門には他校の女の子が大勢待ち構え、持ちきれないほどの手紙をわたされ、ぜひ私と付き合ってほしいと、まるで有名企業の面接官になったみたいに次々と告白された。


 帰宅すると家の前には、所有者が自分の権力を見せびらかすためだけに作られたような風貌の高級車がとまっていた。


 家の中ではテレビ局と映画会社の人が待機していた。出会って十秒も経っていないのに、彼らはなれなれしく僕の肩を叩いて名刺をくれた。今回のできごとを映画にしたいのだと作品のビジョンを熱く語ってくれた。


 少し考えさせて下さいとだけ言って、帰ってもらう。


 どうしよう。これでもう三社目だ。


 これこそ人生だった。


 何度も何度も頭の中で繰り返していたばかげた妄想。それ以上の現実を今、生きている。


 ただ息をするだけで楽しかった。



 もうすぐ夏休みになろうとしていたある日、職員室に呼び出された。


 夏の終わりの風物詩となっている大きなチャリティー番組への出演依頼が僕にきているのだという。


 学校としても意義のあることだと思って勝手にその申し出を受けてしまったそうで、悪いけどテレビに出てほしいとのことだった。


 正直、乗り気になれなかったけど、そういう経験も悪くないと自分に言い聞かせて承諾する。


 すでに用意されていた原稿をその場で一度読んでみる。みっともない朗読をさらしているのが自分でも嫌になるくらいよくわかった。


 教師は苦笑いを浮かべた。


「とりあえず、練習だな」


 一週間後、僕は生徒会室の前にいた。来週からはじまるスピーチの練習について軽く打ち合わせをしたいという用件でここに呼ばれたのだ。


 僕は少なからず緊張していた。


 あの事故以来、僕は学校を代表していくつものイベントに参加した。その全てに当初は生徒会長が付き添ってくれるはずだったのに、いつも直前で彼女に急用ができて、僕は一人だった。


 もしかして、嫌われてるんじゃないかと思った。


 この扉の向こうに誰もいなかったらどうしよう。


 とはいえ、いつまでもここで立ち尽くしているわけにもいかず、深呼吸を二回してから扉をノックする。


「失礼します」


 ドアを開けて中に入る。


「…………」


 彼女は──生徒会長はそこにいてくれた。


 ただし、机の上で腕を枕にしてすやすやと眠っていた。


 僕は少し声を上げて「失礼します」と、もう一度言う。


 返事がない。熟睡のようだ。


 困ったな、出直すべきだろうか。しかし相手はいつ起きるかわからない。それにここは冷房がよく効いていて心地いいから出たくない。


 僕は彼女から離れた場所にパイプ椅子を置いて目覚めを待つことにした。


 数分後。正しくは三分後。何もしない一分間はなぜこうも長いのか。僕はわざと床を蹴って音をたててみる。


 反応がない。もしかしたら、しかばねかもしれない。


 僕は彼女に近づいてみた。すやすやと寝息をたてているのがわかる。よかった生きてる。


 しかし、起きてもらわないと困る。


 僕は人さし指を彼女の肩にあてて、少しさすってみた。だけど反応はない。


「もしもーし」


 耳に向かって言葉を落とす。反応はない。


「…………」


 少しだけ顔を近づけて、もう一度、同じことを言う。


 だが反応はない。でも甘い香りがした。たぶん、それはきっと彼女の匂い。


 間近で見る彼女の顔は、とても清楚で無垢むくで、やわらかそうで、何より無防備だった。


「…………」


 次の瞬間に起きたことは、本当に無意識だった。


 僕は一瞬だけ、猫になった。


 はじめに小さな吐息で耳をくすぐった。


 次に髪をもてあそんだ。


 最後に頬を舐めてみた。


 だから、猫だった。


 僕は一瞬だけ、猫になっていた。


「…………ん」


 彼女の唇から声がもれる。


 我に返った僕は慌てて彼女から距離をとる。背後のホワイトボードにぶつかって、大きな音が響いた。はじめからこれくらいの音を鳴らせばよかったんだと思う。


「……あ」生徒会長は僕の存在に気づいた。「きてくれてたんだ。ごめんなさい昨日夜更かしして、ちょっと眠ってたの」


「……そ、そうですか」心臓が破裂しそうだ。


「ところで、どうしてそんなところにいるの?」と言って小首をかしげた。「もっとこっちにきて打ち合わせをはじめましょう」


 彼女は僕に手招きをする。


「……はい」


 焦りが安心へと変わっていく。どうやら気づかれてはいないようだった。


 打ち合わせは十五分ほどであっけなく終了して、また来週と手を振って生徒会長は僕を見送ってくれた。


 僕はまだ少し動悸どうきのする左胸をさすりながら、足早に生徒会室から離れた。


 猫なら笑って許される行為も、人がやればたいていは罪になる。




 ──現在。


 月明かりだけが頼りの生徒会室。


 生徒会長は僕のちょうど心臓の上に手のひらをあてている。


「つまり、あのときあなたは──」


 僕は息をのむ。


 彼女は、くすっと唇をひらく。


「──ずっと起きてたよ」

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