第20話

『ありがとう』


『ごめんなさい』


 去年、近所で行われた七夕の会で作りすぎた短冊を意味もなく机の引き出しに押し込んでいたことが意外な形で役に立った。


 いろどりある紙とシンプルな一文。これをすぐに遺書だと気づいてくれるかどうかわからないけど、僕が死ねばたぶん察してくれるだろう。問題はどちらを使うかということだ。


 産んでくれて、育ててくれて『ありがとう』か。それを無駄にして『ごめんなさい』か。


 かれこれ一時間は悩んでいるのに、答えが出ない。


 だけど思い返せば、あの人たちは妹の世話に夢中で僕のことなんてこれっぽっちも見てくれていないのだ。僕がいなくなれば、むしろ感謝されるのではないだろうか。だったら先回りして『どういたしまして』にするべきか。


 数分間におよぶ自分との議論の末、遺書は残さないという結論に達した。


 短冊を丸めてゴミ箱に投げると、携帯電話がメールの到着を告げてきた。


 杉野君からだった。件名には『お知らせ』とあった。


「…………」


 数秒間のためらいののち、僕は本文を確認することをやめた。


 きっと、この先には夢のような未来が書かれているに違いない。それを見ればきっと僕は杉野君に対して決して抱きたくない感情に支配されてしまうだろう。


 携帯電話を机の上に置いて、財布から千円札を二枚抜いてポケットに入れた。


 これでいい。これから死ぬ人間には、これくらいでちょうどいい。


 部屋から出ると廊下では妹が、ただ立っていた。


 妹は何も言ってこない。僕も何も言わない。


 こいつがおかしくなってから何度いなくなってくれればいいのにと思ったことか。だけど、それも今日でお別れだ。僕のほうからお別れだ。


 僕は妹の頭に手のひらをのせて、しゃくしゃくとでた。目はあわせなかったから、彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。暴れたらどうしようとは思わなかった。なんとなく今日は落ち着いている気がしたから。実際その予想は正しかったようで、妹はじっと、僕に頭を撫でられていた。


 僕にそんなことを思う資格はないけど、強く生きてほしいと願った。


 そっと頭から手を離し、玄関に向かう。靴を履いて扉を開けて外にでる。次の瞬間、家の中から女の子の声が聞こえた気がしたけれど、それは扉を閉める音にかき消された。



 五二〇円。それが最後の晩餐の価格だった。


 牛丼の大盛りに豚汁をつけてみた。フェアが開催中だったようで、いつもより安い。


 生まれてはじめてここで牛丼を食べたとき、こういうものを毎日食べられる人生をきっと幸せと呼ぶんだろうなと、幼い日の僕は思ったものだ。


 だから最後に、ここの味を味わっておきたかった。


 空腹が満たされ、幸福感が増して、死への決意が強固になる。


 駅まで歩いて、死に場所に選んでいた高層ビルのある街までの切符を買った。


『どんなに苦しいことがあっても、今日が人生最後の日だと思えば、それを乗り越える力がわいてくる』


 昔の偉い人の言葉か、有名な歌の詞か、そのどちらでもないか。電車に揺られながら、そんな言葉が浮かんできた。


 いい言葉だけど、一つだけ欠点がある。実際、今日で人生最後の人間には何の効果も発揮しないという点だ。


 車窓から夕日が射してきた。綺麗なオレンジだった。夕日を見ながらビルから飛び降りれば、きっと天国にいける。そんなルールが頭の中で、できあがる。


 しかし、目的地に到着と同時に日は沈んでしまい、そのルールは破棄された。



 人生はうまくいかない。


 その法則は死の直前でも適用されるらしい。


 死に場所に選んでいた高層ビルの入り口には屈強な警備員が複数配置されており、通行証がないと中に入れてくれないのだという。


 別に怪しい者じゃありませんよ。ただこのビルから飛び降りたいだけなんです。などと言えるわけもなく、僕はとぼとぼと知らない街を徘徊はいかいしていた。


 僕の中で自殺といえば飛び降り自殺であり、だから自分で行動できる範囲内で最も高いビルから飛び降りようと考えていたのに、実は飛び降り自殺は敷居が高いのだという事実に驚かされた。まず飛び降りるべきビルに入ることからして困難なのだ。


 そうか。だからみんな電車に飛び込むのか。


 とはいえ、駅に入るお金は残ってない。携帯電話も置いてきた。もう死ぬしかないのに、死ねない。


 別にそこまで必死に死にたいわけじゃない。ただ、生きたくないだけで、だからやっぱり、死ぬしかない。


 迷路みたいな街をネズミみたいにうろうろしていると、強烈な臭においが鼻孔を刺激してきた。何だか人も騒がしい。今日はお祭りでもしているのだろうか。僕は喧騒けんそうのする方向へ虫みたいに引き寄せられていった。


 そこでキャンプファイヤーがもよおされていた。よく見るとビルが燃えているだけだった。


 ビルを中心に弧を描くように人々が集まっている。屋台でも並んでいたら、本当にお祭りだと勘違いしてしまいそうだ。


 ああ、なるほど。このてがあったか。僕はその場でぽんと手を鳴らす。


 ここは僕のために用意された火葬場だ。ここに入れば、誰にも迷惑をかけずに確実に死ねる。葬儀の際もいくつかの手間が省けて両親も喜んでくれるに違いない。


 顔がほろこんでいくのが自分でもよくわかった。


 最善の手段が最高のタイミングで訪れてくれた。これを逃すことなんて、できない。


 僕はビルに足を踏み入れ、すぐそばにあった階段をのぼりはじめる。


 バカヤロウ! 何考えてんだ!


 男性の罵声が飛んでくる。僕に言ってるのだとしたら、とんだ見当違いだ。しっかりとこれまでの人生と、そしてこれからの人生を考えた上での決断だというのに。


 ばしゃりと背後から水を浴びせられ、僕は水びたしになる。振り向くと、少し離れた場所でバケツを持った中年の男性が、鬼気迫る形相で僕を見ている。


「バカなことは考えるな。早く戻ってこい」と、強く手招きをする。「きみのやりたいことはわかるけど、中にいる子たちはもう──」


 一体この人は何を言っているんだろう。水なんかかけてきて、余計なことを。僕は前を向いて速やかに階段をのぼっていく。背後から何度も呼び止める声が追いかけてきたけれど、やがてその声も届かなくなった。


 水をかけられているせいか、意識が朦朧としているせいなのか、熱さは感じない。ただ、体のあちこちが痛くて苦しい。視界を支配しているのは、炎の赤ではなく、煙の黒。


 呼吸が奪われていく。でも、これでいい。生まれてはじめて、自ら行動して、望んだものを手に入れられようとしている。だから、これでいい。


 燃えさかる世界で、不自然な音を耳が拾ったのはそのときだった。


 猫かと思った。


 ミャーミャーと、逃げ遅れた猫が鳴いているのかと思った。


 考えるよりも先に、足が勝手に声に向かって動いていた。


 火災が起きる前はどういう用途で使われていたのかはわからない、フットサルくらいならできそうな広い場所にたどりつく。ここは煙と炎が少なく、比較的視界は良好だった。


 ミャーミャーと声がする。


 足下からだった。


 人間の女の子が、床にった姿で泣いていた。




 ────────。


 ゆっくりとまぶたを開くと、白い世界が広がっていた。


 何か大きなもの音がする。


「──看護師さん、意識が戻ったみたいです! 早く! 早く先生を呼んできて下さい!」


 どこか懐かしい女の子の声。


 周囲が慌ただしくなるのが伝わってくる。


 こんな感じの脈絡みゃくらくない夢を何度か見たことがある。こういうときは、もう一度ぐっすり眠りにつくのがいい。


「おいバカ、寝るな! 寝るな!」


 ぺしぺしと強く頬を叩かれている。痛いからその手を払いたいのに、自分の手が思うように動かせない。手だけじゃない。首から下の意識がないみたいに、体を動かせない。


 思いきって目を開くと、いつもの顔がそこにあった。


「……やあ、お兄ちゃん。おはよう」


 僕は力の入らない声でいつもの挨拶をした。


 どういうわけか杉野君は目に涙を浮かべて、喜んでいるような、怒っているような難しい表情をしていた。


「…………ばか」


 おはように向かってバカはないだろう。


ちかえよ」つづいて杉野君は心を押し殺した深い声で、そうつぶやいた。


「え?」


「もう二度とあんなことはしないと今すぐ誓え!」杉野君は感情を解放した。「じゃないと今すぐ僕がきみを殺してやる!」


 杉野君は僕の着ている白い服の襟を強く掴んだ。


「え? え?」


 同時に、体中が再起動していくみたいに、じんわりと手足に感覚が戻ってくる。


「いいか、きみのしたことは決してほめられたことじゃないぞ。自分を犠牲にしてまで誰かを助けるなんて──そんなのは漫画の仕事だ! きみのするべきことじゃない!」


 どこまでも怒りを爆発させるのかと思ったら、今度はボロボロと涙をこぼしはじめる。


「一体、どれだけ人を心配させたら気がすむんだ……一週間も眠ったままで、このままきみの意識が戻らなかったら僕は……ぼくは……」


 そこで数人の医者や看護師が飛んできた。中年の女性看護師が僕から杉野君を引きはがして、なだめながら部屋の外に連れていった。それ以外の医師たちは慣れた手つきで僕にライトを当てたり体をさわったりしてくる。


 僕に聞こえない声で何か話し合ってから、その中で一番権威を持っていそうな三十歳くらいの医師が「もう大丈夫だよ」と僕に笑顔を見せた。


「……はあ」なにが?


 医師は僕の右手を両手で包み込むように、がっちりと掴んできた。


「本当によくやったね、きみはみんなの誇りだよ。もう安心だと思うけど、もし体に少しでも異変を感じたら、迷わずそこのブザーを鳴らしてくれ。いいね?」


 医師は視線でベッドのそばに備えられていたボタンをさした。


「……はい」とりあえず、うなずく。


 医師たちは部屋から出ていき、中年の女性看護師と二人きりになる。


 僕は自分の体を預けていたベッドの高さを調整して上半身を起こす。便利だな、これ。


「あまり彼女さんを怒らないであげてね」と看護師は優しく言った。


「はい?」


「あなたが運ばれてから毎日ずっと家にも帰らずにあなたの手を握ってくれていたのよ」


「彼女って?」


 ふふっと看護師は笑う。「さっきまでここにいたでしょ」


「……ああ」


 杉野君を女の子だと思ってるのか。まあ無理もないか。


 僕は周囲に目を配る。なんとなく病室にいることは理解していたつもりだけど、どうもそういうわけでもないらしい。


 壁には幼稚園児が書いたような絵と、誰かに向けた励ましのメッセージがびっしりと書き込まれた色紙がいつくも飾られている。花壇のように大量の花が並び、風船まで浮かんでいた。


 誰かのお誕生日会でもあるのだろうか。


 僕の疑問を察した看護師がこう言った。


「凄いでしょ。みんなきみに宛てて毎日、日本中から送られてきてるのよ。たくさんありすぎて廊下や倉庫に入れたものもあるから、もう少し体調が回復したら見てみてね」


 途端、部屋の外が騒がしくなる。


 困ります! まだ目覚めたばかりなんです!


 だからこそです! 全国民が彼の声を聞きたがってるんですよ!


 部屋のドアが大きく開かれた。


 カメラを構えた男性とマイクを握った女性が笑顔で僕に接近してくる。何だか怖い。


「おはようございます。まずは日本全国の皆さんに一言お願いします」


 と言って、僕にマイクを向けてきた。


 この女性の顔には見覚えがあった。朝のニュース番組でキャスターをしていたはずだ。


 わけがわからず、僕はカメラの前でお望み通り一言つぶやいた。


「……なんなんですか、これ」

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