第19話
翌日。相変わらず杉野君はいつもの場所で待ってくれていた。気のせいか、なんだかそわそわしているように見える。
「おはよう、杉野君」いつもの挨拶をする。
すると杉野君は銃で脅されたみたいに、びくりと背筋を引き締めた。
「どうしたの?」
「あ、え、いや、えっと、その……」
ひどく動揺している。こんな杉野君、見たことない。
「大丈夫? 最近ちょっと様子が変だったけど、何かあったの?」
「な、何かあったといえばあったけど、なかったといえば、やっぱりあったかなというか」
いけない。これは重症かもしれない。
「と、ところで弟よ。例のものには、もう目を通してくれたかな?」
僕は首をかしげた。「例のものって?」
杉野君は見えない地球儀でも回してるみたいに、不思議な手の動きを披露しながら早口でまくしたててきた。
「昨日、わ、わたしただろ、少年エイジス」
杉野君は愛読している漫画雑誌の名前をあげた。そういえば昨日もらったな。
「まだ見てないんだ。今日帰ったらじっくり読ませてもらうよ」
「──え? 見てないの?」ナイフのように冷淡な声。
「うん……ごめん」杉野君の態度から本能が何かを感じ取って、自然と謝罪の言葉が口からもれていた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。ゆっくりとした空白の後、魂ごと吐き出すような大きなため息を杉野君はついた。
「まったくきみってやつは──どこまでもどうしようもない弟だな」
「ええっと、ごめん」
理不尽な怒りを浴びているけれど、妙な罪悪感があるのも確かで、僕はもう一度謝った。
「もういい。帰る」
杉野君は肩を怒らせながら、小さな体をどしどしと前進させていく。
「え? 帰るの? でも杉野君、そっち学校だよ」
「学校に帰るんだよ」
「…………」
わけがわからない。
とにかく僕は杉野君の後を追いかけた。
学校に着いて教室に入ると、一人の男子がこっちに向かってきた。
「おい杉野、ちょっといいか?」
「……何?」
杉野君は顔をしかめて警戒体勢をとる。こいつはときどき杉野君につまならない言葉をぶつけてくる男だ。
「あのさ、これ描いたのもしかしてお前?」
そいつは漫画雑誌を広げてきた。少年エイジスだ。
「えっと……」ふわっと杉野君の表情から警戒がほどけていく。「……う、うん。そうだけど」
「やっぱりな! たまにお前が描いてる絵を見てたから、似てると思ったんだよ」
そいつは教室に振り返って大声を上げた。
「やっぱり俺の予想通り、これ描いたの杉野だってよ」
まじかよ。
すげーな。
ほんとに?
私にも見せて見せて。
クラスに歓声が広がっていく。まるで砂鉄みたいにクラス中の生徒が杉野君に集まってきた。
それはそれはとても奇妙な光景だった。
僕と杉野君はいつも二人ぼっち。
僕のことは杉野君が一番よく知っていて、杉野君のことは僕しか知らない。
それなのに、今、杉野君を中心に広がっている熱気の正体を僕だけが知らない。
好意的な感情に包囲されている杉野君は困ったように僕を見て、小さく笑っていた。
僕はその笑顔に何も返すことができなかった。
「なるほど。こういうことだったのか」
クラスメイトから一足遅れて僕は昼休みの屋上で、あの熱気の正体を知ることになった。
今月号の月刊少年エイジスの百六十八ページ。そこには新人賞の受賞作が掲載されている。
大賞は二十六歳会社員の作品。金賞は該当作品なし。そして銀賞は杉野君の作品だった。
杉野君がこういう賞に何度も投稿したり、出版社に持ち込みに行ったりしていたのは知っている。だけど、どれもいい反応はもらえなかったと、いつも暗い表情をしていた。それがついに報われたのだ。
「おめでとう」僕は心から祝福した。
「やめてくれよ。弟から言われると、何か照れる」杉野君は人さし指で頬を掻かいている。
「こういうのって、いきなり発表されるものなの?」
「いや、受賞が決定したこと自体はけっこう前からわかってたんだけど、誰にも言わないようにって編集さんから言われてたのと、実際に本屋さんに並んだ雑誌に自分の作品が載ってるのを自分の目で確認するまで実感が持てなかったんだ」
「へえ」
でも僕くらいには教えてくれてもよかったんじゃないかと、自分でもよくわからない感情がさざ波みたいに、押し寄せて、引いていく。
「でさ、もう気づいてくれたかな?」照れた声の杉野君。
「え? 何に?」間の抜けた声の僕。
「ここだよ」杉野君は慣れた手つきで雑誌のページを巻き戻す。「ここ」そして自分の作品の表紙の右下に載っている作者名を指した。
名字は杉野のままだけど、名前が少し違っていた。
「ペンネームがどうかしたの?」
杉野君はあきれたように鼻から息をもらした。
「きみの鈍感さを表彰したくなる瞬間がたまにあるよ。今がまさにそれだ。よく見ろ、自分の名前が使われていることに気づいてもらえないかな?」
「……ああ」本当だ。僕の名前の漢字が入ってる。「でもどうして?」
杉野君は視線を上に泳がせて、ぽつりとこぼした。
「まあ、なんていうかその、この作品はきみとの合作というか、僕がこうやってプロになるための第一歩を踏み出せたのはきみからの貢献が大きいから、それに対する恩返しというか、初心を忘れないためというか……」
「僕ってそんなに役に立つことしたっけ?」
できあがった作品を読ませてもらって、面白いとか絵が上手いとか、毒にも薬にもならない感想を伝える程度のことしかやっていなかったような。
「僕の作品を読んでくれただろ」
「それくらいしかやってないよ」
「それで十分だよ」
「……そうなの?」
杉野君は小さく、でも強くうなずいた。
「どんな作品だって見てくれる人がいないなら存在しないのと同じだよ。だから一人でも読んでくれる人がいるのは、本当に強い励みになるんだ」杉野君はじっと手のひらを見つめていた。「最初はね、逃げ道だったんだ」
「逃げ道?」
「小さい頃から友達と呼べる存在を作ることができなくてね。誰とも仲良くなることができなくて、それでいつからか、こう考えるようになっていたんだ。自分は漫画家になるために生まれてきて、漫画を描くには一人で集中する必要があるから、だから僕はあえて友達を作らないんだって。そうやって自分に暗示をかけて漫画の描き方を勉強しているうちに本当に漫画を描くのが楽しくなってきて今までつづけてきたけど、今回受賞して痛感したよ。描き上げることは一人でもできるけど、完成させるのは一人じゃ無理だってね。今の僕があるのは、きみのおかげだよ」
大きな瞳が言葉以上の何かを僕に伝えてくる。それが何だか恥ずかしくて、思わず目をそらしてしまう。
「ま、まあ、お役に立てたなら光栄だよ……お兄ちゃん」
「ああ、本当に感謝してるよ、自慢の弟」
昼休みの終わりを告げるチャイムが響いて、僕たちは急いで教室に戻った。
その日の夜。
『今は、話しかけないでくれ』
ところで、こいつのストーリーはいつになったら進展を見せてくれるのだろうか。
ゲームはそろそろ終盤になろうとしている。ゲームの世界の住人たちは順調にそれぞれの物語を
机の上に置いている携帯電話が振動して短く鳴る。メールが到着したようだ。
僕の携帯電話には二種類の着信音が設定されている。家族からのものか、友人からのものかの二種類。今のは友人から用の着信音であり、僕の携帯にメールを送ってくる友人は一人しかいない。
『緊急速報』
スパムかと疑いたくなる件名で『月刊少年エイジス冬の増刊号に僕の読みきり掲載決定!』と文面から興奮が伝わってくる一文が
僕はお祝いの返信をしてから、杉野君からもらった雑誌を開いて彼の受賞作を読みはじめる。去年の今ごろ何度も読まされて、何度も感想を求められた作品だ。プロトタイプを知っている身としては、絵柄の成長と物語の見せ方の進化に小さな感動を覚えてしまう。
たった一年で、ここまで変わることができるんだな。
僕は雑誌を閉じて、再びゲームと向きあった。しばらくストーリーを進めてもう一度あの男のもとにいった。
『今は、話しかけないでくれ』
「…………」
それからしばらくゲームをつづけている内に、いつの間にか僕はパッドを握ったまま眠りについていた。
変化は翌日の二時間目の休み時間に起きた。
そのとき僕と杉野君は、この世でもっとも必要とされていないアニメグッズは何かという話題で盛り上がっていた。
「おーい杉野、ファンの子がきてるぞ」
クラスの男子が叫んでから、杉野君のそばに二人の女の子がてくてくと近づいてきた。
メガネの女の子とポニーテールの女の子が緊張した様子で杉野君の前で立ち止まる。たぶん下級生で、どちらもそれなりにかわいい。
「あ、あの──」メガネの子が口火をきった。「フォローチャートの作者さんって本当ですか?」
震える声で杉野君の受賞作のタイトルを言った。
「そうだけど?」
少女の緊張が加速する。
「あの、私、すごい、読んで、感動しました。本当に、あの、感動で──」
「……ありがとう」杉野君は相手の勢いに少し戸惑っている。
「それで、その、よろしければサイン、いただけませんか?」
槍で突いてくるような勢いで色紙を提出してきた。
「あ、うん。サインくらでよければ」気迫に負けて、それを受け取った。左手に色紙、右手にペンを持った状態で杉野君は僕を見てこう言った。「サインってどうやって書けばいいの?」
「いや、そんなの自分で考えろよ」
「だってサインなんて書いたことないし」
「今決めたらいいだろ」
「うーん」杉野君は悩みながら色紙にペンを走らせる。自分のノートに名前を書くみたいに、なんの捻りもなく丁寧な文字でペンネームを書いていた。さすがにそれだけでは味気ないと思ったのか、「よかったらイラストもつけようか?」とサービス精神あふれる提案をした。
「ぜひお願いします!」即答だった。
「リクエストある?」
「えっと、できれば男の子キャラがいいです」
「了解」
そう言って、名前の隣にささっと絵を追加した。はやいのに上手い。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」花が咲いたような笑顔。「宝物にします」
大切に色紙を受け取ってから、深くおじぎをした。
ポニーテールの子にも同じようにイラスト付きの色紙をプレゼントして、その子もメガネの子と同じように大喜びで杉野君に感謝の言葉を述べた。
そして二人はご満悦の様子で帰っていった。
「なんだかもうプロみたいね」後ろで様子を見ていたクラスメイトの女子が言う。
「うーん」
杉野君は難しい顔をしている。その表情の理由を僕なら理解できる。
評価されることに慣れてなくて、自分の中にある喜びを素直に表現できないのだ。
つづいての来客は昼休みに訪れた。
「失礼。杉野先生はいらっしゃいますか?」
職員室で先生を呼ぶみたいに、大柄な男子の集団が教室に入ってきた。雰囲気から察するに間違いなく上級生。
その集団の一人が、入り口付近にいた女子をつかまえてどれが杉野君か訊ねているようだった。女子の指先がこちらに向いている。男子はしっかりと一礼してからこっちに向かってくる。
彼らは杉野君の前で立ち止まると、びしっと背筋を正した。
「杉野先生、このたびは月刊少年エイジス新人竜王杯にて銀賞受賞おめでとうございます」
リーダー格の男子がそう言って深々と頭を下げると、その他の男子たちがそれにつづいた。武士のような礼儀正しさとヤクザみたいな威圧感が一つになっている。
「ど……どうも」杉野君は明らかに引いていた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。まさかうちの学校の生徒だったとは。あ、私、漫画同好会会長の新藤と申します」
漫画同好会という名前の組織からやってきたヤクザだと思ったのは、たぶん僕以外にも数人いたはずだ。
「へえ、うちの学校に漫画同好会なんてあったんだ」
どうやら敵ではないようだと、杉野君の表情から緊張がとけた。
「いやはやお恥ずかしい。無駄に歴史ばかりが長くて実績のない会でして」
「で、その同好会さんが何か?」
「はい。エイジスの銀賞受賞者からはこれまでに、新垣裕太先生、小野拓也先生、いぶきかえる先生などなど、現在も第一線で活躍なさっている先生方を多数輩出したおり、銀賞は真の大賞ともいわれています。そして今回はめでたく杉野先生が──」
「あのさ、その先生って呼ぶのやめてほしいんだけど」
「何をおっしゃるんですか」新藤氏、吠える。「フォローチャートを拝読させていただきました。杉野先生は間違いなく次世代漫画業界を引率される逸材であると確信しました。漫画同好会全員、今月号のエイジスは一人三冊買って、アンケートハガキに杉野先生の次回作を
「いや、別にそんなことしてもらわなくても……」
「ちなみに、私はすでに七冊購入しております」
あと十冊は買いそうな勢いだ。
「そ、それはご苦労様です。で、僕にどのようなご用件でございますのか?」
中途半端な敬語が杉野君に伝染していた。
「はい。今回の受賞と杉野先生のますますのご活躍に期待して、たいしたものは用意できませんが祝賀会の準備をしておりますので、本日の放課後、ぜひご参加下さい」
「いやいや、いいよそんなの。別にデビューが決まったわけでもないのに」
「そうおっしゃらないで、なにとぞ」
漫画同好会会長新藤さんと無口な仲間たちは深々と頭を下げた。同時にうちのクラスの女子たち数人が教室に入ってきた。たぶん食堂から戻ってきたのだろう。プロレスラーみたいな大男の集団がクラスで一番小柄な男子一人に頭を下げているという異様な光景に彼女たちは小さな悲鳴を上げた。
何も悪いことはしていないのに、自分のせいで少なからずクラスに迷惑をかけていることを悟った杉野君はとにかく場をおさめようとした。
「わかったよ。参加させてもらうから、とにかくここから出ていってよ」
「ありがとうございます」顔を上げて、にかりと笑う新藤氏。
なぜか近い将来、この二人が一緒に仕事をしているイメージが頭に浮かんできた。新藤さんが無茶な依頼を持ち込んで、しぶしぶそれを
僕の頭の中で、二人はいいパートナーだった。
同好会の皆さんがクラスから出ていってから、杉野君は大きなため息をついた。
「何なんだよ、今日は」
「早くもファンがいっぱいできていいじゃないか、先生」
僕は杉野君の肩をぽんぽんと叩いた。その手首を杉野君が、がっちりと掴む。
「きみも付き合えよな、祝賀会とやらに」
「何で? 僕は関係ないだろ。一人でいってよ」
杉野君の表情がみるみる不安の色に染まっていく。
「あきれたな。君がそこまで人でなしとは思わなかったよ。見ただろあの人たち、きっと僕を太らせて内蔵を食べる気だ」
「いやいや。
「どうして?」
杉野君は眉間にしわを寄せて怪訝な表情を作る。これは彼が本当に困ったときにだけ見せる顔だ。
僕はゆっくりと告げた。
「今日は、妹を病院につれていかなきゃいけない日なんだ」
「……あ」
そこで杉野くんの表情がリセットされる。
「そっか、だったらしかたないな。じゃあ同好会の人には祝賀会の日を変更してもらうように頼んでみるよ」
「何でそうなるんだよ。みんなはきみを応援してくれてるんだよ。僕にかまう必要なんてないだろ」
「でも……」
「楽しんでこいよ。あとでメールでもくれたら僕もそれ参加した気分になれるから」
杉野君は長めの思考の末に、わかったよ、と小さくうなずいた。
僕はその言葉にうなずいた。
帰宅すると妹が廊下に寝そべってノートにラクガキをしていた。
「あら、今日は早いのね」と奥から母の声。
僕は適当な言葉を返して自分の部屋に入った。
ノートパソコンの電源を入れて立ち上がるのを待っていると携帯電話がメールの着信を告げてきた。着信音は家族用のものだった。差出人は妹から。
『はやかったね。学校わ楽しかった?』
その短い文章に『楽しかったよ』と更に短い文章で返信した。言葉では上手くコミュニケーションの取れない妹だけどメールだけはお気に入りのようで、頻繁に僕たち家族に送信してくる。
しかし、返信には細心の注意が必要だ。文面は長くてはいけない。曖昧な表現はいけない。否定的な言葉を使ってはいけない。誤字を指摘してはいけない。返信が遅くてもいけない。
僕たち家族が経験から生み出したいくつかのルール。これを一つでも破ると、高い確率で妹は壊れる。
僕はしばらく携帯を見つめて、それをベッドの上に投げ、机の上のゲームパッドをつかんだ。
二時間ほどゲームに没頭していると、また携帯電話からメールが届いたぞと音が鳴る。今度の着信音は友人用だった。
『祝賀会終わった。みんないい人だった。きみにもいてほしかった』
「…………」
すぐに返信しないで、僕はゲームに戻った。今、かなり手強い敵と戦っている最中なのだ。
「…………」
今日は妹を病院につれていく日。
どうしてあんな嘘をついたんだろう。
妹のことについては、杉野君に少しだけ話したことがある。とても病弱な妹なんだと、真実をぼかしたかたちでだけど。
まだ彼とあまり親しくないころ、僕はよく妹を盾にして彼からの強引な誘いを回避していた。
もう、そんなことをする必要はないと思っていたのに、なんで。
邪悪な魔導師が強力な魔法で僕のパーティーを攻撃してくる。その威力は強大で、僕たちは全滅した。
舌打ちをして、パッドを机の上に投げる。少し大きな音が響く。それがスイッチだった。
となりの部屋にいた妹が音に反応して騒ぎはじめた。
しまった。もの音にはいつも注意してるのに。僕は慌てて部屋から飛び出した。妹の異変に気づいた母も走ってこっちにやってくる。あんた何したの、と目で叱ってきた。ごめん、と僕も目で謝った。
何が妹を暴れさせるかわからない。それはちょっとした言葉だったり、表情だったり、もの音だったりする。だから僕たち家族はできる限り、それらを封じて生活している。
僕と母で必死になだめ、二時間以上費やして、なんとか妹を落ち着かせた。
部屋に戻ると無意識に机の上の携帯電話をつかんで、それから沈むようにベッドに倒れた。
『祝賀会終わった。みんないい人だった。きみにもいてほしかった』
少し前に届いたメールを眺めていた。
どう返信するべきか考えた。
だけど何も浮かんでこなかった。
結局、返信することができないまま、僕は眠りに落ちた。
「え? そうなの?」
翌日の放課後、それはふいうちだった。
「うん、ごめん。昨日、同好会の人たちと約束しちゃったんだ」
杉野君は顔の前で手を合わせている。
昨日、嘘をついてしまったことの埋め合わせとして今日の帰りにファーストフードでもごちそうしようと考えていたのに、先約があったことを今知らされた。
「まあ、でもそれならしかたないよね」僕は笑ってみせた。
そうすることで、胸の高さまで浮かんできた妙なモヤモヤをまぎらわせた。
でもこれでおあいこかな、と自分勝手な結論をつけた。
帰宅してから、必死にゲームのレベルを上げて、昨日僕たちを酷い目にあわせた魔導師を粉砕してやった。
そしてあの男に会いにいく。
『今は、話しかけないでくれ』
まだ彼に会うべきときではないらしい。
ゲームはまもなく終わりを迎えようとしているのに。
翌日。
「さあ弟よ。久しぶりに兄弟仲良く帰るとするか」
「そうだね」
僕たちは同時に鞄を持ち上げた。
「せんぱーい」
かわいらしい声が教室の入り口からやってきた。
声の主はトタトタと早足で近づいてきて、杉野君と腕を組んだ。
「お迎えにきましたよ。一緒にいきましょ」
その声にふさわしい、かわいい顔をしている。
僕も杉野君も、ぽかんとしていた。
「えっと」僕は訊ねた。「この子だれ?」
「えっと、この子は小鳥ちゃんっていうんだ」
すごいな。名前までかわいいぞ。
「もしかして、杉野君の──」
「はい。彼女です」と小鳥ちゃんは言いきった。
「違うよ! 何バカなこと言ってるの」やけに強い口調で否定する杉野君。「この子は漫画同好会の子で、ただの後輩」
本当にそれだけだからな、と杉野君は念をおしてきた。そこまで必死だと
「そんなことより先輩、早くいきましょうよ。表情の描き方教えてくれる約束したじゃないですか」
「それは来週だって言ったじゃないか。今日は友達と約束があるんだ」
「えー」
小鳥ちゃんはつまらなそうな声を上げて僕を見た。邪魔者を見る目で。
僕は笑った。
「気にしなくていいよ。ちょうど一人でいってみたいところがあったから、そこにいくよ」
杉野君は、じっと僕を見つめた。
「本当に? 何か無理してくれてない?」
「してないよ、そんなの」
そう言ってまた笑う。そうすることで、首まで上がってきたモヤモヤをまぎらわす。
「ほらほら、お友達さんもああ言ってくれてるんだし、早くいきましょ。みんな待ってますよ」
小鳥ちゃんは腕を組んだまま、ぐいぐいと杉野君を連行していった。
それから購買部に行って、アセロラミルクという得体の知れない飲み物を買ってノドを
変な冒険心は出さないで、いつも通りシエラの名水を飲めばよかったと後悔する。
ふと、聞き覚えのある笑い声が僕の耳に入ってきた。
声のする方を見ると、少し離れた場所にある教室で、杉野君と大柄な男たちと数人のかわいい女の子がいた。どうやらあそこが漫画同好会の集合場所のようだ。
みんなの中心で杉野君はとてもいい笑顔だった。それは僕の記憶の中にはない顔だった。
「……なんだ、楽しそうじゃないか」
まっすぐ家に帰ってゲームのつづきをはじめる。
これまでの苦難は何だったのかと思えるほど最後の敵はあっけなく倒れてしまった。
しかし、ネットで調べてみると、このゲームはエンディングの後も隠しダンジョンが登場するなど、もう少しだけストーリーがつづくようだった。
ついにくるべきときがきたと思った。
僕は彼の家にいって、ボタンを押した。
『今は、話しかけないでくれ』
「…………」
その夜、妹が理由もなく暴れはじめ、家族全員で看護して、ことが落ち着いたころには、空に朝日が昇りはじめていた。
「何か疲れてるみたいだけど大丈夫?」
「いや、ちょっとね……」僕はカチャカチャとゲームパッドを操作している動きをして見せた。「これのやりすぎで」
まだ一時間目が終わったばかり。今日一日、体力が持つだろうか。
杉野君はあきれたようにため息をついて、咳払いを一つ。
「だらしないぞ、弟」
久しぶりに杉野君のお兄ちゃん声を聞いた気がする。何だかほっとする。
「おい杉野、ちょっといいか」
そこにクラスの男子が割り込んできた。
「俺の親戚がさあ、お前の漫画読んでファンになったっていうんだ。悪いんだけどこれにサインしてやってくれるか?」
そう言って、ハガキほどの大きさの紙を出してきた。なんだか質のいい、高級な紙のように見えた。
「喜んで」
杉野君はさらさらとサインを書いていく。慣れた手つきだった。ここ数日でたくさん書かされたんだろうな。
杉野君の作品はSNSで話題となり、拡散され、その範囲は今も拡大されている。
作者の新作を望む声も増えつづけている。
杉野君はネット上で活動をしていないため、突如現れた謎の天才の正体を詮索する言葉が電子の海を駆け巡っていた。
インターネットの意見を鵜呑みにすると、杉野君は多くの人気作家のもとで長年アシスタントを経験してきた三十代半ばの女性作家なのだそうだ。
頭がぼーっとする。
「もう連載とか決まってたりするの?」と男子は訊いた。
「そんなの決まってないよ」杉野君は照れたように笑う。
「アニメ化とかしたらどうするよ?」
「だからそんなのわからないって」
「声優に会えるんじゃね?」
「僕、声優さんにあまり詳しくないから」
手の届く距離で、夢のような未来が語られていた。
誰もが一度は夢見ること、でも誰の手にも届かないこと。
ところが、手の届く距離にいる一人の少年の手は、その夢に届くことができる。
かつては僕の兄。今はみんなの憧れの存在。
頭が、痛い。
「おい、どうした弟、顔色が悪いぞ?」
──が、痛い。
「ねえ、杉野君」
「どうした?」
今は──
「今は、話しかけないでくれる?」
気がついたら、部屋でパッドを握っていた。
今日一日、学校で何があったのか面白いくらい記憶がないけど、こうしていつも通り夕方にノートパソコンの前でパッドを握っているんだから、いつもと変わらない今日を繰り返してきたことは間違いないのだろう。
『今は、話しかけないでくれ』
『今は、話しかけないでくれ』
『今は、話しかけないでくれ』
やっとわかった。
彼は僕だ。
みんなが一生懸命、人生を進めていく中で、一人、部屋の中で閉じこもっている。
本人はそれなにり頑張ったりすることもあるけど、でも、何も変わらない。
だって、もう気づいてしまったんだ。
──イベントを用意されていない人生に──
『今は、話しかけないでくれ』
「お前も少しは何かしろよ!」
ディスプレイに向かって叫んだ声が、そのまま自分に跳ね返ってきた。
僕の声に反応して、妹が暴れ出す。
もういやだ。こんなの、みじめすぎる。
大昔のゲームの前で、感動する場面でもないのに、涙をこぼしていた。
もういい。もういいよ。
その決意は意外なほどあっさりと僕の心に
死のう。
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