第18話
ふと、ノートパソコンのディスプレイに何者かの陰が映り込んでいることに気づく。
振り返ると、背後に妹が立っていた。一体、いつからそこにいたんだろう。
妹は薬指を口にくわえた姿勢で静かにゲーム画面を見つめている。
その目が蝶でも追うようにふわふわと泳いで、やがて僕の視線とぶつかる。
「…………」
「…………」
二つの無言。
「ど、どうした?」僕は子供をあやすように笑顔を作る。「お前もやってみるか?」
そう言って、パッドを妹に差し出した。
妹はそれを素直に受け取った。直後、ゴミみたいに捨てた。
僕はただ、薄く笑うしかなかった。
果物を用意したからいらっしゃい、と台所から母の声がやってくる。
妹はバタバタと必要以上に大きな足音をたてて、僕の部屋から飛び出していった。
僕はため息をついてパッドを拾う。
三歳年下の妹がああなってから、そろそろ二年になる。
少しは良くなっているのだろうか、それとも悪化しているのか。
現状は何も変わっていない気がした。
どこにでもいる普通の女の子だった妹は、ある日を境に
口数が減り、部屋に閉じこもり、前触れなく奇声を上げるようになった。
学校でイジメられているのか、それとも誰かに乱暴なことをされたのか。両親の必死の調査の末にどちらでもないと結論が出た。
妹はクラスでも人気のある生徒だったらしく、クラスメイトも先生も妹の様子が変化したことを心配していたし、親友の子は今でも週に何度かお見舞いにきてくれている。そして精密な検査の結果、妹の体は誰かに何かをされた痕跡はなかった。
つまり妹は本当に、ただ変わってしまったのだ。
極めて珍しいケースだが、こういう症状が出てしまう人は稀にいるのだと医師は僕たち家族に説明してくれた。
思春期に近づいた子供が感情をコントロールできず、心を乱してしまい、時に
成人までには何事もなかったみたいに必ず完治すると教えてくれたのが唯一の救いだった。
ただし、感情を破裂させて最悪の場合、自殺してしまう可能性もあるとのことで、妹のために母は専務を任されていた繊維メーカーを辞めて、今では一日中妹の世話をしている。
とにかくひどいマイナス思考になっていて、どんなことでも必要以上に悪く捉えてしまうので、妹の前では努めて明るく振る舞うように、ケンカをするなどはもってのほかだと医師は強く言った。
こうして僕たち家族の緊張感あふれる生活が幕を開けたのだった。
とはいえ別に妹は獣になったわけじゃない。たまに会話をすることや、ゲームをすることだってある。
がしゃん、と皿が割れる音が台所から響いてくる。つづいて妹の奇声。あらあら大変ね、と無理して明るく対応する母の声。もう慣れてしまった我が家の日常。
妹は獣になったわけじゃない。ただほんの少し、壊れてしまっただけで。
翌日。
昨日別れたところに杉野君はいた。ここは僕たちの解散の場所であり、集合場所でもある。
「おはよう、杉野君」僕は片手を上げて朝の挨拶をした。
杉野君は顔をしかめて、つまらなそうな目で僕を見た。
「もの覚えの悪い人間に与える賞をきみの名前で設立したいね。いつになったら僕のことを、お兄ちゃんと呼んでくれるんだい?」
それだったら、女の子にしか見えない男の子を
「昨日教えてくれたゲーム、良かったよ。けっこうハマってる」
杉野君は、ふんっと鼻を鳴らした。
「僕が厳選した作品なんだから当然だろ。しかし兄として警告したはずだ。夜更かしはするなと」杉野君は背伸びして、人さし指を僕の眉間に近づける。「どうしたんだその目は。クマができてるじゃないか」
「いや、これは……」咄嗟に真実を話しそうになって、声をのむ。「……えっと、その、ごめんなさい。今後気をつけます」
昨晩は珍しく早い時間に布団にもぐっていた。しかし、妹が深夜から夜明けまでずっと、聞いたこともないメロディーと言葉の歌を大声で叫びつづけてくれたおかげで一睡もできなかったのだ。
「……」
杉野君はじっと僕を見つめている。
おかしいな。いつもならここから更に兄貴風をふかせた小言がいくつも飛んでくるのに。
おかしいといえば、昨日からどうも彼の様子に違和感があった。
名誉なこととは言い難いが、僕の高校生活の隣にはいつも彼がいた。気のせいなどではないはずだ。
思いきって訊ねてみるべきかどうか、そこに迷っている。
「おい、どうした弟。腹でも痛いのか?」
「え?」
僕と杉野君の間に距離が生まれている。ぼうっとしている内に置いていかれたらしい。
「あ、待ってよ」
僕は足早に小さな背中を追った。
学校での行動は、最早ゲームのレベル上げ同様の作業と化していた。
決まった場所で決まった時間拘束され、決まった杉野君と決まった放課後。
別に今に強い不満があるわけじゃない。学園祭でみんなの前でライブをするような、そういうものを望んでいるわけでもない。でも、中学時代の僕は高校生活というものにもう少しだけ華やかさを期待していた。
具体的にそれは一つしかないわけで、つまり、中学時代の僕はかなり本気で信じていたのだ。高校生になれば自動的に彼女ができるものだと。
中庭にて。購買で買ったソーセージパンをかじりながら、初々しい恋人たちをながめていた。
みんな、とにかく幸せそうだった。
そんな中、信じられない光景が目に飛び込んできた。一組のカップルが校内で堂々とお互いの顔を近づけはじめたのだ。
おいおい。軽蔑しながらも、目が離せない。後学のために脳に焼きつけておこう。
「はい、そこまで」
雨上がりのようなその声に、その場にいた全生徒が振り向く。
長い黒髪を風に泳がせながら、一人の女子生徒がカップルに近づいていく。
「校内でそれはダメよ」
彼女はバレリーナのようにくるりと回って向きを変える。スカートがふわり舞う。
「他のみんなも校内では健全な交際を」そこまで言って、あっと手で口を覆った。
「もちろん校外でも、だからね」
一斉に笑いが起こる。僕もつられて笑っていた。
「それではみなさん、良い放課後を」
それだけ言って彼女は去っていった。
それだけで、周囲は健全な空気に包まれてしまった。恋人たちの間にほどよい距離感が生まれている。
「カリスマ性あるよね、新しい生徒会長」
花壇を作るために積まれているレンガの上に腰掛けた杉野君がぽつりともらす。
「うん」
それ以外の言葉が出てこなかった。
同じ学年のはずなのに教室の付近では見かけたことがなく、全校集会やイベントで高い場所から話しをする彼女しか知らなかったので、今の近さは新鮮だった。
「なんだか見とれてたみたいだけど、弟はああいう女子が好みなのか?」
「好みっていうか、美人だとは思うけど次元が違いすぎて相手にしてもらえないでしょ」
「うむ。正しい思考だ。先日うちのクラスの山根が彼女に告白したらしいが、あっさり断られて沈んでいたぞ」
山根といえば、うちのクラスどころか間違いなく二年生の男子でトップクラスの容姿の持ち主だ。見たことはないけど、雑誌でモデルの仕事もやってるらしい。僕と杉野君のことを悪く言ってこない数少ない存在なので、たぶん性格も悪くないはずだ。
その彼がダメというなら、もはや恋愛に興味がないか、心に決めた人がすでにいるかのどちらかだろう。
「で、弟にも気になる女子はいたりするのか?」
「別にいないよ」これは本当。「恋愛とか興味ないし」これは嘘。
「なるほど」なぜか杉野君は嬉しそう。
「ま、いざとなれば僕には杉野君がいるからね」これは冗談。
次の瞬間、杉野君は腰掛けていたレンガごと派手に崩れた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「い、いい、いきなり何を言うんだきみは!」
冗談だとわかってくれてると思ったのに、気持ち悪いやつだと思われてたらどうしよう。
僕の手を借りて杉野君は立ち上がる。
「ごめん」
「あやまらなくていい」
ぱんぱんと、体についた砂を払ってから、彼は自分の鞄の中から紙袋を取り出して、それを僕に押しつけてきた。
「なにこれ?」
「やるよ」ぶっきらぼうに言ってくる。
紙袋の中を覗いてみると、杉野君が愛読している月刊の漫画雑誌が入っていた。
「いいの? これ杉野君が自分用に買ったんじゃないの?」
「自分のはもうある。それはきみ用に持ってきたんだ。いつわたそうか迷ってたけど、もう今でいい」
どうしてそんなにカリカリしてるんだろう。
「ありがとう」一応、お礼を言う。
この雑誌は杉野君の家に遊びに行ったときにいつも読ませてもらってるのに、どうして今回に限ってこんなことをしてくるんだろう。やっぱり最近の杉野君はちょっとおかしい。
「今日はもう一人で帰る」そう言って鞄を持って歩き出す。「いいか、ちゃんと読めよ」一度振り返ってそう言って、また歩き出す。「おすすめは百六十八ページだからな」また振り返ってそう言って、威勢よく歩き出す。
それ以降は振り返ることなく、杉野君は
『今は、話しかけないでくれ』
『今は、話しかけないでくれ』
おかしい。
帰宅してとりあえずゲームのつづきをはじめた僕は、ディスプレイの前で首をかしげていた。
本作、ロストプレートの魅力はその膨大なイベントとテキストにあると思っていた。
一つ一つのイベントをクリアしていくと、そのたびに住人たちのセリフが少しずつ変化していき、成長していく世界を体験できる。
『今は、話しかけないでくれ』
その世界の中で一人だけ、いつまで経ってもセリフに変化のないキャラクターがいるのだ。
とある村のとある家に住んでいる、とある男。
どれだけイベントをクリアしても、こいつだけ何の変化もない。どうしてだろう。
案外、彼はゲーム内で重要な役割を担っていて、いつか、あっと言わせる展開を見せてくれるのかもしれない。
うん。なんだかそんな気がする。楽しみにしていよう。
とんとん、と誰かが僕の肩をたたく。
振り返ると妹がいた。
くいっと腕を部屋の外に向けている。その指先は台所の方をさしている。夕食の支度ができたから呼びにきてくれたのだ。これをしてくれるのは、妹の機嫌がかなりいいときに限る。
「ありがとう、すぐにいくよ」
僕の言葉にうなずくと、妹はバタバタと大きな足音をたてて部屋から出て行った。
何もない学校生活。平穏とはいえない家庭。それでも、こういう穏やかな夜もときどきやってくる。
机の上には杉野君からもらった雑誌と、やる気もないのに広げられた宿題と古いゲームが起動しているノートパソコン。
これが僕の青春だ。
でも、これも悪くない。大きなことは望まない。静かに生きていきたい。
だから、このときはまだ思いもしなかった。
数日後、この机で僕が遺書を書くことになるなんて。
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