第22話
ぐちゃぐちゃと、万華鏡を
復讐と報復の違いはよくわからないけど、彼女がこれまで僕にしてきたことも、その類いだったのだろうか。
「私は感動したわ。大げさな表現じゃなくて本心よ。世の中にこんなことができる人が本当にいるんだなって」
つい先ほどと、全く同じ言葉を僕に言った。ただし、そこに込められている感情は、つい先ほどのものとは正反対に思えた。
「心が、破裂しそうになった」
不快感を示すのに、それ以上の言葉はないように思えた。
「……ごめん」
遅くとも一週間前のあの日、もしくは生まれた瞬間に口にしておくべきだった言葉を、僕はようやく声に出した。
「どうしてあやまるの?」彼女は二回まばたきをした。
「それは、だって……きみに良くないことをしたから……」
幼いころ、何か悪いことをして、それが見つかって大人の前であやまるとき、ちょうどこんな気持ちになっていた。言葉がみつからなくて、うまく伝えられない。
「なんで?」
そして大人たちは、こうやって追い詰める言葉を被せてくる。
「だから……」この後に言葉はつづかない。とにかく何か言ってみただけだ。
彼女はくすくす笑う。
「もしかしてきみは、私がきみに不愉快な感情を抱いてると思っているのかもしれないけど、だとしたらそれはすごく勘違いだよ」
「……え?」
彼女は右手で僕の左の頬を撫でる。
「言ったでしょ。きみは私から不安を取り除いてくれた。きみの存在そのものが私の救い。私はね、あのとき、嬉しかったんだよ?」
これだけ密着しているのに、月の光りは彼女だけを照らす。この舞台のヒロインは彼女。そして主人公も彼女。
「あの瞬間に生まれた感情を──この想いをずっと伝えたかった。でも伝えられなかった。きみの周りにはいつも女の子がたくさんいたし、もし、もう心に決めた人がいたらどうしよう。もし、この気持ちを伝えても拒絶されたらどうしよう──そんなことばかり考えてた」
彼女の左腕が僕の首の後ろにまわる。
「そんなとき、きみと生徒会室で二人きりになれるチャンスが訪れた。でも私はきみと向きあうのが怖くて眠っているふりをした。そんなとき、きみは私に──ねえ答えて。どうしてきみは私にあんなことをしたの?」
「それは──」
「それは?」
「それは……」
「女の子だったら誰でもよかった?」
「それは違う」首をふった。「あのとき、ああいうことをしたのは、きみが」
「私が?」
「それは、きみが、すごく、かわいかったから……」
『なぜ勉強をするのか』誰もが一度はこの疑問とぶつかるはずだ。それに対する明確な答えを今の僕なら言える。
こういう状況に
彼女は望んでいたものを与えられたように微笑んだ。
「それって、きみの中で私の存在が特別だったってことかな?」
「……うん」
それは嘘じゃない。特別すぎて、欲しいとさえ思えなかった存在。
彼女は僕の体から手を放すと、生徒会室の中を小さく跳ねまわった。
「子供のころ、こういうのよくやらなかった?」
僕は首をかしげる。
「こうやって」と言って、また跳ねる。「横断歩道の白線だけ踏んで向こうにいけたら、どんな願いでも叶うってやつ」
「ああ、やりましたね」
「でもあれって、行動に対して期待する見返りが大きすぎると思わない?」
「まあ、確かに」
白線から外れずに移動できたり、遠くにあるゴミ箱にものを入れられた程度で願いが叶うのなら、世の中はこんなにジメジメしていない。
「でもね。私、ああいうの嫌いじゃないよ。強い想いを込めて、これを成し遂げられたら願いは叶う。そう思って行動する。素敵だと思う」
彼女は白線だけ踏んで横断歩道をわたるように、小さく跳ねながら僕に近づいてきた。
とん、とん、ぱ。そして僕の前にたどり着く。
「だからやってみたの。もしそれを成し遂げることができたら、願いを叶えてもらえるようなことを──私が考えたデタラメなゲームにきみが最後まで真剣に付き合ってくれたら、そのときは、きみと、きみとずっと──」そこで彼女は透明な果実をかじった。
「……ねえ」彼女は
「え?」
「きみの恋人になれたって、思ってもいいよね?」
顔を上げたその瞳の儚さに、心が奪われる。
「あなたは私に呼吸を教えてくれた。もうあなたのことしか考えられない。あなたがいればそれでいい。それに──」
彼女は恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「それに、今日一日であなたに私のいろんなはじめてを
僕は彼女の唇を見た。少し目線を下げて、それからもう少し目線を下げた。なんだろう、この気持ちは。
彼女は僕と目を合わせてきた。つぶらな瞳が僕に返事を求めている。
『はい』
『いいえ』
無意味な選択肢が現れた。
昔のゲームで遊んでいると、重要な局面でこういう選択肢が現れることがよくある。
しかし、そのどれもが『はい』と答えるまで延々と同じセリフがループしたり、中には『いいえ』と答えた瞬間、ゲームオーバーになるものもあった。
つまり、はじめから選択肢に意味はないのだ。『はい』を選ぶ以外、道はない。だから僕はこれを無意味な選択肢と呼んでいた。それが今、僕の前にもやってきた。
「…………」
いや、一つだけ例外があった気がする。確か最後の戦いを前に魔王からとても魅力的な提案をされて、それに『はい』と答えると、それまで積み重ねてきたものを全て奪われて、なぶり殺されるゲームがあったような。あの作品のタイトルは何といったかな。
僕は彼女の目を見た。魔王のように深く、村娘のように清楚。そんな矛盾でできた瞳。
僕はゆっくりとうなずいて、肯定の気持ちを伝えた。
刹那、彼女は僕に飛びついてきた。小さな声で、うれしい、と耳に甘い声。
「これで私はもう、きみのものだよ」
そう耳元でささやいた。
なぜだろう。自分は僕のものだと言ってくれたのに、僕が彼女のものになった気がするのは。
なぜだろう。僕を抱きしめる草花の
このエンディングは正しいのだろうか。
急ぎ足の雲が、月の前をするりと通りすぎた。
「今日はすごく楽しかった。今まで生きてきた中で最高の一日だったよ。でも、明日からは、二人でもっと楽しくしようね」
「……うん」
そういえばたった今、僕と彼女は晴れて恋人同士となったのだ。面白いくらい実感がない。
「離れたくないけど、今日はもう帰らないとね。だけど最後にちゃんとやらないとね」
「……うん?」
彼女は僕から離れて、生徒会室中央にある床の扉を持ち上げた。そこには
完全に忘れていた。いや、思い出したくなかったのだろう。その中に女子生徒の死体が入っていることを。
生徒会長は少し重そうに剣崎咲希の体をそこからずるずると引き出した。手伝うべきかどうか迷っているうちに、剣崎の体は魚みたいに生徒会室の床に転がった。
「あの、どうするんですか……その、剣崎さんを」
僕は何をのんきになっていたのだろう。生徒会長と付き合ってる暇なんてなかった。彼女は犯罪者だ。それも、殺人犯。
「決まってるでしょ」彼女は涼しい声でつづけた。「ゲームが終わったあとはお片づけの時間です」
そう言って、足下にあった剣崎の顔をボールみたいにつま先で蹴った。
「ちょっと──」
死体に鞭を打つという言葉の実例を、生まれてはじめて
つづいて彼女は鳥のように、すっと片足を上げた。綺麗な脚のラインに見とれそうになる。かろうじて自我を維持できたのは、彼女の足の下に剣崎の顔があったからだ。
その脚を鎌のように振り下ろす瞬間、僕は彼女を抱きしめた。
「こらこら、どうしたの? 甘えん坊さん」
「その、何が目的かわからないけど……そういうのはよくないです。僕は逃げたりしませんから、剣崎のことは、とにかくまず救急車に連絡を」警察にはその後で、という言葉は口にしなかった。
だが、彼女の行動は僕の予想を超越した。
両手の手のひらで僕の頬を掴むと、彼女は目を閉じて僕と唇を重ねてきた。数秒後、ゆくりと唇をはがす。
「優しいんだね。きみを好きになれて本当によかった。でも心配しないで。きみが思ってるようなことにはならないから」
「どういうことです?」それより、なぜキスを?
ソフトクリームとチョコレート。そこに角砂糖とガムシロップをまぜてもまだ足りないくらい甘い声が足下から届いてきたのは、そのときだった。
猫でも迷い込んできたのかと思ったけど、そうではなかった。その声は剣崎咲希の口からもれていた。
一瞬。本当に一瞬。本当に一瞬だけ、心臓がとまった。
「な、な──」
「おはよう、咲希ちゃん」
僕の感情などおかまいなしに、生徒会長は腰をかがめて剣崎咲希の頭を撫でている。
「おはよう」甘えた声で猫みたいに気持ちよく撫でられている剣崎は「ねえ、もっとして」と生徒会長におねだりをする。
「はいはい」
生徒会長は音が響くほどの力で、剣崎の頬を手のひらで打つ。それはそれは非の打ち所のない立派な暴力だった。だけど、剣崎咲希はとても嬉しそうだった。
そんな剣崎と目があった。途端に、背の高い少女の顔つきが恐怖で引き締まっていく。
「な、なんで」剣崎は生徒会長の脚にしがみつく。「なんで彼がここに?」
見られたくない人に、見られたくない姿を見られてしまった。そんな顔をしている。
「大丈夫だよ、咲希ちゃん」生徒会長は剣崎の頭を撫でる。「彼はもうこっち側の人だから、ちゃんとわかってくれてるよ」
「生徒会長、これは一体?」
聞き捨てならないことを言われた気がしたけど、あえてそこにはふれなかった。
彼女はせつなそうに剣崎を見つめた。
「咲希ちゃんもね、呼吸の苦手な子なの。だから壊れないように、こうやってときどき叩いてあげてるの」
壊さないために、叩く。
そう言って、か細い握り拳を剣崎の頬にぶつける。剣崎は脇をくすぐられてるみたいに笑っている。どうしようもなく異様な光景なのに、二人の少女の美しさが、その行為に儀式のような正当性を与えていた。
とりあえず、剣崎咲希は生きてた。それだけは本当によかった。そんなことを思っていると、相変わらず僕の感情を察したように生徒会長が口を開く。
「言ったでしょ、どんな理由があっても咲希ちゃんを傷つけるようなことはしないって」
きっと彼女は心得ているのだろう。どこにどの程度の痛みを与えたら剣崎がどうなるのか。
何度も繰り返し、経験から学んでいるのだろう。
剣崎の生存は僕の肩から重い何かをさらってくれた。でも今はそれ以上に重い別の何かが、僕の背におぶさっていた。
「ごめんね。咲希ちゃんのこと、ずっと心配してくれてたみたいで」
「いえ、無事で何よりです」僕は力の入らない声でつぶやいた。同時にもう一つのことを思い出す。「あの、だったらもしかして、村瀬もああ見えて実は傷ついていなかったりするんでしょうか?」
全ては生徒会長の計(はか)らいだったのだろうか。
「え? 村瀬さん?」彼女は下唇に指をあてて、考える素振りを見せる。「村瀬さんはすごく傷ついてるはずだよ?」
「え?」
「だって、村瀬さんは私のライバルだったから」
そう言って小悪魔的に笑って見せた。
「ライバルだった、ですか?」
過去形になっていることに引っかかってしまうのは、僕の考えすぎだろうか。
「きみのそういうところも大好きだよ」と言って、また笑う。
「……はあ」
たぶん僕は今、ほめられているのだろう、か。
床に寝転んだままの剣崎が、僕に聞こえない声で生徒会長に何か伝えている。はいはい、しょうがない子ね、と彼女が言ったので、どんなことを話したのか、だいたいの想像はついた。
「ごめんなさい」彼女は胸の前で小さく手をあわせた。「きみと一緒に帰りたかったんだけど、咲希ちゃんが解放してくれそうにないの。だから、その楽しみは明日にとっておくわ」
「わかりました」
完全に忘れていた。僕と彼女はもう
鞄を拾って、出入り口の前まで進む。扉に手をかけたとき、ずっと封印していた疑問が喉の奥で
「……最後に一ついいですか?」
「ええ、どうぞ」
僕は振り返る。
「もしあのとき──ゲームがエンディングを迎えたとき、バッテリーがきれずに物語が進んでいたら、あなたはその通りに行動しましたか?」
本当なら、
彼女はどこか困ったように微笑む。
「歴史に『たら、れば』は存在しないわ。起きたことも起きなかったことも、全て正しいの。そこに後悔を生まないためには全力で生きるしかない。だから私は今日、それをした。それだけだよ」
教科書に書いてあってもおかしくない、とても生徒会長らしい立派な言葉だった。でも、僕の質問の答えにはなっていなかった。だけど、これ以上追求しようとも思えなかった。
「……ありがとうございます。失礼します」
一礼して、扉を開けた。
「待って」
背中から彼女の声。
僕はもう一度、振り返る。
「私からも一ついい?」
うなずいた。
「ずっと気になってたんだけど、どうして敬語なの? 私ときみは同級生だし、それに……」そこで少女は声をもじもじとさせる。「私ときみはもう、その、こ、恋人同士なわけだから、これからはもっと、普通にお話して、それから……お互いのこと、名前で呼びあおう?」
僕は思わず笑う。
本当に不思議な人だ。
彼女には魔王などではなく、みんなに優しい魔法使いであってほしい。
「わかりま……わかったよ。じゃあまた明日──」僕は彼女の名前を呼んだ。
「呼び捨てでいいのに」くすっと口元をゆるめる。「でもそういうところ、きみらしくて好きだよ。また明日ね──」
彼女は僕の名を呼んだ。
後ろ手で扉を閉めて、廊下に出る。
数年ぶりの外界。そんな気分だった。
僕はゆっくりと下駄箱に向かって歩きはじめた。ここからあそこまでずいぶん距離があるので、頭を冷やすにはちょうどいいだろう。
八月中盤の夜。今日は涼しくて、月明かりもほんのりとしたいい夜だ。同時に、多くが明らかになった夜でもあった。
全校生徒の憧れである生徒会長の正体は恐ろしい魔王だった。でもその仮面の下にいたのは、ただの普通の、ちょっと人よりこわがりな女の子だった。
パシンと、どこかで何かを叩く音がする。きっとどこかの教室の机から教科書がこぼれ落ちたのだろう。
学校中の運動部に所属して活発に活動し、傷だらけの美少女と呼ばれていた女の子は、生きていくために必要な痛みを得るために、そうしていただけなのかもしれない。
また教科書が落ちる音。
今日はよく教科書がこぼれる夜だった。
どこかで甘い声。
きっと猫だろう。
『まるで私だけ呼吸を間違えているみたい』
生徒会長の言葉が脳裏によみがえる。
ふと、中学時代に同級生だったA君のことを思い出す。
別にプライバシーに配慮しているわけではなく、僕の薄情な記憶力が彼の名前を覚えていないだけだ。
A君とは一年から三年までずっと同じクラスだった。
思えば彼は生徒会長とよく似ていた。
誰にでも優しく、行動力があり、人の嫌がる作業を率先して行い、とにかくみんなから慕われていて、おまけに顔もよかった。
彼は常に正しかった。
そんなA君は、中学三年の夏休みに自らの命を絶った。
ビルからの飛び降りだった。
彼の死は学校中に混乱を呼んだ。
完璧な彼を死に追いやった原因は何か?
イジメか、家庭か、それ以外の何かか。
担任の教師は普段から素行の悪い生徒たちに向かって、ちょっと乱暴なくらい詰め寄って問いただしていた。
しかし、彼らもA君の死を心から悲しんでいた。
クラス全員、彼の死の真相を明らかにしようと必死だった。
同時期、もはや人の所業ではない残忍なイジメが原因で自殺した生徒の通っていた学校が連日メディアに取り上げられていた。
「顔に傷をつくって、破れた制服姿の生徒を確認しておきながら、それでもイジメはなかったと言えるのですか?」
「多くの生徒たちがイジメの存在を訴え、改善要求の署名までしていたのに、それでも学校側はイジメの認識はなかったと断言できるのですか?」
「今回のあまりにも痛ましい事件は未然に防ぐことができたのではないですか?」
記者たちからの質問を、たどたどしくも白々しい口調で校長はかわしていく。
「もういい黙れ」
校長の言い逃れを拡声していた銀色のマイクが、今にもそう叫んで殴りかかりそうに見えた。
そう考えると、うちの学校は生徒におもいやりのある、いい学校だったのかもしれない。
結局A君の死の真相はわからなかった。
ある日、全校生徒が体育館に呼ばれ、そこで一本の映画を見た。
美しい音楽と景色が流れる中で、心地いい声のナレーションが命の大切さを語っていた。
私たちは何も知らずに産まれてきた。でも、たった一つ、呼吸だけは誰からも教わっていないのにできていた。それは私たちが生きるために産まれてきたからだ。
そんな内容だった。シンプルな主張はそれなりに僕たちの心をゆさぶった。体育館のあちらこちらから女子たちのすすり泣く声も聞こえた。
思えば、それが間違いなのだ。
僕たちは呼吸だけはできていた。それはつまり、誰も正しい呼吸を知らないということ。
息はどこから吸えばいい? どうやって吐けばいい? 答えられる人はいない。
だから、生きてるだけで、ただ苦しい。
もしかしたらA君も生徒会長と同じく、呼吸がわからずに苦しみながら救いを求めて、とにかく正しくあろうとしていただけなのかもしれない。そしてA君は呼吸を教えてくれる誰かに出会えないまま、ビルから飛んだ。
「…………」
下駄箱まではまだ距離がある。
真っ暗な廊下は僕にあの日を思い出させた。
僕が死に向かって歩いていたあの日。
燃えさかるビル。
階段をのぼっていくと聞こえてきた猫の声。
でもそこにいたのは女の子。
そして表情を持たない男が、じっと僕を見つめていた。その手に刃を握って。
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