第16話

 そして闇が訪れた。


 ただでさえ光の少ない生徒会室から、唯一ともいえた光が失われた。


 今までずっと、わずかばかりの明かりを灯していたスマートフォンから、それが消えたのだ。


 一体何が起きたのか首をかしげると、その理由を端末自らが答えてくれた。


 ピーピーと単調な警告音が生徒会室に響く。


 この音なら僕も一度聞いたことがある。


 スマートフォンを手に入れたばかりのころ、手当たり次第にアプリケーションソフトをダウンロードして、寝る間も惜しんでゲームをプレイしていると、突然この音に襲われたのだ。


 バッテリー切れ。


「…………」


 そりゃそうだろう。


 もう何時間もずっとこのスマートフォンを酷使してきたんだ。


 スマートフォンは酸素の力で動いてるわけじゃない。少しは休みたくもなるだろう。


 かしゃん、と何かが床に落ちた。


 目を凝らすと、床に彼女のスマートフォンが転がっている。


 力が抜けて落としたのか、あるいは捨てたのか。


「ここまできて──これ、か」


 月の光に照らされたその表情から、感情を読み取ることはできなかった。


 ゲームの終わりは勇者か魔王どちらかの死。そこに例外はないはずだった。


 でも選ばれたのは三番目の答え。


 ひとまず、僕も彼女も死ななくてよかった。


 とはいえ、これでめでたしめでたしというわけにはいかない。


 僕は訊ねる。「ゲームは終わりってことでいいですか?」


 彼女は返す。「……ええ、もうつづけようがないものね」


「だったら約束通り僕の質問に答えて下さい。会長の目的は一体何ですか?」


「それについては、はじめから答えを言ってたつもりよ。きみがそれを答えと受け取らなかっただけで」


「はっきりと答えて下さい。このゲームの目的を」


「だから何度も言ってるじゃない。このゲームの目的は『きみと遊びたかった』それだけよ」


「たったそれだけの目的で村瀬を傷つけて、剣崎にあんなことを?」


「真剣にならないゲームは退屈。それも伝えたと思うけど?」


「そもそも、どうしてあなたは僕とこんなゲームをしようと思ったんですか?」


「…………」


 彼女は沈黙した。きっと僕の求めている答えはこの先にある。


「会長とはほとんど面識もないのに。まともに会話をしたのだって、先週ここで打ち合わせをしたのがはじめてじゃないですか?」


「…………」


 一つの可能性をひらめく。


「それとも、もしかして、僕と会長は以前どこかで会ったことがあるとか?」


「いいえ」首を振って否定する。「過去にきみとの接点はないわ。二ヶ月前にきみがヒーローになるまではきみの存在すら知らなかったし、きみの言う通り、二人で会話らしい会話をしたのは先週の打ち合わせがはじめてよ」


 実は幼稚園ころから好きでした。そんな展開を予想したりもしたけど、人生はそこまでドラマチックにはできていないらしい。


「だったら、ますますわかりませんよ。他人同然の僕と、こんなことをはじめようと思った理由は何です? この際、他の問題はどうでもいいです。そこだけ本当のことを教えて下さい」


 何となく、遠回しにはぐらかされる気がした。


 ところが、意外にも彼女は素直に応じてくれた。


「そうね。不本意なかたちではあったけど、ゲームが終われば全てを明らかにするって言ったのは私だし、約束は守るわ」


「助かります」


 僕と彼女の距離は、僕の歩幅で三歩分ほど。


 彼女はその距離に五歩費やして、僕と密着する。


 彼女は右の手のひらを僕の左胸にあてた。


 僕と彼女の身長差は僕の頭一つ分ほど。


 彼女は僕を見上げた。


 そしてこう言った。


「私は──」


 次に彼女の口からこぼれる言葉を予測できた人がいたら、きっとその人は、どんな願いでも一つくらいなら叶えてもらえる。


 それくらい、それは僕の予想を凌駕りょうがしていた。


「私は──」


 魔王少女は言った。



「私は──牛乳が怖い」


「…………」


 ぎゅうにゅう、という響きを持つ言葉で年頃の女の子が恐れそうなものが何かあっただろうか。たぶん、乳製品ではないはず、と思いたい。


「冷蔵庫が怖い。電子レンジが怖い。大きな物音が怖い。小さな物音はもっと怖い。空が怖い。飛行機雲が怖い。季節が怖い。プラスチックが怖い。ギザギザしたものが怖い。テレビが怖い。熱いものが怖い。冷たいものも怖い。コンピューターが怖い。セーターが怖い。マフラーが怖い。ガラスが怖い。子供が怖い。大人が怖い。お年寄りが怖い。自動車が怖い。遊園地が怖い。金属が怖い。なまものが怖い。炎が怖い。風が怖い。水が怖い。誰かが怖い。自分自身も怖い」


 闇を吐き出すように、少女の口から次々と恐怖の対象が押しよせてきた。


 冗談を言っているとは思えない。一つ一つの言葉に斬りつけられるような鋭さと、潰されるような重みを確かに感じたから。


 彼女が世界のありとあらゆるものを恐れているらしいということは、とてもよくわかった。


 それがどうやったら僕とゲームをはじめることに繋がるのかがわからない。


 生徒会長は僕から離れて、窓に向かって歩きはじめた。


「まだ小さかったころね」


 月の光が彼女を照らしていく。


「六歳くらいのころかな。近所に変なおじさんがいてね。その人、私に会うたびに私の体をべたべた触ってきて、それがすごく嫌だった。この人いなくならないかな、車にでもかれたらいいのにって、そんなことを思ってたの」


 窓際に到着すると、くるりとこちらに振り返る。


「そしたらある日、そのおじさん、車に轢かれて死んじゃった」


「…………」


 わからない。その死に彼女が関与しているとか、そういった話なのだろうか。仮にそうだとして、それが今日のことと、どんな関係があるというのだろう。


 少女の物語はつづく。


「小学生のころ、毎日近所で騒いでる不良のお兄さんたちがいてね、みんなその人たちに迷惑してたんだけど、怖くて誰も何も言えないでいたの。私はこんな人たちいなくなればいいのになって思った。そしたらある日を境にその人たちは現われなくなったの。どうしたんだろうって思っていたら、どうやら海で事故にあって、全員帰らぬ人となっていたそうなの」


 月を背に、彼女は再び僕に歩み寄ってきた。


「中学のときの、体調のすぐれない日がつづいた時期があって、そのころ林間学習があったの。私はこんな状態でいってもみんなに迷惑がかかるだけだから参加したくないなって思った。そしたら、研修先の施設が山ごと火事になって、そのイベント自体、消滅したわ」


 彼女は近づいてくる。真相からは遠のいていく気がした。


「これは去年の話なんだけど、社会科の民林崎みりんざき先生って覚えてる?」


「覚えてますよ」


 授業を受けたことはないけど、珍しい名字なので記憶に残っていた。


 記憶に残っていた理由はもう一つある。


 去年の秋、民林崎先生は隣町の工事現場で何者かに惨殺されたのだ。犯人はまだ捕まっていない。ニナの仕業ではないかと噂されている。


「私、あの先生が苦手だった」


 いつの間にか、生徒会長は手の届く位置まで戻ってきていた。


「自分の思想を押しつける、あの人の授業が嫌いだった。だから、いなくなればいいのにって、そう思ってた」


「だから──きみが殺したのか?」


 そんな言葉が口をついた。


 彼女がくすっと笑う。


「もしかして、今までの話の全てに私が関与してるとか思われてるのかな?」


「どうなんです?」


「わからない」


「──はい?」


「私はいつも嫌だなって『思ってた』だけよ。そうしたらそれはある日、実現されていた」


「…………」


「歌や本でみんな言ってるでしょ、『思いは実現する』って」


 もしかして僕は今、盛大にからかわれている最中なのだろうか。


「あ、気を悪くしないでね。別にきみをからかってるわけじゃないのよ」


 だったらこの人には、人知を超えた特別な力が備わっているとでもいうのか。


「小さなころからずっとそうだったの。嫌だなって思うことがあると、その対象はある日──破壊された。今きみにお話したことなんてほんの一部よ。本当はもっともっとたくさんあるの」


 そこで彼女はまた僕に背を向けた。


「言っておくけど、私は自分が超能力者だとかそういうことを言いたいわけじゃないし、そんなこと思ってもないよ。でも仮にもし、私には思いを具現化するような力があるとするなら、もっと前向きなことを考えればいいと思うでしょ? でもね、なぜかそれができないの。物心ついたときからずっと、私の頭の中ではよくないことや怖いことばかりが渦巻いていたの。不思議よね、自分の頭なのに、自分の思いたいことも思えないなんて」


 ただの偶然が重なっただけ。加害妄想。自意識過剰。そんな言葉が浮かんでくる。


 でも、そんな言葉で片づけるのは、なんだか違う気もした。


 悪い思考が離れてくれなくなることなら僕にも経験はある。だけど、彼女のそれは僕よりも遙かに深刻で手の施しようがないものなのかもしれない。


「怖いことばかり考えて、それが現実に訪れて、そんな毎日を繰り返すうちに、色んなものが怖くなってきたの。視界に入るもの、ふいに頭の中をよぎる言葉、誰かの話し声──そして、もしかしたら世の中の悪いことはぜんぶ私の思考から生み出されてるんじゃないかって。全ての災いの出発点は自分なんじゃないかって、真剣に思うようになってくるの──」


 彼女は僕に振り向く。


「──魔王みたいに」


 その目に涙が。


「どうすることもできないんですか? それは」


「自分なりにあらがってきたつもりよ。生徒会に入ったのだってそう」


「どういうことです?」


「私はとにかく正しくあろうとした。正しい行いをして、誠実に生きて、山積みの仕事で自分を追い込めば、頭の中のもやから目をそらせると思った」


 その優秀さを認められ、二年生の一学期から生徒会長を任されている彼女。


「うまくいきましたか?」


「無理だった」と首を振る。「むしろ悪化していったわ。結局どこに逃げても自分からは逃れられないものよね。負の浸蝕しんしょくは増していくばかり」


 自殺するみたいに、彼女の瞳から涙が一粒こぼれた。


「ねえ、教えて。ただ生きていたいだけなのに、どうしてこんなに苦しいの? まるで私だけ呼吸を間違えてるみたい」


 どうにかしてあげたいと思った。でも、どうすることもできそうになかった。


 彼女の苦しみは僕には理解できそうにない。


 それでも、少しでも呼吸が楽になればと、僕は彼女の肩をそっと抱いた。


 気づかなかった。こんなに震えていたなんて。


「──二ヶ月前の話よ」涙声の少女。「もうどうしようもないくらい恐ろしい思考に頭を支配されて、私は自分の思考をとめる唯一の方法を実行しようとした」


 それが何を意味するのかは、訊かなくてもわかった。


「最後に母にそれとなくお別れの挨拶をしようと思って、私は自分の部屋のある二階から一階のリビングに降りたわ。母はそこでテレビに釘づけになってた。普段あまりテレビなんて見ない人だからおかしいなって思って、つられて私もテレビを見たわ。そこに何が映っていたと思う?」


「わかりません」


「きみだよ」


「僕?」


「ええ。ニュースではきみが事故現場から女の子たちを救出している映像が流されていたの。その場にいた人が携帯で撮影した映像だったと思う。それから、画面の端にきみの名前とこの学校の生徒であることが表示されていたの」


「ああ、あのころの話ですか」


 あれからもう二ヶ月になるのか。


「私は感動したわ。大げさな表現じゃなくて本心よ。世の中にこんなことができる人が本当にいるんだなって」


 彼女を抱いた姿勢で僕はこそばゆい気分になる。


 何か気の利いたセリフでも言えばかっこうがつくのかもしれないけど、残念ながらそんなものは一つも持ち合わせてはいない。


「その瞬間から私の中で変化が起きたの。十七年間、あれだけ私を苦しめていた靄が綺麗に消えてしまったの」


「それは……よかったですね」


「全部きみのおかげだよ」


「僕の?」


 彼女の声から闇ががれていく。


「あの瞬間から、私の中はきみであふれたの。いつもきみのことばかり考えて、きみのことを想ってた」


 なんだろう、このまま告白でもされそうな勢いだ。


「先週、きみとはじめて二人きりでここでお話できるとわかったときなんて、本当にわくわくしてたんだから」


 一週間前の記憶をたぐり寄せてみる。変だな。そんな素振りは微塵も感じなかったけど。


「前の晩から眠れなくて、きみとどんなことをお話しようかずっと考えてたんだよ」


 やっぱりおかしい。だって、先週僕がここに着いたとき彼女は確か──。


「ねえ、きみ」


 生徒会長はつま先立ちになって、僕の耳元に口をつけてきた。


「先週、ここにきみがきたとき──」彼女の吐息は微かに暖かかった。だけど、そこから発せられた言葉はてついていた。「──私が気づいてないとでも思ったの?」

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