第9話

『まおう の こうげき まおう は ゆうしゃ の みぎうで を しめつける』


 メッセージが表示されると同時に彼女が僕の右腕に恋人のように抱きついてきた。それから彼女は『ヒット』をタップした。


『ゆうしゃ の こうげき ゆうしゃ は まおう の かた を うつ』


 僕は腕にしがみついていた彼女の肩にふれようとする。だが、接触の瞬間にさらりと身をかわされてしまう。


 彼女は得意気に微笑む。僕は『ミス』をタップする。


 おかしい。


 あれから二時間以上が経過しても、まだ勇者と魔王の戦いはつづいていた。


 僕がはじめてこのゲームをプレイしたとき、開始数秒で魔王に倒されて終了した。


 二度目のプレイも数分で終わって、そのときは勇者が勝利したように記憶している。


 メッセージ欄に表示されたことを実際に行動しながら進めている僕たちのプレイスタイルは普通にプレイするよりも膨大な時間を必要とするのは間違いない。それでも長すぎるのではないだろうか。


 さらに僕は今、想定外の問題に悩まされていた。


『まおう の こうげき まおう は ゆうしゃ の かお に ふぶき を はなつ』


 生徒会長は僕の顔に、ふうっと冷たい息を吹いてきた。ほんのり甘い香りをまとった心地よい風が僕の頬をくすぐる。


 彼女は『ヒット』をタップした。僕は込み上げてくる笑みをなんとか押し殺した。


 想定外の悩み。


 困ったことに、このよくわからないゲームをいつの間にか楽しんでいる自分がいた。


 正直に告白すると、僕はこれまで女の子と付き合ったことはもちろん、まともに遊んだ経験すらない。


 そんな僕が、この学校で一番の美人とこうして閉じられた空間で密着して勇者ごっこをしているのだ。


 何度も体にふれられ、ときには抱きつかれ、息を吹きかけられている。


 楽しくないわけがない。


 バカみたいな話だけど、ときどき世界が変わって見える瞬間がある。


 ここは生徒会室ではなく、剣と魔法の国レトローダ。


 そこで世界の平和を守るべく、勇者である僕と魔王の彼女が戦いを繰り広げている。


 戦いは、なかなか終着しない。


 当然だ。これは世界の平和をかけた戦いなのだから。


『ゆうしゃ の こうげき ゆうしゃ は まおう の みみ を さした』


 僕は一歩踏み出して左手を伸ばして魔王の右耳を狙う。


「──きゃっ」


 耳にふれられた魔王はくすぐったい声を上げた。この魔王は耳が弱点なのかもしれない。


 いけない。これは楽しい。


 プレイしていると、これまでの嫌なことや村瀬のことを都合よく頭の片隅に追い払っていられる。


 別にいいじゃないか。ストレス発散と現実逃避こそがゲームの醍醐味だいごみじゃないか。


 僕は『ヒット』をタップする。


『ゆうしゃ は むらむすめ になった』


 メッセージと同時に画面内の勇者のグラフィックが村娘のものに変更された。


「うん?」


 これまでとは違う流れに僕の意識はやや現実に引き戻される。


 魔王への攻撃が成功して、なぜか村娘にされてしまった。


 完全なランダム世界は容赦がない。


「あらまあ」と彼女はもらす。「勇者が村娘になっちゃったね」


「わけがわからないですよね。でもプレイに支障はないから、つづけましょう」


「いいけど、ダメよ」


 魔王様が不思議なことをおっしゃる。


 僕は眉をひそめた。


「えっと、どういう意味ですか?」


「ゲームをつづけるのはいいけど、このままつづけるのはダメってこと」


 言っていることの意味がわからないのは、僕の理解力が貧しいのからなのか、彼女が魔族の言葉を用いているからなのか、どちらだろう。


「すみません、どういうことですか」


 彼女はすらりとした人さし指をゲーム画面に向けた。


「ゲームのきみは村娘になってるのに──」指先を僕に向ける。「現実のきみは勇者の装備のままじゃない」


 僕は自分の格好を確認した。白のスクールシャツを着て、黒い長ズボンをはいている。どうやらこれは勇者の装備ということになっているらしい。


「でもどうしろっていうんです? 女装しろと? 残念ながら僕はスカート持ってませんよ」


 すると彼女は魔王のように口元をゆるめた。ものすごく嫌な予感がする。こういうときの予感がはずれる確率は極めて低い。


「それなら大丈夫よ。少し手伝ってもらえるかな」


 生徒会室の中央で長机を六つ使って長方形に並べられているテーブル。その中央部分の床だけオレンジの絨毯が敷かれ、その下に何かが隠されていることを露骨に物語っている。


 生徒たちの間ではひつぎが隠されているのではないかともっぱらの噂だ。


 生徒会長は並べられた机の一つをずらすと、腰を下ろして絨毯をめくる。そこから扉が現われた。


 いつの間に用意していたのか、手に持っていた鍵を扉の鍵穴に挿して回すと、鈍い音をたてて扉を持ち上げた。


 僕はそっと扉の中を覗く。さすがに棺が入っているとは思っていないけど、何が入っているのかは気になった。


 そこに人が入っていた。


 ぎょっとして目を凝らすと、見間違いであったと気づく。


 中に入っていたのはこの学校の女子の制服だった。かなりの量が収納されている。


 なぜ生徒会室の床下にこんなものがあるのか訊ねてみると、あっさりと答えが返ってきた。


 元々は服装の乱れた生徒のための予備の制服を被服教室に置いていたのだけど、盗難事件が多発したため、鍵のついているこの場所に移動させたのだそうだ。


 古風でシンプルなデザインの我が校の制服はその手のマニアの間ではかなり人気が高いらしく、ネットで高額で取引されていることは知っているし、多くの卒業生たちが用済みになった制服を専門の業者に高値で買い取ってもらっているのも知っている。


 ところで、制服の隠し場所になるまで、鍵までついたその空間は本来どんなことを目的に設置されていたのだろうか。


 ぽいっとこっちに向かって何かが飛んできたので、条件反射で僕はそれを受け取った。


 紺色のプリーツスカートだった。


「……なんですか、これは」


「そのサイズならきみにちょうどいいと思うよ」


「これを僕にどうしろと?」


「食べたければどうぞ。予備はまだいっぱいあるから」


 僕はぽりぽりと髪を掻く。


「いや、言いたいことはわかりますよ。村娘を演出させたいんですよね」


 彼女はしっかりとうなずいた。


「……えっと、いいんですか? 勝手にこういうことしても」


 彼女はうなずいた。なぜ何も喋ってくれないのだろう。


 ここで僕が否定的な意見を出しても、非生産的な言葉の応酬がはじまり最終的に彼女の型破りな行動で強引に話しを進められてしまうことは歴史から学んでいるので、無駄な抵抗はやめて流れに身を任せることに決める。


 僕はベルトを緩めてズボンに手をかけた。


 強い視線を感じたのでその方向を見ると、パイプ椅子という名の玉座に腰かけた魔王が興味深くこちらに熱いまなざしを送っていた。


 ズボンを握ったまま、僕は動きをとめる。


「あの、できれば見ないでほしいんですけど」


「どうして?」


 卓球みたいに素早い言葉が飛んできた。


「どうしてって……恥ずかしいんで」


「大丈夫よ。ここには私ときみしかいないし」


「いえ、人数の話しをしているのではなく、会長に見られたくないんです」


「どうして?」


 いけない。このままラリーをつづけても、いずれ僕が負ける。


「見たいんですか?」だから少し攻めてみた。


「ええ。見たいわ」彼女はうなずく。「きみのことなら何でも」


 その言葉で僕はあえなく撃沈する。


 もう何度同じことを考えたかわからない。目の前にいる彼女は本当に僕がよく知っている生徒会長なのだろうか。


 いつも真面目で一生懸命で全校生徒から慕われ、教師から期待され、地域活動やボランティアにも積極的に参加して、地元の人や他校生徒たちからも信頼されている、全ての学生の模範であり規範でありかがみのような人。


 その人は今、たのしそうに一人の男子生徒にスカートをはくことを強要し、着替える姿を見せろと急かす。


 どうしたものだろう。


 いっそ、全裸になって悲鳴でも上げて誰かに助けを求めるべきなのだろうか。


 そうすれば間違いなく、僕の人生は絶対的な終わりを迎えることだろう。


 あきらめて深呼吸を一つすると、不思議と頭の中で覚悟ができた。


 生徒会長の言うように、見ているのは彼女一人だけなのだ。


 記憶をたぐりよせてみれば、これまでに何度も恥ずべきことを重ねてきている。


 その数がまた一つ増えるにすぎないのだ。


 僕は決意した。


 すみやかにズボンを下ろして、スカートを取り、慣れない手つきではいてみた。もっと手こずると思っていたので、すんなりとはけたことに少し驚く。僕は女子に向いているのかもしれない。


 だが奇妙な感覚だ。股下に道ができて常に何かが通過しているような、なんとも表現しがたいこの感触は何なのだろう。こんなものを味わいながら更にスカートの丈を短くしようとする女の子が多いのだから恐れ入る。やはり僕に女子は無理だ。


 ふと思ったことが一つ。


 愚直にズボンを脱いでからスカートをはくのではなく、スカートを身につけてからズボンを下ろせば、僕が晒す恥はかなり軽減できたのではないだろうか。


 自分の頭の悪さが、ただただ憎い。


「かわいい」と魔王は笑顔でつぶやいた。「やっぱりね。きみは絶対スカートが似合うと思ってたんだ。脚も綺麗だし」


 嫌味ではなく、素直に褒めてくれているように聞こえた。


「……どうも」


「さあ、それじゃあゲームのつづきをはじめましょうか」


 生徒会長が画面をタップした。


『せんし が あらわれた』


 またしても見慣れないメッセージが表示された。


 画面には村娘と魔王、その間に剣を構えた戦士が出現した。


 このゲーム、実はかなりイベントが豊富に用意されているのかもしれない。


「どうします。戦士が出てきちゃいましたよ」


「人手が足りないわね。村瀬さんを呼んできて戦士を頼もうかしら」魔王はくすっと笑う。


「笑えない冗談ですね」僕は抑揚のない声でつぶやいた。


「お前ら、何してんだ?」


 見知らぬ声に驚いて振り返ると、一人の女子生徒が扉を開けて立っていた。


「あら咲希ちゃん」と生徒会長は明るい声で迎えた。


「何やってんだよ、お前ら」


 咲希と呼ばれた少女は扉を閉めてこちらに近づいてくる。


 彼女なら僕も知っている。剣崎咲希けんざきさき。生徒会長ほどではないにしろ、うちの学校ではかなりの有名人だ。


「って、おい!」剣崎は声を上げた。「お前、なんでそんな格好してんだよ」


 言葉の意味を理解するのにわずかな時間を要した。


 彼女のいわんとすることを理解して、僕は「あっ」と、どうしようもない気持ちになる。


 男子がスカートをはいて生徒会室にいるのだ。文句の一つも言いたくなるだろう。


 それでも剣崎の反応は穏やかなほうなのかもしれない。僕が彼女の立場だったら、悲鳴を上げるか笑い転げているかのどちらかな気がしたからだ。


「ああ、気にしないで。ちょっと彼と二人でふざけてただけだから」


「なんだ、そうか」


 生徒会長の言葉を剣崎はすんなりと受け入れた。


 僕にとっては極めてありがたいことなのに、あまりにあっさりとしすぎていて、逆になんだか不安になってくる。僕が自意識過剰すぎるだけなのだろうか。


「ところでどうしたの。咲希ちゃんがここにくるなんて珍しいわね」


「ああ、ちょっと相談っていうか……お願いがあってな」


 剣崎は照れくさそうに後ろ髪をぽりぽりと掻く。


「それってもしかして、今ここでは言えないようなことかしら?」


 探るような表情をする生徒会長。


「まあ、そうだな……」


 それを肯定する剣崎。


 二人の会話の距離感から、かなり親しい間柄だとうかがえる。幼なじみなのかもしれない。


「でもごめんね、咲希ちゃん。見ての通り今取り込んでるのよ」


「いえ、僕のとこならかまわないで剣崎さんとの用事を優先して下さい」


 そろそろズボンが恋しくなってきた。


「お? お前、あたしのこと知ってるのか?」


 剣崎がすいっと近づいてきた。女子にしてはかなり背が高いので、生徒会長とは別の雰囲気で圧倒されそうになる。


「まあ、有名だからね剣崎さんは」


 陸上部から登山同好会まで、体を動かす活動的なクラブのほとんどに所属して、よく暴れ、日夜体中にアザを作っている美人で長身の女子。嫌でも有名になるだろう。


 傷だらけの美少女という、何のひねりもないあだ名をつけられて何度か新聞部で特集を組まれているくらいだ。


「嬉しいね。今、日本で一番有名な高校生に名前を覚えてもらえてるなんてさ」


 豪快に笑って背中をバシバシと数回叩かれる。かなり痛い。


「そうだ」ぽんと生徒会長が手を鳴らした。「よかったら咲希ちゃんも一緒にゲームをやらない? ちょうど一人、新しいプレイヤーが必要だったのよ」


「うん? ゲーム?」剣崎は首をかしげた。「いいよ、ゲームは何でも大好きだよ」そう言って、にかっと笑う。


 正直なところ、剣崎が生徒会室に現われたときからこの展開は予測できていた。


 しかし、これは一体どういうことなんだ。


 さっきの村瀬といい、いくらなんでもタイミングがよすぎる。


 なぜゲーム内で新しいキャラクターが登場したのとほとんど同時に、まるで呼応するかのように新しプレイヤーが姿を現わすんだ。


 ただの偶然といわれたらそれまでだけど、ただの偶然として片づけるには、あまりにできすぎている。


 ふと、何日か前にテレビで見た海外のニュースが脳裏をよぎった。


 宝くじで連続二十回以上大当たりをつづけている男性にインタビューが行われていた。


 なんらかの不正を疑う世間の声をどう思うかとインタビューアーが訊ねると、気持ちのいい笑顔の白人男性はこのように答えていた。


 俺がくじを当てられているのはインチキでも運がいいからでもない。それが俺の運命だからだ、と。


 これもそういうことなのだろうか。運命めいたものが磁石みたいに働いて、人々を生徒会室に呼び寄せているのだろうか。


「それじゃあ咲希ちゃんは戦士役をお願いね」


「戦士? いいね、あたしにピッタリだ。ところでゲームはどこにあるんだ?」


 剣崎は両手でわさわさと何かを操作しているジェスチャーをした。どうやらゲーム機で遊ぶのだと思っているらしい。


 生徒会長がスマートフォンをタップする。画面に新しいメッセージが出てきた。


『むらむすめ は せんし の くちびる に きす を した』


 スマートフォンを見て目眩がしたのは今日で何度目だろう。


 村娘が戦士にキス。ゲームの中では珍しくもないイベントかもしれない。


 ただし、現実世界で村娘の格好をした男が戦士役を押しつけられた少女にそれをすることは許されない。常識的にも社会的にも法的にも。


 僕は生徒会長を見た。新しいおもちゃを前にした子供のように瞳をキラキラさせている。


 僕は小さく深呼吸をして、魔王に直談判をすることに決めた。


 魔王の手を引いて剣崎から距離をとり、耳打ちをした。


「会長、こういうイベントはもう無視する方向できいませんか?」


「却下」


 交渉の余地を微塵も期待させない素早い返答。


「お願いしますよ。これまで真剣にゲームに付き合ってきたじゃないですか」


「これからもそうお願いするわ」


「こればかりは拒否します」


「それを拒否するわ」


「女子生徒に乱暴することを推奨するなんて生徒会長としてどうかと思いますよ」


「ごめんなさい。今は私、魔王なの」


「どうしたんだよ、二人でこそこそと」


 仲間はずれにされている剣崎は、頬をふくらませていた。


「見たところ、会長と剣崎さんはずいぶん仲がよさそに見えますけど?」


「ええ、咲希ちゃんとは小さいころからずっと一緒だった。幼なじみで親友よ」


「その親友を傷つけてもいいと?」


 生徒会長は、ふむと腕を組んで、しっかりと僕と目を合わせてこう言った。


「まずは生徒会長として一言。人は誰でも自分は公平で正しい考えの持ち主だと信じているわ。でもそれが大きな間違い。誰もが偏った考えに毒されて生きているものよ」


「……はい?」


 ときどき彼女が教訓めいたことを口にする理由は何なのだろう。


「そしてこれは魔王としての言葉よ。ゲームの棄権は許さない。手を抜いてミスをタップするようなことをすれば、現実で制裁が待っているわよ勇者さん」


 涼しい顔で怖いことを言ってくれる。


 これまでは、こういう場面でひるんでいたのがよくなかった。


 魔王を倒すには一歩を踏み出す勇気が不可欠だ。


「現実での制裁ですか。かまいませんよ」


 彼女の口元がぴくりと引きつったのを見逃さなかった。やはりここで抵抗されることは計算になかったようだ。


「強気ね、勇者さん。でもその強気は感心しないわ」


「僕に酷いことをされたって学校のみんなや母親に言いふらしてもかまいません。僕は正々堂々と反論させてもらいます。何もやましいことはやってませんから」


 我ながら悪くないセリフだ。これでスカートをはいていなければ完璧だった。


「なるほど。手強いわね勇者様。確かにもう、そのカードは使えないみたいね」


「まだ何か残っているようにも聞こえますが?」


「ええ、できればこのカードは使いたくなかったわ」


 生徒会長はぽそぽそと僕の耳にぎりぎり届く程度のささやきをはじめた。


 あまりにも聞き取りにくかったので、本当に呪文でもとなえだしたのかと思ったけれど、そうではなかった。彼女の口からもれていたのは英語だった。


 淡々と一定のリズムでアルファベットを並べてくる。


 しばらく耳をかたむけていても、それが何を意味しているのかまるでわからなかった。だけど徐々にその輪郭が浮かび上がって、その正体がついに判明したとき、僕は生まれてはじめて戦慄というものを覚えた。

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