第10話

「……生徒会長、どうしてそれをご存じなんですか?」


「想像にお任せするわ」


 彼女が口にしたアルファベットの羅列、それはメールアドレスだった。二年ほど前から自宅で療養している僕の妹の。


「確かにあなたに何かされたって嘘の情報を健康な人に言いふらしても効果はないでしょうね。でもそうじゃない人なら。例えばわずかなストレスを与えられただけで、とてつもない苦しみを受けてしまう体質の人にはこたえるんじゃないかしら」


 たぶん、魔王と悪魔では魔王のほうが格上な存在であることは間違いないだろう。


 でも今、僕の目の前にいる少女は魔王というより悪魔と形容したほうが正しい気がした。


「本気で言ってませんよね? 冗談じゃすみませんよ?」


 普通の人からすれば明らかジョークでもそれを深読みして強いストレスに変換され、大きな苦しみとなってしまうので、言葉には細心の注意を払ってほしいと医者に何度も言われている。


 父と母の会話のトーンがいつもと違うだけで離婚を危惧して発狂したこともあるのだ。


 例えば、兄が女性に乱暴したなどというメールが届いたりしたら──考えたくもない。


「だったら迷うことなんて何もないじゃない」


 彼女は微笑んでスマートフォンを僕の前に置いた。


『むらむすめ は せんし の くちびる に きす を した』


 そういえば僕は今、村娘だった。スカートのことすら忘れていた。


 目の前の道は二つ。


 妹を苦しめるか。


 同級生を苦しめるか。


 どうしてことんなことになってしまったのだろう。


 魔王を八つ裂きにしたとメッセージが出てくれていたら、喜んで実行したかもしれない。


 どこからともなく奇妙な音がする。


 それは乱れた自分の呼吸だった。


 得体が知れないのは生徒会長の思考だ。


 彼女の目的はなんだ?


 純粋にこの生徒会室を悪意で充満させたいのだろうか。


 少し前から燻っている、彼女に対する僕なりの考察。


 はじめは馬鹿げているとしか思えなかったそれが、徐々に現実味を帯びはじめている。


「ところでいつになったらゲームをはじめるんだよ?」


 自分が犠牲者であることを知らない長身の少女は口を尖らせ不満をもらしている。


「もうちょっと待ってね。彼の心の準備がまだみたいだから」


 生徒会長は目を細めて選択を迫ってくる。


 傷つけるのはどっちか。妹か同級生か。逃げることは許されない。


「…………」


 どれだけ考えても答えは最初の一つしかなかった。


 僕はそっと『ミス』へと指を伸ばす。


 これでいい。


 妹と剣崎、どちらか選べと言われたら、剣崎には申し訳ないけど妹を選ぶ。


 とはいえ剣崎を傷つけるわけにもいなかい。


 だったら、両方を救えばいい。


 まずミスを選択して、イベントを終わらせる。


 これでひとまず剣崎は救われる。


 それからすぐに母に電話して、適当な理由を並べて妹からそっと携帯を奪ってもらえばいい。


 生徒会長のスマートフォンはゲームに使っているし、僕の携帯は僕が持っている。ここには他に携帯電話はない。


 我ながら悪くない作戦だ。


 僕はミスに向かってタップをする。


「ねえ」


 声のするほうに振り向いた。


 生徒会長が桃色のスマートフォンを持っている。見たことのない機種だった。


 まさか二台持ってたのか? 僕の疑問に答えるように彼女は言う。


「咲希ちゃんから、借りたの」


 そのスマートフォンの画面はメールの送信体勢になっている。


 アドレスまでは見えないが、間違いなく妹宛てになっていることだろう。


 ちょっと強すぎじゃないか、この魔王。


 僕の指先が『ミス』に接触する瞬間、間一髪でその軌道をそらした。


 そして次の動作は自分でも驚くほどスムーズだった。


 ゲームに参加できずにいて退屈そうな剣崎の肩に手を回し、強引に抱き寄せて、唇を重ねる。


 村娘は戦士の唇にキスをした。


 願わくば、はじめてのキスは好きな人とが良かった。もしくは可愛い女の子。


 つくづく申し訳ないけど、僕は剣崎のことを嫌いではないけど好きでもない。


 だってしかたないだろう。ついさっきまで言葉すらかわしたことのない、ただの同級生だったのだから。


 でも剣崎は間違いなく可愛い。だから、ある意味で願いは叶っているのかもしれない。


 唇から伝わってくる唇の感触。これがキスの感触。女の子の感触。


 鼓動が異常な速度で振動しているのがわかった。


 緊張と興奮とそれ以上の罪悪感。取り返しの付かないことしてしまったという後悔の念。


 僕は、はじめてのキスだったけど剣崎はどうなんだろうなんて、余計なお世話までわき上がってくる。


 いつまでもこうしているわけにもいかず、僕は唇を離した。


 ごめん、とすぐにあやまるべきなのにうまく舌がまわらない。


 だったら土下座でもするべきか、まもなく僕に向かって飛んでくるであろう剣崎の拳にそなえて歯を食いしばっておくべきなのか。


 約一秒間の思考の末に僕はうつむいて歯を食いしばり、拳の制裁を待つ覚悟をきめた。


 あらゆる運動部をはしごして鍛えられているたくましくしなやかな腕に、とにかく一度、殴られてしまおう。


 しかし、どれだけ待っても拳も罵声もやってこない。


 顔を上げると、乙女の顔をして憮然ぶぜんとしている背の高い女の子がいた。


 剣崎と目が合う。その瞳はほんのり潤んでいた。


「……おまえ」


 発せられたその声に妙な色気を感じてしまったのは僕の気のせいなのか。


「あの、その……今のはその」


 ここにきて、まだ弁明をはじめようとする自分自身にあきれる。


「お前は、その、なんだ……もしかして、あたしのことがその、す、好きなのか?」


「え? い、いや、別に」


 言った後で、自分で自分を殴り飛ばしたくなった。


 どういうわけか僕の愚行に対する剣崎の反応は悪くない。だったらなるべく彼女の意見に合わせるべきではないのか。


「あ……ま、まあ、そうだよな……」


 剣崎の表情が曇る。しかしそれはすぐに明るさを取り戻した。


「でもさ、その、キスしてくるってことは、少なくともあたしのこと、嫌いじゃないってことだよな? そうだろ?」


「え? あ、ああ。もちろん」


 嫌いじゃないし、剣崎みたいな美人とそういう行為ができたのは単純にものすごく嬉しい。


 だけどなんなんだこの違和感は。


 殴ってほしかったわけではないけれど、想像していた剣崎の反応と実際の彼女の反応の乖離かいりがすさまじい。


「咲希ちゃんはね」耳元で生徒会長がささやいてくる。「きみのことが好きなんだよ」


「へ?」


「あの事件できみが有名になってからね、毎日私にきみのことをメッセージで送ってくるんだよ。夢の中できみとデートしたとか、告白したいとか、ちょっとくらいならきみにエッチなことされてもいいとか」


「……えっと」


 なんというか、驚愕の事実だ。


「そうだったんですか」


 確かにあの事件があって以降、やたら大勢の女の子から声をかけられたり手紙をもらったり、ストレートに告白をされることも何度かあった。


 でも、それは僕自身に好意があるわけではなくて、単に有名になったことへの価値に興味を持たれてるだけの気がして、そしておそらくその推理は間違ってはいなくて、だから僕は近づいてくる人たちから必要以上に距離をとっていた。


「それで会長は親友の剣崎さんに、ああいうことをしても注意しなかったと」


 むしろ推奨してきたくらいだ。


「もちろんそうよ。それにいくら真剣なゲームだからって、私が親友を傷つけるようなことを許すわけないじゃない」


 僕は力なく笑った。どこまで人が悪いんだこの人は。


 剣崎咲希は嬉しそうに生徒会室を闊歩かっぽしている。


 強引にキスをして喜ばれるなんて男としては名誉なことなのかもしれないけど、やはりどこか腑に落ちない。だったら常識的な反応として剣崎に傷ついてほしかったのかと言われれば、もちろんそんなの嫌にきまっている。


「さて、咲希ちゃんが喜んでるうちにゲームを進めましょう」


「そうですね」


 とにかく今は何かをして気分を紛らわせたかった。


 僕は『ヒット』をタップする。


 次のメッセージが表示された。


『まおう の こうげき まおう は せんし の あたま を きょうだ した』


 メッセージを確認すると、魔王は室内ではしゃいでいる戦士に、とことこと接近していく。


 魔王の攻撃。魔王は戦士の頭を強打した。


 これをどう再現するつもりなのだろう。


 ふと、違和感を覚えた。


 剣崎に向かっていく生徒会長。その手には何か鈍く光るものが握られている。


 どんな大会でもらったのかわからないけど、これまでずっと机の上に無造作に飾られていた球体のついたトロフィーだ。


 魔王の攻撃。魔王は戦士の頭を強打した。


 まさか。


 再び生徒会長を見た。剣崎のすぐ背後に立っている。剣崎はその存在に気づいていない。もしかしたら気づいているのかもしれないけど、気にしていない。


 生徒会長はトロフィーを握った腕を勝者のように高く掲げた。


「やめ──」


 僕が声を上げようとするまでに次のことが起きた。


 生徒会長が掲げた腕を稲妻のように振り落とした。


 トロフィーの球体が剣崎咲希の後頭部に直撃した。


 剣崎の体は床に吸われていくように倒れていった。


 べちんっ、と肉体が潰れるような音が鈍く響いた。

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