第5話

 確信に近い悪い予感が体中を駆けた。


 送信履歴をチェックすると、出した覚えのないメールがおよそ一分前に母に送られていた。


 知らぬ間に送信されていたメールには件名も本文もなく、一枚の画像だけが添付されていた。


 僕は画面をタップして添付されていたものを表示させる。


 最初、それが何かよくわからなかったのは、その画像が酷くブレていたからだ。


 しかし、想像力を働かせて凝視していると、頭の中で徐々にその輪郭がはっきりとしてきた。


「…………あ」


 声をもらしながら、血の気が引いていくのがわかった。


 こんなもの、いつの間に。


「生徒会長、これは一体どういうことですか」


 怒りではなく、疑念を込めた声で僕は訊ねた。


「言ったでしょ、きみに真面目に参加してもらうためのペナルティーよ」


 対照的に彼女は実に軽快な口調で答えてくれた。


「今はその話じゃありません。こんなのいつ撮ったんですか?」


 僕はスマートフォンの画面を彼女に向けた。


 そこには彼女が僕の母に送信した画像が表示されている。


 激しくブレているので、何が写っているのかわかりにくいけれど、よく見れば、ぼんやりと見えてくるものがある。


 撮影場所はこの生徒会室。白いスクールシャツと黒いズボンを身につけた生徒の上に、白いスクールシャツと紺色のプリーツスカートを身につけた生徒が重なり合うように倒れている。


 肩から上が写っていないので二人の顔はわからない。


 これはついさっき、僕の首に彼女が噛みついてきて、驚いて床に倒れたときの様子を撮影したものだ。


 机の上に置いていた僕のスマートフォンで、知らない間に撮影されていたようだ。


 僕はメニューを開いてアルバムの形をしたアイコンを選択した。これまでに撮影された写真がずらりと表示される。


 僕たちが倒れたときに撮影されたものは全部で三枚あった。


 そのうちの二枚はブレもなく綺麗に撮れていた。それなのに、なぜ彼女はできの悪い写真を母に送りつけたのだろうか。急いで送りたくて選択をあやまったのだろうか。


 それは違う。彼女はそんな単純なミスをするような人ではない。


 想像したくもないことだけど、あえてブレた写真を送りつけた理由はなんとなく察しがつく。


 何が写っているのかよくわからないもの。逆にいえばそれは、この写真にどんな物語でもなすりつけることができるということでもある。


 しばらく見ていれば男子生徒の上に女子生徒がかぶさっている写真であることは、誰だっていずれ気がつくだろう。


 例えばこの写真は、男子に乱暴をされている女子を写したものだと聞かされたら、このブレが異常な説得力として活躍してくれるに違いない。


 これが彼女からのペナルティー。


 きっとこれは一枚目の警告のカード。


 カードがたまっていくと、彼女はこの写真にまつわる説得力あるエピソードを誰かに言い聞かせるつもりなのかもしれない。


 それはカードが三枚目のときかもしれないし、二枚目のときかもしれない。


 どうやら僕にはゲームへの強制参加の道しか残されていないらしい。


 その前にまず母に、今のメールは友人がふざけて送ったものだから気にしなくていいという内容のメールを送った。すぐに、母から了解したとのメールが返ってきた。


 それからもう妙な記念撮影はされないようにスマートフォンの電源をオフにして、カバンにしまった。


「それじゃあゲームを再開させましょう」


 僕は彼女からスマートフォンを受け取って、画面をタップした。


『ゆうしゃ の こうげき ゆうしゃ は まおう を しめつけた』


 画面の中の勇者に向かって、頼むからもう少し勇者らしい行動をとってくれないかと叫びたくなった。


 真面目にゲームに参加すると誓った決意が早くも崩れそうになる。


 しめつけるという言葉に頭がしめつけられている。


 とはいえ、ここでまたミスを選択すれば、それこそが最大のミスにつながることは考えるまでもない。


 ここで魔王の機嫌を損ねてしまうと、僕はなんらかのゲームオーバーを体験することになるだろう。


 今はあきらめて、本気で向き合うしかない。


 僕は鼻から大きく息を吸って、イメージを固める。


 ここはゲームの世界。僕は勇者。目の間には魔王。


 そしてゲームのキャラクターのように、メッセージに表示されたことを忠実に実行する。


 僕は魔王に近づき、魔王の体に両手をまわして、強くしめつけた。


 その刹那、嗅覚が刺激された。キャンディーの詰まったびんふたを少し乱暴にあけたみたいに甘い女の子の匂いが鼻孔に飛び込んでくる。


 次に肉体の感触が伝わってくる。モデルみたいに細い体、でもそこにある確かな柔らかさ。


 無意識に僕はしめつける力を強めた。


「────っ」


 魔王はダメージを受けている。


「あ、ごめん」


 僕は手の力を緩めた。


「ダメよ」厳しい声が上がる。「それは認めない」


 苦しそうに、小刻みに呼吸をしながら、魔王様から警告がきた。


 僕は力強いほうではないけれど、女の子を苦しめる程度のものなら十分に持ち合わせている。


 現に彼女は今、僕の腕の中で苦悶の表情を浮かべている。


 さすがに意識を奪うようなことにはならないだろうけど、どうすればいいのだろうか。


 ここで手を抜けば、おそらくまたペナルティーがやってくるだろう。


 それに、こんな可愛い子を抱きしめていられるのは単純に嬉しい。しかも本人のお墨つきなのだから。


 僕はしめつける力を強くした。


 彼女の口から苦痛に耐える声がもれる。呼吸が荒くなっていく。


 潤んだ瞳を大きくして、じっと僕を見つめてくる。


 それはひどく僕をたかぶらせた。


 しめつける力をさらに強くした。


 苦しみ、もだえる声が彼女の口からこぼれる。


 知らなかった。人間の苦しむ声や表情がこんなにも欲望を刺激するものだったなんて。


 もっと強く、もっと、もっと。


 僕の──勇者の中に本来あるべき正義感とは別の感情が魔王をしめつけていた。


 唐突に爽やかな木琴の音が壁に備えつけられているスピーカーから流れ出す。


 びくりと心臓が跳ねて、僕は我に返り、腕の力を抜いて、彼女を解放した。


 鈴本先生、至急職員室までお戻り下さい。


 アナウンスはそれで終わった。


 彼女は倒れまいと机に両手をついて乱れた呼吸を整えている。


「あ、あの……その」


 一体、僕は何をしていたんだ。


 味わったことのな罪悪感と嫌悪感がわきあがってくる。


「その、ごめん──」


「いいの」


 魔王が勇者の言葉を遮った。


「やっとルールを理解してもらえたみたいね」と肩で息をしながら微笑む。


 わからない。何がここまで彼女をかきたてているのだろう。


 それに今、もし校内で鈴本先生が迷子になっていなかったら、もしあのまましめつけていたらどうなっていたことか。


 生徒会長を抱きしめているうちに抑制の効かなくなった自分を思い出して、思わず身震いをした。


 そんな僕の思いなどわかるはずもなく、魔王は子供みたいに無邪気にスマートフォンをよこしてきた。


 画面の端で二つの選択肢が鎮座している。


 僕はゆっくりと『ヒット』をタップした。勇者になってはじめてのヒットだ。


 壁にかけられたアナログ時計に目をやると、午後二時になっていた。


 それなりに時間が経っている。


 楽しい時間は過ぎるのが早いと聞く。もしかして僕自身も、このゲームを楽しみはじめているのかもしれない。


 そんなわけはないと、小さくかぶりをふった。


 それよりも、藤沢先生はいつになったら生徒会室ここにくるのだろう。そして、いつになったらこのゲームは終わってくれるのだろう。


 全てがランダムに支配されたこれを終わらせる手段はただ一つ。


 進めるしかない。


 画面には新しいメッセージが表示されている。


『むらむすめ が あらわれた』


「うん?」僕は首をかしげる。「何だこれ」


 画面にも変化が訪れた。


 雑なドットで描かれた魔王と勇者の間に女の子のグラフィックが追加されている。


 髪を三つ編みにして、淡泊な色の服をまとった素朴な少女。いかにも村娘といった風貌だ。


 こんなイベントがあるなんて知らなかった。


 最初から最後まで勇者と魔王だけで進行していくものだとばかり思っていた。


 でもこれはどうすればいいのか。


 ここには僕と彼女しかいない。


 僕は勇者で彼女は魔王。


 それとも彼女が魔王と村娘の一人二役をしてくれるのだろうか。


 これまでの流れから考えて、ゲーム進行のためならそれくらい喜んで引き受けてくれそうだけど。


 あるいは未だに姿を見せない学年主任の藤沢先生を待って、村娘を演じてもらうのか。


 そんなことを考えているとガラガラと音をたて、生徒会室の扉が開かれた。


 やっと藤沢先生の到着かと思いきや、そうではなかった。


 一人の女子生徒が入り口に立っている。


「失礼します」


 女子生徒は模範的に深く一礼をして、生徒会室に入ってきた。

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