空は今日も眩しくて

神山はる

空は今日も眩しくて

 もし、明日世界が滅びるとして、その前にひとつだけ好きなものを食べられるなら、林檎がいい。それも、甘ったるいのじゃなく、酸味の利いた特別みずみずしいやつ。まるごと一個かぶりついて、その冷たさを感じながら死にたい。そんなことを思うのは、あたしが今、林檎を手のひらで遊ばせてるせいかもしれないけど。

 空が青い。

 コンクリートの壁に切り取られていびつな形をした初夏の空は、寒色のくせに目を射るほど眩しい。本来灰色の冴えない校舎も、その眩しさで黒いシルエットになる。影絵みたいだ。

「影絵、か」

 自分の考えたことにひっかかって、思わず呟いた。ガブリ、と林檎を一口かじる。祖父母の家が林檎農家だという親友に、家で余って大変だからと押し付けられたのだ。甘酸っぱい味が広がって、頭の奥がきゅんとした。

 影絵みたい。あいつをそう思ったのは、いつだったっけ。

 あいつ、弘瀬ひろせ涼空すずあき

 あたしの……何だろ。友達? よくわかんない。

 いつだったか、今日みたいに眩しい空を背負って、屋上からあたしを呼んでいた。

 下から見上げるあたしには、逆光で黒い人のカタチにしか見えなかった。そのとき、思ったのだ。

 あぁ、影絵みたいだなって。普通の人は思わないのかな? あたし、感受性豊か? 何なら、芸術方面で活躍しちゃうのもアリかも……なんてね。冗談だけど。

 とにかく、思い出した。影絵が何でひっかかったのか。あいつ、涼空だったんだ。

 あいつ、今何してるんだろ。それもわかんない。

 あたしの近くにいた人で、こんなにわかんないことのある人は他にいない。

 不思議なやつ。

 だけど、林檎が好きで、屋上が好きで、人が好きだった。

 それだけは、覚えている。



「どうも、弘瀬です。よろしく」

 あたしがあいつに会ったのは、高校に入ってからだ。クラスは違うけど、委員会が同じで、仕事分担が同じだった。物事全般にやる気の欠けるあたしが分担されたのは、委員会の各分担の仕事報告をまとめるいわば居残り仕事で、それぞれの報告がくるまではすることもなく、ただ頬杖をついて席についているのが仕事だった。同じ仕事を任された涼空は初日は大人しくしていたが、二回目にしてすでに我慢がきかなくなったのか突然後ろに座るあたしにそう言った。

「はあ、どうも」

「ね、名前は?」

「は?」

「名前だよ、君の名前。何ていうの」

 正直、うざいと思った。すでに分担分けの表は配られていて、この状況下でぼけっとしていられるのなんてお前とあたししかいないだろうが。なんで同じ分担のところの名前を確認しない。

 馬鹿なのか、天然なのか。

飯野いいの梨沙りさ

 そっけなく答えたあたしに、涼空はぱっと表情を明るくした。

「あ、やっぱり。俺ら同じ担当だよね。これからよろしく。さっきも言ったけど、俺は弘瀬涼空。好きな食べ物は林檎、座右の銘は一日一善、目下の目標は友達100人」

 変なやつ、と思った。

 その後も涼空は聞いてもいない自己紹介を続け、その上時折あたしに話題をふるのも忘れなかった。急にタメ口で話しかけてきて、なれなれしいと思っていたのに、高めのすっきりした声がすんなり身体に入ってきた。

 体験したことのない不思議な感じだった。嘘っぽいまがいものの水晶だと思っていたものが実はひんやりした氷でした、みたいな。

 それからは何かと話すことも多くなった。といっても委員会と廊下ですれ違うときくらいだけど。それでもあいつはまるで親しい友達のようにあたしに話しかけるから、あたしも次第に答えるようになった。あいつはいつも校則違反のガムを噛んでいて、それも必ず林檎のやつだった。

「弘瀬。あんた、匂いすごいよ」

「林檎味うめえよ。食べる?」

「先生にばれても知らないから」

「人生の味をオトナが決めるほうが間違ってるっつうの。てか、涼空でいいって言ったじゃん」

「はいはい、じゃあね、弘瀬」

 あたし達は、友達でも仲間でもない、極端に密度の薄い謎の関係だった。



「おい、リイ」

 夏だった気がする。いや、春だったかな。どっちでもいいけど、高校二年だった去年の、晴れて暑い日だった。

 あたしは中庭の日陰で、ひとりお昼のパンをかじっていた。ブルーベリージャムの入ったロールパン。すっごく美味しくて、あの頃妙にハマっていた。

 半分くらい食べ終わった頃だったと思う。名前を呼ばれた。正確にはあだ名だ。リイって、あたしのこと。梨沙だから、リイ。この呼び方をするのは、あいつだけだった。

 じりじりと揺らぐ地面から目を離して、空を見上げる。屋上のフェンスの上から顔を出した、涼空の姿があった。

「なあに」

 ちょっと大きめに、声を張り上げる。お昼休みの学校なんて、駅前のコーヒー屋並みにうるさいのだ。いくら人の少ない中庭にいたって、普通の声じゃ聞こえない。

 見上げるあいつは、逆光のせいでただの黒い生き物で、かろうじて顔のパーツがどこにあるかわかるかなって程度だった。

 涼空は屋上が好きだ。暇さえあれば、すぐに行く。明るくてさっぱりした性格だから、友達だって多いのに、何故かいつも屋上にのぼって、ひとりで昼食を食べていた。

 あいつが本当はどんなやつで、どうして屋上にのぼるのかなんて知らない。そんなの、あたし程度のやつが測れるものじゃない。でも、やっぱり不思議だった。

 あたしの返事が聞こえたのか、聞こえなかったのか、涼空はさらに身を乗り出してこちらを見下ろす。危ないなあって思ったけれど、面倒で言うのをやめた。

 そしたら、あいつは心底気持ち良さそうな声で、こう言ったんだ。

「リイ、ここまでこいよ」

 はあ? って思った。だって、あたしがいるのは中庭で、あいつがいるのは4階建て校舎の屋上だよ? 何であたしが、わざわざ4階分の階段を駆け上るんだよ。

 そう思ったけれど、ちょっと迷った。あいつが、涼空が笑っているような気がしたから。今、屋上で。屈託なく、なんの疑いもなく、ただ楽しそうに笑っている。そんな気がしたから。

「やだよ。めんどくさい」

 でも、やっぱり現実を考えたら、行く気なんて失せてしまう。あたしは、熱気で重たく感じる頭をふって答えた。肩にかかったセミロングの髪が揺れて、少しだけ風になびく。

 黒い姿の涼空は、少し肩を震わせた。いつも通りのあたしの無気力ぶりに、苦笑したのかもしれない。それから、ふっと空を見上げた。


 一瞬。


 空を見上げたせいで、涼空の顔に光が当たった。

 影絵じゃなくなったあいつの顔は、びっくりするほど透明な表情をしていた。口元はかすかに笑みが残っているけれど、それ以外は何もない、喜怒哀楽の映っていない顔。

 言葉を失うって、こういうときのための言葉だろうか。

 あたしがあいつの顔をみたときの気持ちを、どう言葉にあてはめていいかわからない。

 ただ、見たこともないあいつの表情が、あたしの瞳の奥に焼きついて、鮮やかに存在を主張した。あたしは、目を離すことができなかった。

 でも、それは本当に一瞬で。


 ふ、と。


 気付いたときには、あいつはまたもとの影絵に戻っていた。涼空の身体が揺れて、あたしは、はっと我に返った。

「なあ。リイ」

 あいつが呼んだ。あたしは何故か、がっかりして、同時にほっとした。

 空の眩しさが目に痛くて、あたしは何度かまばたきしながら、もう一度涼空の姿をとらえた。青い空を背負ったあいつは、ほんのちょっとだけ、翼の生えてない天使みたいだった。あいつが口を開いたのがわかった。

「      」

「え? 何?」

 よく通るはずのあいつの声が、聞こえなかった。

 聞き返したのに返事はなかった。あいつは、ただじっとあたしを見下ろしていた。

「ねえ。何て言ったの」

 今度はもっと大きな声で聞いてみる。あいつが何故かうつむいて、また顔を上げたときだった。

 キィーン コォーン 

 予鈴が鳴った。授業開始五分前。

 涼空ははっとして、それからあたしに向かって無駄に大きな声で叫んだ。

「なんでもねぇ!」

 そして、さっさと屋上から見えなくなった。

「……あ、そ」

 一方的に会話を打ち切られ、あたしはあいつのいなくなった空に間の抜けた返事をした。



 なんてことのない会話だったんだ、今思えば。

 でも、問題はその後だった。

 あいつが、転校したのだ。あたしと話した数日後、お父さんの仕事の都合で広島に。あいつの友達の誰も、そのことを事前に知らなかった。もちろん、あたしも。

 みんなびっくりしたし、がっかりした。けれど、去るものは追わず。いなくなった人は忘れ去られていく。あいつの存在も、みんなの記憶からどんどん薄れていった。

 あたしだって、その一人だ。普段じゃ、あいつのことなんて心の片隅にもない。毎日それなりに忙しく過ごして、あっという間に三年生になってしまった。今日は本当に、たまたま思い出しただけだ。でも。

「なあ。リイ」

 あのとき、涼空が何て続けたのか、何を言いたかったのか。それがわからない。わからないから、ちょっと気になる。普通に考えれば、転校のことを言っていたと思うのが妥当だけど、あたしはそうは思わない。

 だって、あの顔を見たんだから。

 転校するから寂しいなんて、あいつがそんな理由であんな顔をするわけがない。いつだって人が大好きで、素直に喜んだり悲しんだりするあいつだけど、いや、あいつだからこそ、何も言わずに去ったのだ。そのあいつが、あたしにだけ言う、なんてダサいことをするはずがない。

 何だったんだろ、本当に。

 気になるけれど、確かめる気はなかった。むしろ、確かめるべきじゃないかもしれない。きっとあのとき、あいつの声は空に吸われてしまったのだ。あたしが、聞いていいことじゃなかったに違いない。だから、もういいのだ。謎は謎のままに、空は空のままに、あの日はあの日のままに。ちょっと不思議だっただけの記憶に収まっていればいい。

 足元が熱い。

 何かと思ったら、日が動いて足が日陰からはみ出していた。紺のソックスだから、余計に熱を吸収する。慌てて足をひっこめた。

 また一口、林檎に歯を立てる。喉を冷たいものが通りすぎる。

「……あ」

 ふとあたしは思い出して、鞄から封筒を取り出した。

 今日の朝、下駄箱の中に入っていたのだ。あたし達は、違うクラスの子と手紙をやりとりするとき、よくこの手段を使う。今朝は遅刻寸前で、とりあえず鞄につっこんだまま、中身を見るのも忘れていた。

 表も裏も、何も書かれていない封筒。しかも薄い水色一色。はっきりいって地味だ。あたしの友達は基本的にハデだから(あたし自身が地味じゃないのも確かだ)、こんなのは珍しい。

 封筒の口を開き、中身を取り出す。それから、無造作に便箋を開いた。

「…………」

 読み終えて、思わずちいさなため息がもれた。しばらく後に、便箋を丁寧にたたみ直し、封筒に戻す。やたらと綺麗なままの手紙を、あたしは鞄にしまいこんだ。

 背もたれにべったりよりかかっていた身体を起こし、勢いよく立ち上がる。鞄を肩に引っ掛けて、あたしは放課後の中庭をあとにした。

 林檎をかじるたびに、心地よいみずみずしさに心が透明になっていく気がする。

(やっぱり、死ぬ前には林檎がいいな。)

 そんな事を思っていたら、いまさらになって、空の眩しさのせいで目が潤んだ。



 空は今日も眩しくて。

 世界は今日も影絵のようで。

 一年前、あいつの言った林檎の味のひとことを、あたしは今になって聞き取ったんだ。



――リイ、好きだ。

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