この世界の片隅で

ロッドユール

第1話 この世界の片隅で


 

 人々が助け合い、笑い合い、平等に生きていく。この街はそんな風には出来ていない。常に誰かが上で、誰かが下。そして絶えず傷つく人間を必要としている。

 最初私も抵抗した。この街の間違いに。しかし、今はそれに準じている。生活という疲労の中で、私の諦めはこの街の無機質な生態系に完全に順化してしまっていた。



 いつも公園にあの少女がいる。少女はいつも同じ、木で出来た湿ったベンチの片隅に座り、暗く俯いていた。どういう存在なのか、気になった。しかし、声を掛けることは決してなかった。私はこの街の生態系の一部。そういう存在だからだ。



 私はいつも汚れた音楽を聴いていた。激しく反吐が出るような音楽だった。だが今日はなぜか、きれいな音を聞きたくなった。休日の昼間。昨日の酒の残滓が体を痺れさせていた。

 無為な一日の無為な時間。敢えてベッド脇の絨毯の上に横になる。ここからどこか楽しい場所へ連れ出してくれる友や恋人は、完全にユニコーンのような虚構生物たちと同義になっていた。それは幻であり、現実ではなかった。

 美しい高級な音は、私に何も与えてはくれなかった。虚しさに虚しさを垂れ流しているような、透明なやるせなさが時間を侵食していく。私はすでに、夕方から飲み始める酒のことを考え始めていた。

 ふと私はあの少女のことを思い出した。あの少女の俯いたきれいで形の良い頭部。少し汚れた感じの服。公園の片隅の少し湿った苔むした空気感。



 この同じ街で官僚が一人自殺した。朝からテレビ、新聞が連日現政権の汚職事件を騒いでいた。

 人が一人死んだということの衝撃を確かに感じながら、私はしかし、それは私にとって近くてどこか遠い出来事だった。

 朝、通勤のためのいつのも道を歩く。やはり少女は公園にいた。いつものベンチのいつもの場所。そして、いつもの姿勢。そして私はいつも通り、それを横目に通り過ぎる。少女を少し哀れに思いながら。

 車窓を流れていく死んだ風景。もう自分が何を求め何をしたいのかさえ、完全に見失ってしまっていた。今の私には決められた時間があるだけだった。起きる時間、電車に乗る時間。働く時間。休む時間。酒を飲む時間。寝る時間。そして、そうした繰り返しの中でいつか死ぬ時間が来ることを待っている。

 


 夕刻、仕事の終わった安堵感と共に駅前のいつもの道を私は歩く。この時ばかりは少しだけ気分が軽い。

 原色に彩られた華やかな女性たちが颯爽と街を闊歩する。そんな女性たちを見ていた時、ふと私は男と女の見ている色は本当に同じなのかという不安にも似た疑問が頭に浮かんだ。赤は男と女で本当に同じ赤なのだろうか。黄色は・・、青は・・。

 夕日の差し始めた駅前の雑踏。若者が気持ちよさそうに腹の底から己の愛を高らかに歌う。強制的に響く、愛の言葉。私はそんないたたまれない偽物に耐えきれず、その場から早く逃げたくて走り出した。

 家の近くに来た時、もう辺りは薄暗くなり始めていた。あの駅前で思いっきり聞いてしまった気持ちの悪い愛の言葉が、粘りつくように私の中に残っていた。私は無性にイライラした。

「あっ」

 肩のあたりで微かな音がする。雨まで降って来た。私のイライラは、怒りに変わっていった。

 私はあの公園の横を歩いていた。私はもしかしてと、公園の片隅を覗いた。やはり公園にあの少女はいた。点き始めた街灯の薄明りの下に少女はいつもの姿勢でいた。小雨に濡れながらも少女はその姿勢を崩そうとはしなかった。


 その夜、何気なく見始めた深夜映画に私は無防備に引き込まれてしまっていた。女優の名前も顔も知らないアジアのマイナーな映画だった。

 深夜と早朝の狭間で、自己投影した主人公の切なさに、私は完全にやられてしまっていた。この年になってこんな切なさに胸を締め付けられている油断していた自分をどこか恥ずかしく思うほどに。


 私はこの日洗濯機を二回回した。山積みされた洗濯物がそれによって消えた。強烈な雨の過ぎ去ったとてもよく晴れた日の朝だった。

 私は外に出た。休日に外に出るのは久しぶりだった。深夜映画が祟り、寝不足でどこか私の自律神経はおかしかったが、その日は私にそうさせる陽気だった。

 マンションを出て、角を曲がって少し歩くと、あの公園があった。直ぐにあの場所を覗くと少女はいた。

 少女は猫を撫でていた。初めて見る光景だった。私はそこで初めて少女の顔を見た。私が勝手に想像していた変な子ではなかった。

 ピンクのパーカー、バレリーナがつけるような薄いレースのスカートを上にひらひらさせた真っ白なスカートを黒いレギンスの上にはいて、足元は真っ赤なスニーカー。少し長めのきれいな黒髪のショートヘアの下にくりくりっとしたまん丸な黒目の大きな目を輝かせた、どこか独特の雰囲気はあったが、むしろ現代的なかわいらしい女の子だった。


 その時、ふいに少女の撫でていた猫が私の方にやって来た。私は初めて見た少女の顔をよく見ようと、知らず知らず近くまで来てしまっていた。少女の視線は猫の背を追い、私の存在に気付いた。

「あっ、どうぞ」

 少女は私に笑顔を向けた。少女は私が、少女の座っているベンチに座ろうとしているのかと勘違いした。

「あ、いや」

 私は否定しようと思ったのだが、なぜかそのまま少女の笑顔に引き寄せられるように隣りに座ってしまった。少女はまともな男が、隣に座るチャンスをあっさりと無下にすることのできない、何か不思議な明るい魅力を持っていた。

 猫は相変わらず、何がしたいのか、なぜか私の足の周りにしきりにその体をこすりつけまとわりついて来る。それを少女はにこにこと、しきりに撫でた。

「猫を飼ってるの?」

「いや」

「そう、不思議ね」

 さして不思議そうな表情もせず、少女はやはり笑顔で猫を撫でた。

 

「君はここで何をしているんだい」

 私は少女の隣りで、ずっと聞きたかったこの言葉に罪悪と恐れを感じ、黙っていた。

「朝四時に起きて、お弁当を作るの」

 突然そう言った少女を私は見た。

「それは仕事よ。それが終わったら、ここに来て祈るの」

 少女はあまりに壁が無かった。この街に住む者なら誰しも持っている強固で必携のあの得体のしれないどこまでもぶ厚く冷たい壁。それは私が戸惑うくらいだった。

「祈る?」

「そう、わたしはみんなの幸せを祈っているのよ」

 少女は私を見て微笑んだ。私はそんな少女の笑顔をまじまじと見つめた。目はしっかりとしている。決して狂人というわけではないようだった。

 それどころか少女の目に不純物を全く感じることができなかった。むしろ少女はただ純粋だった。この街では決して育つはずのない純粋だった。

「ふふふっ」

 戸惑う私を見て少女は更に微笑んだ。それには裏も表も無く、嘘も無理もない、ただの無邪気だった。

「君は・・、その・・、ここでずっと・・、祈っている」

 少女の笑顔にあてられた私はしどろもどろだった。

「そう。祈っているの」

「みんなの・・、幸せを?」

「そう、ありとあらゆる全ての幸せを」

 私はとうに絶滅した、ここにいるはずの無い博物館や本の中でしか見たことのない生物に突然出会ってしまったような驚きで、全身が完全に止まったまま、茫然と少女を見つめた。

 少女は、そういうことには慣れているのか、そんな私を心底おかしそうに、その無邪気な笑顔で見ていた。

「君はお弁当屋さんで働いているんだね」

「うん。そう」

 そこにはなんのてらいもなかった。

「七時に終わるの」

「あまり働かないんだね」

「うん」

「もっとちゃんとした仕事に就こうとは思わないのかい」

「お金は生きていけるだけあればいいわ。わたしは生きるために働くの。働くためには生きないわ」

 何の迷いもなく少女は言った。むしろ得意げでさえあった。


 猫は気まぐれに、しっぽをピンと立て小さなお尻をふりふり颯爽とどこかへ歩み去って行った。その後ろ姿を私と少女はしばらく黙って目で追った。

「ある日、わたしは考えたの。わたしに何が必要かって」

 私は再び少女を見た。

「そしたら、殆ど必要のないものばかりだった」

 少女は空を見上げた。空は気持ちよく青かった。

「わたしは考えたの。今この世界に何が必要かって。そしてわたしに何ができるかって。そして分かったの」

 少女は嬉しそうだった。

「分かる?」

 少女はいたずらっぽく私を見た。私は首を横に振った。少女は本当に嬉しそうだった。

「わたしは幸せよ」

 そう言って、少女は本当に心の底からの喜びに溢れた笑顔と一緒にその特徴的な大きな目で私を見た。私は、その私を見つめるまん丸な黒目がちなきらきらと、本当にきらきらと輝く少女の目を見つめた。

 私には理解できなかった。理解でき無さ過ぎて私の頭は混乱していた。それはこの街のルールと常識にないものだからだ。

「あなたは、お医者さんに突然ガンですって言われたらどうする?」

 突然少女が言った。

「ガン?」

「そう、余命半年ですって言われるの」

 私は考え込んでしまった。そんなことは頭に浮かんでも真剣に考えたことはなかった。

「その時になってみなければ分からないな」

 そう答えるのが精一杯だった。

「そうね。そうだわ。その通りよ」

 その私の答えに少女はひどく納得したように一人何度も頷いていた。

 その日の夜、私は酒を飲まなかった。しらふで寝るのは記憶がないくらい久しぶりだった。なかなか寝付けない暗い天井を私は見つめた。



 血の通わない画面の中で私は生きている。それは何かを得るためではなく、何かを失わないためだった。

 生きることはかんたんだ。だが私は漠然と何かに閉じ込められている。生きている感じがしない。生きている実感が全くない。窒息しそうなくらいそれは私を圧迫する。それが何なのか正体が漠然としていて言葉として掴み取ることができない。ただただ、夢の中で海に溺れて必死にもがいているみたいに、暗い閉塞感が、獲物を捕らえた蜘蛛のように私をその決して逃れることのできないねばついた糸で締め付けていく。

 ふと私は思った。彼女の祈るみんなの中に私も入っているのだろうか、と・・。多分、入っているのだ。彼女の祈る幸せの中に。私は入っているのだ。

 ―――私は愕然とした。

 私の周囲では、いつも通り気ぜわしく人々が動き回っていた。当たり前に人の喧騒があった。人は動いていた。働いていた。あくせくと。それは彼女の祈りとは全く関係なく、独りよがりに・・。


 仕事帰り、公園を覗くとやはり少女はいた。あのいつも俯いた姿勢で、いつものベンチに座っていた。

「やあ」

「はーい」

 少女はその世代の女の子がみな当たり前にするように私を嫌悪することもなく、明るく私を迎えてくれた。

「わたしコーヒーは飲まないの」

「そうか」

 私が差し出した缶コーヒーを彼女は笑顔で断った。

「ごめんね」

「いいんだ」

 私は少し恥ずかしさの入り混じった悲しい気持ちで、もう一度缶コーヒーをコンビニの袋に戻した。

「余計なことをしてしまった」

「気にしないで」

(「あなたは余計なことが多すぎるのよ」)

 昔、同僚の若い女の子に言われた言葉が頭に浮かんだ。

「小さなことを気にしちゃだめよ。そんなことは生きることにどうでもいいことだわ」

 私は一人、缶コーヒーのプルトップを開けた。

「君は落ち込んだりはしないのかい」

「そんなのもったいないわ。せっかく生きているのに」

 少女は少し口をとがらせた。

「君は前向きなんだな」

 私はコーヒーを一口飲んだ。

「落ち込んだ時はケーキを食べるといいわ」

「ケーキか」

 私は思わず笑ってしまった。

「君はケーキが好きなんだね」

「そう、わたしはいつも食べ過ぎてしまうの」

 その割には痩せている少女はそう言って、かわいく舌を出した。



 私は自分が決して人から愛される人間ではないことを知っていた。むしろ嫌悪される人間だとも薄々知っていた。職場の若い女の子たちが私をバカにしていることも知っていた。この街から愛されていないことも知っていた。私がこの街にしがみつけばしがみつくほど、この街は冷たく私を滑り落としていた。


 解雇された山田さんは次の日、自分の席に座っていた。

「君はもうこの会社の人間じゃない。タイムカードも無いし、君の席ももう無い」

 いくら上司が言っても山田さんは呆けたようにその席に座り続けた。次の日もその次の日も。誰も何も出来ず、ただ彼を遠巻きに、「無いもの」として接するしかなかった。

 それから一週間たって彼は突然来なくなった。誰も何も言わなかった。誰も山田さんの話しをする者はいなかった。やはり山田さんは「無いもの」だった。

 それから、何か共通の罪悪の重荷を背負ったような重い空気が職場に漂った。だから今でも、山田さんは私たちの間で「無いもの」だった。



 久しぶりに見る少女は毛糸の帽子を被っていた。ヒッピーが着るTシャツみたいにレインボーな柄の。そのカラフルな帽子の下で少女のあのきれいな黒い髪は無くなっていた。

「どうしたの」

 聞いていいのか迷ったが、誰が見ても分かることを聞かないのは逆に不自然だと思った。

「抜けちゃった」

 そう言って、少女は私を見上げて微笑んだ。その表情のそれは堪らなく愛おしかった。もしこの少女が小さな私の子供だったら間違いなく、堪らず抱きしめていただろう。

「私は二十七で死ぬの」

「?」

 私はまだ十代くらいに見える少女を見つめた。

「今、君はいくつなんだい」

「二十七」

「?」

「でも私は今が一番生きているの」

 そう言って私を見つめる少女の目は確かに生きていた。

「本当に生きているの」

 少女の視線の先には、公園に遊びに来ていた小さな子を連れた母子がいた。

「わたしは世界の片隅でみんなの幸せを祈って生きるわ。そして死ぬの。それがわたしの人生」

 少女は私を見た。やはりそこに濁りは無かった。

 こんなセリフをもしテレビドラマかなんかで、調子こいた安っぽいアイドル出の女優なんかに吐かれた日には、私は血管が切れそうになるほどの鳥肌を立て、テレビを蹴りつけるように消していただろう。しかし、彼女のそれには、清々しささえ感じた。

「君は何か夢はないのかい」

「わたしはただ明日があればいいわ。当たり前の明日」



「明日・・・」

 私は死んでいた。日々自分で自分を殺すのだ。そうしなければ私は生きていられなかった。

 上司はいつも無駄に威張っていた。そしていつも無駄に怒っていた。立場がそうさせるのか、元々人格に何かあるのか、それは分からなかった。だが、私はこいつだけは許せなかった。自分を殺しても殺してもこいつだけは許せなかった。血反吐が出そうなくらいむかついた胃で煩悶し、絶望的な痛みにのたうち回るほどの涙を流しても、私はなお苦しかった。

 上司はいつもその大きくて立派な上の二本の前歯を剥きだして、私を罵った。私の目の前でよく動く、その二枚の形の良い平均的な前歯としては面積の広いそれは前後に微妙にズレていた。それは本当に微かなズレだった。多分、この男の奥さんでさえ気づいてはいないだろう、そのほんの微かなズレを私は知っていた。それをじっと見つめ続けることが私にできるどうしようもない無力な復讐と抵抗だった。


 画面を睨み、キーボードの一コマ一コマに必死に集中しようとするが、そんなことができるはずもなかった。上司に怒られた後はいつも、私を取り囲んだ好奇とも哀れみともつかぬ視線が、飛んできたガラス片のように私を内側からえぐった。

「本当に大事なものを見失ってはダメよ」

 何の話をしている時だったか、少女がそんなようなことを言った。今ならその意味がなぜか分かるような気がした。

 私は少女と出会ってから、厚塗りの古いペンキが剥がれていくように、私の心の凝り固まった何かが大きく剥落していくのを感じていた。その剥落した跡に感じる私の心の本当は、それそのものが無条件に大切だと思える温かい何かだった。

 少女は何も持っていない。この街の価値観の中で欲望されるものを少女は何も持っていない。しかし、少女は何かを持っている。私もそれが欲しいと思い始めていた。少女と同じものが、少女と同じ、温かくて、やさしくて、もっと生きるということの根源的に大事な何か。しかし、それを手にするには、今、私が持っているものを手放さなければならない。

「ある日気づいたの」

「わたしは生きる側から、生かす側に変わるんだって」

「わたしはわたしを失うけど、わたしはわたし以外の全てになるの」

 少女が嬉しそうに語っていた言葉が、乱れた頭の片隅に断片的に浮かんだ。

「みんな自分の欠片を探している」

「でも、絶対見つかりっこない。そんなの幻だから」

「みんな本当は自分が自分であるというだけで完璧なの。探す必要なんて何もないのよ。最初から」



 少女は公園に遊びに来ていた母子の連れた小さな子供をあの特別な笑顔であやしていた。よちよち歩きのその子供は、よく分からないながらも楽しそうに、きゃっきゃっとしきりに少女の前で両手をパタパタと動かしていた。

 少女が私に気付いた。

「これでいいかな」

 私はペットボトルの水を差しだした。

「ありがとう」

 今度は受け取ってくれた。

 私たちはベンチに並んでペットボトルの水を少しずつ口に含みながら飲んだ。

 少女とは何も話さなくても、ちっとも気まずさを感じなかった。沈黙さえもどこか心地よかった。

「今日は早いのね」

「うん」

「まだこんなに日のあるうちに帰ってくるなんて久しぶりだよ」

 本当に久しぶりだった。

「仕事大変なのね」

「うん、とっても」

 季節は完全に春だった。暖かくなった喜びを、全身で表現するかのように、子供たちの歓声が公園中に響き渡る。少女はまだあの帽子を被っていた。

「君は世の中不平等だなって思ったことはある?」

「みんな最後は同じ運命が待っているんですもの。みんな平等だわ」

 私の足元でちっこいありんこたちがせわしなく動き回っていた。

「なんだか疲れたよ」

 全身の疲労が、繊維一つ一つの深奥から染み出るように漏れた。私は足元の目的を見失った機械のような蟻の動きを無力に追っていた。

「嫌なことはしなくてもいいのよ」

 少女が言った。

 不意に私の目に涙が溢れた。私は直ぐに涙を拭った。しかし、それは思った以上に止まらなかった。 

 気付いた時には、私は小さな子供のように嗚咽まで漏らして泣いていた。私は子供の時以来、いつだったか思い出せないくらいの久しぶりに思いっきり泣いていた。

 私は開き直ったかの如く、思いっきり思いっきり泣いた。恥ずかしかった。大人として。男として。女の子の前で。公衆の面前で。公園に遊びに来ている小さな子供が私を見ているのが分かった。しかし、私はヒックヒックと嗚咽を漏らしながら、恥ずかしいぐらい恥も外聞もなく声を出し、泣いた。


 少女は私の隣りにいてくれた。ただ黙って。温かく。ただ私が泣くにまかせてくれた。嬉しかった。少女がいてくれること。少女がそうしてくれること。―――嬉しかった。


「僕は最初、君を助けなければいけないんじゃないかって思ってた」

「そう」

 少女はやさしく微笑んだ。

「でも違った。全然違った」

 私も自然と笑顔が漏れた。そんな私を見て少女は更に嬉しそうに微笑んだ。

「人と違う生き方をするって、辛いことだけど、でも間違ったことじゃないわ」

「うん・・・」



 ふとした瞬間の何の気ない香りに、私は何か忘れていた幼い懐かしさを突然感じることがある。それはあまりに一瞬で、その時の全体を思い出すにはあまりに足りなさ過ぎるのだけれど、それはあまりにリアルで私を幼い子供のその時そのものに連れ戻す。

 失った私。まだ何も知らない私。世の中がこんなことになっているなどと露ほども知らない私。馬鹿な私。まだ夢を見ている私。まだ世の中の全てを信じきっている私。

 私はこの街を去ることを決めた。この街は人の生きる街ではなかった。

生きた時間。

 私は本当に生きる。本当に生きるために生きる。私はそう決心した。


 少女のいつも座っていたベンチは、空っぽだった。少女はあの公園からいつの間にかいなくなった。子供の頃しきりに遊んだ遊び場が、いつの間にか消えていたみたいに、儚く、泣いてしまいそうなくらいの懐かしさを残して・・・、消えてしまった。

 少女が消えたのは、公園からなのか、この街からなのか、それとももっと大きな何かからなのか、それは分からなかった。

 家族はいるのか。どこに住んでいるのか。私に確かめる術はない。私は本当の意味で彼女を知らない。この街の固さと距離感の中で彼女と触れ合ったに過ぎないのだから。

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