来栖瑠璃と空との対面

 ――しかし、現実は異なる。

 サブジェクティブ評価は依然として力をもつし、来栖春は本当のところ人間未満処分が妥当かもしれなくとも、人間としてあり続けた。



 そんなふうに、子どもを、かばい続けた家庭の母親が、いまここに来ている――。



 寿仁亜は小さく息をいて、素子の貸してくれた手のひらに収まるほどの小さな薄い直方体のデバイスから指を離した。自然に、電源がオフになる。暗くなった画面には、自身の顔が解像度の低いぼやけたかたまりとして黒く、映っていた――自分ではない、なにか影を見ているかのような気持ちで、……連日の研究室泊まりで少し疲れが出ているのかもしれない、と思って寿仁亜は首を右左に傾けて小さくコキコキと鳴らした。


 窓の外を見ると、あっというまに、夕方はほとんど去りつつあった。冬の夜は、すぐに暮れる。まだ夕焼け空の残滓を空に見て取れたが、闇が、新時代情報大学の五号館の輪郭を、速足で移動する学生たちの存在感を、呑み込むようにぼかしている。

 ひとびとが空の色を加工し始めるのはいつからだろう。

 美しく。景観を意識して。バーチャルな世界では、すでに実現されたように。なんだったら、つねに明るい大空が頭上に表示させるように――することだって、無理ではないはずだ。

 果たしてそれは必要なのだろうか。わからない。しかし科学は進歩に進歩を重ねて――不要不急ではない課題にだって、取り組めるようになった。

 遠くない未来。空の色は、リモコンひとつで変えることができるようになるかもしれない。



 寿仁亜は、夕焼け空の残滓が消えていくさまを確かめたあと、静かに、……静かに応接室に向かって足を向けた。

 素子が応対してくれているはずだ。主観的にはずいぶん長い時間に感じたが、実際には十分も経っていないはず。ひと家族ぶんのデータを見るのに、時間はそんなにかからない。データはわかりやすく、至極簡潔にまとめられている。参照する人間が簡単にその人間を理解できるように。時間的コストを短縮して、その人間の人物像と、なにより能力を理解できるように。



 廊下を進み、右手にある応接室が近づくと、さっそく女性の金切り声が聞こえてきた。



「だから! 私は! 冴木教授って方に会わせてくださいと、お願いしてるんです!」



 ……来栖瑠璃だろう。データで出会った人間と、実際に出会う。そう珍しいことではないが――同業でもない、学生でもない相手とそのような関係になることは、なんだか新鮮とも言えるし、居心地が悪いとも言えた。


「それは私の一存では、どうにも、難しくて、申し訳ございません」


 素子の、澄ました声が聞こえてくる。素子を知らない人間からすれば、ほんとうに心底申し訳なく思っていそうで、むしろ話している側が恐縮してしまいそうな声色だった。だが、寿仁亜にはわかった。これは彼女の処世術でしかない、と。

 寿仁亜は白いドアを開ける。

 すると――部屋の奥に置かれた、シックな赤色の革張りのソファに座っていた来栖瑠璃と来栖空が、ほぼ同時に寿仁亜のほうを見てきた。瑠璃が奥に座っていて、空は手前に座っている。

 瑠璃は興奮した顔つきだったが、空のほうは、むしろ困惑しているようだった。


「あなたが、冴木教授⁉」


 なぜそうなる、と寿仁亜は思った。相手のデータの開示もしないのかと、一瞬思って――しかしすぐに自身が誤っていたことに気がついた。……個人データの開示は、原則社会評価ポイントが下の側から上の側に対して請求するのは難しい。

 かりにそうするのであれば、正当な理由が必要になってくる。たとえば、学生が教師の個人データを見る場合。学生は一部の超優秀な者を除いて基本的に教師よりも社会評価ポイントが低い場合が多いが、学生という立場による今後の優秀性の見込みと、教師が劣等だったり経歴に傷があった場合のリスクを考えて、基本的に倫理監査局は学生から教師への情報開示請求は、許可を出す場合が多い。


 個人情報の保護も人権。

 だからこそ、人間未満は人間だったころのすべての劣等性を開示されて、世間の笑いものにされるのだから。


 普通に考えれば、見られなかったはずだ。

 一般シュフでしかない来栖瑠璃も、おそらくは標準の範囲内で働いているだけの来栖空も、来栖海も。……来栖咲良も悪くないとは言えしょせんは中流だ。寿仁亜の情報を開示しようしたか知らないが、実際、しようと思っても難しかったのかもしれない。



 瑠璃は、真っ赤な顔で寿仁亜を見ている。

 おそらくは、寿仁亜の立場も功績も、パーソナリティも、なにも知らずに。

 ……はじめまして、というところから始めなければならないな、と寿仁亜は思った。この感覚は――なつかしい。

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