名刺

 寿仁亜は、取り戻す。

 いつもの振る舞いを。王者らしく、それでいて謙虚な、相手を持ち上げるようでいて試す振る舞いを。


「ああ、いえ……僕は冴木先生の弟子の、依城寿仁亜と申します」


 寿仁亜は懐から名刺を取り出し、瑠璃と空に渡した。デジタルな情報はいまや多くの人がアクセスできるものになり、専門性の高い情報はむしろアナログペーパーと呼ばれる従来の紙にアーカイブされるようになった今では、名刺もアナログペーパーで渡すことになっている。持ち主の承認印があれば、なおよい。かならず本人のものであると、確かめることができるから。承認印の技術もずいぶんと発達した。いまでは、本人が公的機関に届け出ることによってその信頼性が増している。

 二十一世紀の中頃には、いっときすべてをデジタル化しようという動きが起こった。ペーパーレスは極まるのだと。しかし、結果はどうだ――アナログペーパーは生き残った。

 歴史の動きというのは不思議なものだと、いつも寿仁亜は相応の感嘆をもってして思う。


 そういうわけで、寿仁亜の名刺というのは結構――いや、かなり貴重なものであるはずだった。それは依城寿仁亜本人と出会い、応対すべき相手だと認められ、一定の礼儀を持って接されたのだと、そういう証になるから。

 場合によってはサブジェクティブ評価にも大いに関わってくる――年度末、評価確定申告の際には一気に連絡が増える。自身の持っている名刺を全部ぶちまけて中身をあらためて、めぼしそうな人間のパーソナルデータをオープンネットで集めて、どうもこいつはかなり優秀そうだ、ちょっと良い評価をもらえるだけでも大分サブジェクティブが変わるぞ、となれば、急いで連絡をする。賄賂も渡すケースもある――もちろん賄賂とは言わない。あくまで、名刺を交換するほどに親しい関係同士として、個人的な「食事」や「プレゼント」をするという、そういう建前で。

 寿仁亜も、年度末には大量の連絡を受ける。同僚や後輩はもちろん、大学の学生だとか、一瞬どこかの学会や学術的イベントで会った程度の顔も名前もおぼろげな相手からも、どさどさ連絡が入ってくる。いまのところ、よほど自分に対して礼を失していたり損害を与える人間ではなければ、緩やかなレベルでポジティブに対応してやっている。彼らが連絡してくる原因は、もとを辿れば名刺を渡した自分にもあるのだから。

 しかし――今後ともこれでいいのかどうかは、寿仁亜自身、よくよく考え直さねばいけないところだと毎回思っている。……今年ももう十二月で、年度末の二月そして三月も、近づいているから。


 これは、社会問題にもなっている。本来、サブジェクティブ評価というのはそういうものではないだろうと。あくまでも本来は、日頃かかわりがあるか、または何か社会的に有益なことをした場合の評価である、と。想定されているのは職場の上司と部下とか、同僚同士とか、取引先同士とか、慈善活動においての関係とか、ふと人助けをしたとか、そういうパターンだ。

 一瞬、出会っただけとか。その後かかわりがないのに、名刺だけ交換していたとか。そうでなくとも顔と名前を知っているだけとか。

 そういうレベルの知り合いは、本来対象ではない。



 優秀な人間に、評価してもらえさえすれば良い。たとえそれが本心からでなくとも。「食事」やら「プレゼント」やら、あるいは自身の今後の優秀性の見込みを担保とした懇願、媚びによってであっても。

 おこぼれに預かろうとする人間は多いのだ――サブジェクティブ評価という制度の弊害、そうだ制度の欠陥だと、社会学者たちは言っているが。そうではないと、寿仁亜は思う。

 むかしから、どうも人間はそうだった。もっと厳密に言うなれば、人間には、そういうところがずっとあった。

 ただ、いまは制度化されただけだ。



 だから、寿仁亜はいつしか名刺を渡すことに多少の重みを置くようになった。ひょいひょい、渡すことはしない。渡してしまえば一定の責任が生じる。

 依城寿仁亜、という若手研究者の名刺をありがたがる人間は多い――だからこそだ。気軽には、渡さないようにしている。……学会やイベントでも、名刺を出すのはよっぽどの場合だ。ましてやいまは、学生に対しては、これもよっぽどの学生でなければ基本的に名刺は渡さない。お願いされても、渡していない。



 それでも、そこまでしても、依城寿仁亜という人間の名刺を受け取ったときに顔のほころびを隠しきれていない人間は多いのだ――完璧に隠していたとしても、内心ではほくそ笑んでいる人間も、きっと珍しくない。そういう人間ほど、あとで寿仁亜の名刺を利用してきたりするから。

 人間は、そういうものだからと寿仁亜は思って。そこまで、悲観的にも、ネガティブにも考えていない、ただ穏やかにそう捉えているのだが。



 それはそれとして――来栖瑠璃と空、とくに、……受け取った名刺を両手で持って、見づらい本を読むかのように視線を近づけてじっと見ている瑠璃のほうは、優秀者と知り合いになった喜びや打算は欠片も感じられず、むしろ、訝しげに寿仁亜の名刺を観察しているのだった。

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