みんなが望んでいたはずの世界
そして、彼にとっては散々だっただろうが、客観的に見ればさほどでもなく当然の結果に思える高校生活を終えて、彼は高校卒業後、ひきこもった。
見事に、ひきこもった。
春が十八歳の瞬間から二十歳になった二年間。姉の空は、二十歳から二十二歳、つまり大学三年生から四年生。大学生。妹の海は、十六歳から十八歳、つまり高校二年生から三年生。
空のほうは相変わらずバスケを趣味として楽しみながらも、就職先訪問やインターンに勤しみ、このまま順調に成人していくと思われた。海のほうも、この時期は一番学校生活が楽しかった時期で、彼女が彼女自身のよさを発揮して成人の見込みが出てきたころだった。海にはかつて問題があったにしろ、克服されてしまえばさしたる問題には見えなかっただろう。
父親の咲良も淡々と働き続けていた。このまま定年まで、アンドロイドの四肢を生産し続けながら、定年まで工場長を勤め上げると思われた。瑠璃にも目立った問題はなかった。相変わらず公的な機関に対しても協力的で、彼女の子どものことはともかく、本人は安定した穏やかな生活を送っていたようだった。
そこで、この時期の来栖家の問題は、客観的に見ても春の問題ただひとつに集約されることになる。
海は転校する以前には、兄のせいで自分の人生がめちゃくちゃだと主張していた。しかし、いざ春がひきこもりになったあと、そのような発言はデータ上にはほとんど見られなかった。相変わらず兄を軽蔑するような発言はあれど、兄のせいで、とは言わなくなっていた。
それは、海自身の生活がうまくいき始めたからなのか。それとも――もはや人間未満となっていくと思われた兄のことをもうすっぱりと、人間としては、諦めたからなのか。
彼は大学受験もできなかった。そもそも人前に出ることを極端に怖れるようになっていたらしい彼が受験会場に行って受験をするのは難しかったかもしれないが、それ以前の問題で、春は進路を選べなかったという。どこの大学を受けるか、まずそれを考えることが難しかった。大学に行かないならば就職をするのか、それも決められなかった。
担任教師はずいぶん何度も問い詰めたという。どうするのかと。このまま、社会の生ゴミになっていくのかと。
春は選べなかった。何度も何度も問い詰められて、それでも、選べなかった。自分ではもうなにひとつ選べなかったのだ。
正当な理由もなく集団から外れるなど、人権を奪ってくださいと言っているようなもの。
公的な支援もだんだん減っていくさまがわかる。
まだ、最初は多くの存在が来栖春というひとりの若者を気にしていた。一時的なものかもしれない。もしかしたら、きちんと人間になれるかもしれない。経過を観察してあげよう。時間を与えてあげよう。早期に立ち直ったほうがいい。
来栖春という人間は、幼少期の経過を見る限りそこまで悪くはなかった――普通の歯車には、たぶんなれる。
歯車はいくらあったっていいのだ。社会を進めなければならない。より進歩させて、ひとびとは豊かにならなくてはいけないのだ。
高柱猫以来、それは、社会の常識だった。
ひとびとは、より幸せになるために――進歩を求める。それこそが、高柱猫の望んだ世界。それこそが、……旧時代でも、ほんとうはみんな、みんなが望んでいたはずの世界。
人間には、なるほど確かに価値がある。
でも、それは旧時代に言われていたような、人間でいるだけでもっている固有の価値とか「尊厳」だとか、ふわっとした、きれいごとではない。
……寿仁亜は、頭のなかで思い返す。Neco専門家として、それ以上にいまどき珍しい歴史というものに興味をもつ一個人として、何度もなぞってきた高柱猫の演説のひとつを。
高柱猫は、中年期にかつて言った。
人間にはなぜ価値があるのか? ――文明をすすめることができるからだ。進歩に貢献できるからだ。つまりは、社会に、貢献できるからだ。
賢いひとびとはもうお気づきだろう。そう、社会に貢献できない人間には、価値などない。固有の価値? あるわけない!
人権という概念は、発明だったよ。発明だった。当時の社会を大きく進めたのは認めよう――けれども不完全だった。限界があったよね。
僕も人権は好きだ。
けれど、それは人間にだけ認められるべきだったものと、思うんだ。
不思議なんだよね。なぜ当時の思想家たちは、人権というそれなりの発明にくっつけて、尊厳なんて価値観を見出してしまったんだ? しかも、それを本気で信じてしまっていたんだ?
ひとがひとであるだけで価値がある? ――そんなんだから僕を襲ったあいつらみたいな外道が生まれてきてしまったんだろう! 僕だけじゃないよ。みんな、みんなそういう存在にいやな目に遭わされていたはずだ。
人間にも値しない人間をなぜ生かしておかなければならない?
優秀な、人間に値する諸君。なぜ君たちが必死で稼いだお金で、君たちに害をなしてくるような、それでいてなんにもできない劣等な存在たちを、生かしておかなければならないのか?
おかしいとは――思わないのか?
……僕は、おかしいと思う。
ねえ、変えていこうよ。こんな現状は、みんなで。
優秀な君たちと僕が力を合わせれば、「人間」のみんなが豊かに、幸福に暮らせる社会を、きっと、いいや絶対につくれるよ――。
寿仁亜は思う。
……そして、社会はその通りになった。
高柱猫の言葉は、優秀な人間の多くが、憧れ指標とする。
寿仁亜も、若いころ例外ではなかった。
そして、だからこそサブジェクティブをなくしてはならない――わかる、わかるのだが、……なにか腑に落ちないものを感じるのも、たしかだった。
来栖春が人間であることを否定するわけではない。彼は、なにか独特のセンスをもっている。しかし――彼はおそらく、もっと優秀な、あるいはもっと常識的な感覚をもつ家庭だったら、あっというまに人権を奪われていたような気もする。
……だから、モヤモヤする。
なにかが――ひっかかる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます