寿仁亜の怒り

 春が頼んできたのは、たしかに、冴木教授にこのプログラムを実行してもらうこと。そして高柱寧寧々を呼んでおくこと。

 このふたつのみ。公園事件の解決だとか、犯人を突き止めるとか、学問の名誉を守るとか、……人々の命を守るとか、彼はひとつも要求していない。


 しかし寿仁亜の役目は、春の頼んでいないそういったことこそが任務であると言えた。それこそが、自身の役目であると自覚もしていた。

 なんとしてでも円満に公園事件を解決する。

 たとえ春がそれをどうでもいいことだと考えていても――Neco専門家として、Necoをここまでおちょくられたことを、寿仁亜は許せない。……ここまでの怒りを感じたことはこれまでの生涯でなかったかもしれないほど、寿仁亜は、表情は笑顔のかたちのまま崩さず穏やかでありながら、いま怒っていた。

 それは、たとえるならば王の怒りだった。



 夕暮れ、というより、正確には日が落ち切って夕暮れの名残りのある研究室。

 学生たちが遠ざかる気配とともに、機械鳥の鳴き声がカラスに変わり、なんとも言えない感傷を醸し出してくる。なぜ、夕方にはなにもかもが遠く感じるのか。寿仁亜はむかしから不思議だった。

 しかしいまは、なにかから遠ざかっている場合ではないのだ。

 これからどんどん春からのプログラムが送られてくる。いや、既にもうどんどん送られてきているのだ。怒涛の勢いで。それはたしかに服とも言えないボロ布だけを纏った哀れなみすぼらしい青年が、ぼそぼそと気でもふれた独語のように口にしていく言葉と対応していた。

 頭では理解していたが、やはりにわかに信じられなくて、寿仁亜はしばらくモニターのなかの春を眺めてしまった。ほかの者たちもそうだったのだろう。程度の差はあれ、全員が春をどこか不思議そうに見ていた――ふうん、と最初から興味のなさそうな寧寧々と、そんなのわかってたよとでも言いたげな冴木教授を除いて。


 怒り、それは寿仁亜にとって新鮮な感情ではあったが取り扱いは心得ていた。怒り、というものを情報として寿仁亜はよく理解していたし、たびたびその不可思議にも思える感情にコントロールされている他者も見てきた。だから自分のなかにデータは蓄積していた。ただ、自分では実感がなかっただけだ。

 ああこれが、つまり、そういうことかと。それはたとえば、温度を知らない学者が温度について室温が完璧そして一定に保たれた部屋に生まれたときから一歩も出ないでそのなかで徹底的に研究して、いざ外に出て初めて「冷たい」だとか「熱い」だとかを知った事象と似ていた。いざ自分が感じてみて、ああこれが「怒り」なのかと、寿仁亜は理解したのだ。

 それは遅すぎる印象を受けるかもしれないが、こと寿仁亜にかんしてはべつになにかが遅れたわけではない。彼は、元来優秀だった。そしてとりわけ争ってきたこともなかった。たしかに冴木教授には感動して弟子入りした。それは、彼のどちらかというと平坦な人生で起こった数少ない劇的なできごとだ。だから寿仁亜は銀次郎についていくのだし、あまり公言はしないがほとんど心酔している状態となっている。だからこそどんなに自分の仕事や研究やプログラミングが忙しくても、冴木教授に呼び出されればすぐに行くのだ。それは、冴木教授の弟子たちを育てるとか、どんな人間でも大事にする義務があるがしかしとりわけ冴木教授の弟子たちは丁重に丁寧にとてもとても大事に扱う、という行為も含まれていた。



 公園事件の解決に取り組んで。……はたと、寿仁亜は気づいたのだ。

 春も、当然ながら、冴木教授の弟子であることを。



 ……そう思えば怒りはますます燃え上がってくれる。

 炎を煽る、風のように。



 寿仁亜はいま笑顔で――怒りをコントロールするのではなく、心のなかで大事に大事に、燃料として、……エネルギーとして、利用していた。

 それはやがては燃え上がると――わかっていたわけではないが、……どこか予感して。

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