十日目、対策本部

ひとそれぞれ

「――きました」


 その瞬間、寿仁亜は、研究室でいの一番に声を上げた。


 それまでの春のすがたは、映像で見ていた。

 だからより正確には、きました、ではなく、始まりました、とでも言うべきだったのかもしれない。


 しかし寿仁亜の口からほとんど自然に出てきたのは、きました、という言葉だった。

 もうほとんど死にかけているように見える、春の口が動いた。

 そうしたらモニターにプログラムが送られてきた――昨日の続きだ。待ちに待っていた。チェックも解析ももう終わっている。



 ……ほんとうに。待ちに待っていた。

 彼のプログラムの続きが、こうしてやってこないことには――なんにも、これ以上、……進展しようのない、どうしようどうしようとアイデアを出し合ってはみても、けっきょくのところ、進まない、彼のプログラムを滞りなく遂行するという結論に、毎回達した、だから結果的にはただただ彼への虐待を見せつけられるかのような――停滞した時間が、つづいていたから。



 にわかに、空気は動き出す。忙しなくなる。各々が、持ち場につく。



 春のプログラム。

 自分たちが続きを想像して創りあげてしまうのは、むしろ容易いかもしれない。実際、ジェシカはそんなことを提案していた。木太も、時間の短縮という点ではありかもしれないと言っていた。

 しかし寿仁亜は、春のオリジナルのプログラムに任せたほうがいいだろうと判断し、ジェシカと木太を説得した。

 春のプログラムは、なにせ、ほんとうに独特で――実際のところどこに向かっているかというのは、いくらか想像はできるものの、……その分岐の果ては未確定であるとも言えた。


 いくつか、道筋はある。それは見えるのだ。けれど最終的にどこに行くか、決定的に、絶対にこれとは言い切れない。会話とおなじなのだ。Necoプログラミングは。


 たとえば会話を想定する。子どもと大人の会話が適当かもしれない。少なくない数の大人は、子どもの会話はだいたいわかると驕っているから、子どもが言ったことを遮ったり結論を頭から決めつけて誘導したりして、こういうことだったんだろう、とあんまり疑いもなく理解して納得したがる。

 子どもと大人の関係だけではない、劣等者と優秀者の関係で考えてもいい。優秀者は文字通り、劣等な人間よりも優秀だから優秀なのだ。そこには知的思考力とか、論理力とか、創造性や表現力も含まれる。だからこそ多くの優秀者は劣等者の言うことなんかすべてわかると思っている。

 最後まで聞かずに――つまり、あなたの言っていることはこういうことね、と決めつけたがる。


 だが、本当はわからないのだ。相手の言っていることは最後まで聞かなければ、わからない。寿仁亜は自分の勤めている大学で学生たちの話をよく聞くと評価されている。

 でもそれは効率性を重視する世の中ではデメリットでもある。実際、寿仁亜はたまに立場が上の教授に呼び出されて指導される――学生なんていう現時点で君より劣等な人間の話なんてそこそこに聞き逃しておけばよろしい、と。

 君は、優秀なんだからな、と。


 にこにこ聞いていたけれど。

 けれどもそのとき、寿仁亜は単純に疑問だった。

 理屈上、そうなると、寿仁亜の話を教授が聞く必要もなくなる。社会的に、その教授のほうが立場が上だ。……その教授が寿仁亜と同い年だったときに、どうだったかはわからないが。


 寿仁亜が優秀な見込みがあるからまともに話をしていたのだろうか。

 ……でもそれを言うのだったら。

 きれいごとかも、しれないが。

 どんな学生だって、いやどんな人間だって優秀になる可能性はある。ある日、ふっと、なにかさなぎから羽化するかのように、目覚めるように、優秀になってしまったりするのだ。

 寿仁亜はそのことをよくよく知っている。そんなのは、広く人間を見ていればわかる。優秀者になっていくプロセスには大きく分けて二種類のパターンがある。ライオンは生まれながらにライオンであって、小さなライオンがそのまま大きなライオンになっていくかのようにもともと優秀そうでどんどん優秀になっていたパターンと、サナギが羽化していくかのように突然優秀になるパターンと。


 ひとは、深みだけでは測れない。

 ……広さもよくよく見ておかないと。



 ……Necoプログラミングが会話的な性質を帯びる以上。

 来栖春の言いたいことは、最後まで、たぶん遮ってはならない。誘導してはならない。……結論を勝手に見出だしてはならないのだ。



 えーっ、そんな、めんどくさいよねえとジェシカは言っていたが――最終的には、しぶしぶ納得してくれた。……まあ、私も自分のプログラミング、勝手に決められたらいやだもんね、と。

 ジェシカのプログラムはトリッキーなタイプで、だからプログラマーとしてはこの研究室でいちばん春と近いタイプだと言える。もちろん、ジェシカは細部のコードや展開を、装飾で飾るかのような、魔女が杖をひと振りするかのような、煌びやかで意外と繊細なトリッキーさで、来栖春のそれはどちらかというと、狭い殺風景な部屋でテーブルだけ挟んで相手と面と向かって、はじめまして、今日はいいお天気ですね、それではよろしくお願いしますと頭を下げ合うところから延々、延々とふたりきりで会話を続けるような奇異さがあるという、決定的な違いはあったが――プログラマーというのは各々にやりかたがある。ほんとうに。それぞれなのだ。まだ習いたての、たとえるならば単語も覚束ないような初学者のレベルさえ脱却してしまえば、……他人が口を出すようなところでは、ない。


 ……事件が、もし無事に終わったら。

 勤めている大学の学生たちに、そう教えてやろうと思った――プログラマーはほんとうにひとそれぞれなんですよ。――たとえばね、僕の知っているプログラマーも、ほんとうにいろんなタイプがいてですね……などと。

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