理系、全滅の日は近く

 それまで話の流れを見ているだけだった他の専門家のふたりが、おずおずと言い出す。


「応用数学も事情は同じです」

「純粋数学も……」

「んで、だれだ、おめえらは」

「あっ、失礼いたしました。私、応用数学が専門の、大屋おおやてるると申します。こっちは」

「……植木うえきです」

「植木あえるくんです。私たちの生まれた年、流行ってたらしいんですよね、名前に『る』を使うのって」

「下の名前まで、言わないでって、大屋さん」


 あっけらかんと言う大屋てるるは、肩につかない程度の髪をぴょこんと木の芽のように耳の下で結んだ活発そうな女性。下の名前を紹介されて恥ずかしそうな植木あえるは、中性的ではあるが男性だと思われた。髪は耳の上でこざっぱりと切りそろえ、おとなしそうな印象がある。

 どちらも揃いの白衣を着ていた。


 ふたりとも若く見えるが、理の世代より少し年上なのかもしれない。始まりは寧寧々の少し上の世代から、収束していくのは寿仁亜の世代まで、やたらに個性的な名前が流行った。個性的な、と言えばまだ聞こえはいいが、要は奇天烈な名前だと銀次郎は思う――銀次郎自身は個性的な名前が出始めたころの生まれだったが、幸か不幸か親が大変オールディな人間たちだったので、流行りに合わせた名前をつけられずに済んだ。

 銀次郎、という名を気に入っているかと言えば、それは別問題だが。


 活発な笑顔のまま、てるるは可那利亜のほうを見る。ぴょこん、と木の芽のような髪の毛が揺れた。


「可那利亜さんが、植木くんを呼んでくれたんですよね」

「ええ、そうよ。まさか来てくれるとは思わなかったけれど」

「植木くん、奥手ですもんね。まさか地下街で遊んでいるなんて意外でした……」

「そ、それは、だから、先輩に付き合わされたんだって、言ったでしょう」


 てるるとあえるは、なんだかやで親しい知人同士といった印象を受ける。


「あっ、それですみません、本題に戻りますね。私の専門は応用数学で、植木くんの専門は純粋数学なのですが――山月くんの言っていた事情と、こっちも同じです。応用数学の専門家たちはいまみんな、座標軸の演算に夢中ですよ。当分だれも、座標軸の深い深あい奥深い世界から、出てこられなさそうです」

「純粋数学は今回、そこまで公園事件に駆り出されてはいなかったはずなんですけど……座標軸の演算の公式を見つけたのが、こっちの専門家でしたから。興味を持っている専門家も多くて、少しずつ関わり始めていて」

「みんながみんな、本当にそうかもわからない仮説の研究に夢中になっている、しかも万一人的被害があれば学問自体の存続が危ぶまれるのに――っていうのが、応用数学はもちろん純粋数学もおんなじらしいんですね。それで、私は植木くんといっしょにあっちのチームを抜け出してきたんです、山月くんとおなじでこのままじゃマズいと思って。まさか、植木くんにこんな素晴らしいコネクションがあるなんて、感動しましたよ」

「応用数学のチームに大屋さんがいてくれて、よかったよ……」

「私たち、大学の同級生なんです。当時そんなに親しかったわけじゃないんですけどね」


 てるるは、屈託ない笑顔を見せた。


「でも、思った以上に他の分野の専門家たちも夢中になってて、びっくりしましたよ。物理学も応用数学も、純粋数学まで巻き込まれ始めて……理系、半分くらいは全滅してるんじゃないですか?」


 半分くらいは全滅、という言葉の文法的厳密さはさておいて、若き応用数学者の言わんとすることは銀次郎にも、この場にいる全員にもよく伝わった。

 可那利亜が、くすっと笑う。


「このままじゃ、生物学や化学の専門家まで動き出しそうよね?」

「あながち笑えん冗談かもしれないぞ……物理学や数学が思ったより解決に向けた成果を出していないせいで、生物学者たちも確かに、騒ぎ始めてるんだ。……これは生物学で解決ができるんじゃないかと。私からすれば生物学で解決できるなんていったいなにを言っているのやら、って感じなんだがね――」

「化学もまあ似たり寄ったり。薬学もね」

「まあこれで解決すれば手柄も貰えるしなあ」


 社会評価も上がるのは、間違いない。

 人命を、助ければ助けたぶん――自身の評価は、上がっていくのだ。

 あわよくば、と思って参入してくる学問があっても、そうおかしなことではない。


「そうなれば本当に、理系、全滅の日も近いわね」


 くすりと、可那利亜は笑って言ったが――それは本当に、単なる冗談というわけでもなかったのだ。……実際、プログラミング界隈もだいぶ駆り出されている。


 このままでは――現在の社会を実質的に支えている理系分野の専門家たちが、各々の専門性の実験や演算に夢中になって、溺れて、結果戦力を削がれて、……時ばかりが経っていく。

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