六日目、某所

問題なんて、なにもないから

「……所長?」


 怪訝そうな声に、彼は振り返った。ああ現実のことを忘れていた、とでもいうかのように。きさくに見える笑顔で、なんだ、と返した。


「いえ、なにか考え込まれているように見えたので……問題でもありましたでしょうか」

「いや、問題ない。今日も水はきれいだ……」


 浄水所エリアの水が。

 きらきら、きらきらと。青空そのものの色で、光りかがやいている。

 水の匂いが、ここには満ちている。

 薬品の匂いなのかもしれない――しかしそれ以上に、水そのものに匂いがあると、彼はずっとそう感じて信じて生き続けてきた。



 彼は帽子を被りなおす。

 高柱第四環境循環研究所の研究員であればだれしもが被る、透き通った水色の帽子。そしてだれしもが着る、ネクタイが見えるようにデザインされた白衣。

 彼は、若くしてこの研究所の所長になった。タイミングと運がよかったことを差し引いて考えても、異例の抜擢といえる。国立学府出身ということもあるが、しかし国立学府を出ただけで所長になれるという単純な話でもない。


 彼は平の研究員と同じ格好をしている。いま、後ろに控えているような。

 所長権限で自分だけがもっと特別な格好をすることもできるのだろう。実際、第一環境循環研究所の所長や第三環境循環研究所の所長などはそのようにしている。だが彼はそうしたいとは思わなかった。微塵も。居心地が悪かった――ただでさえ、自分がそれなりに優遇され尊重される社会的地位、社会的立場にあることに違和感があるのに。

 もちろん、そこを目指してきた。

 血のにじむような努力を繰り返して、自分自身の能力を最大限に用いて、だからいまの自分の地位と立場がある――そのことにプライドもあった。だからこそ、……いつまでも、いつまでも、ふわふわと夢を見ているように実感がないのだった。



 目の前に広がるのは、旧時代から存在している浄水所をそのまま再利用した研究エリア。

 まるで田んぼのように区切られた長方形の区画に、青空をそのまま映したかのような鮮やかな青色をたたえる水がたっぷりと満たされ、ただ静かに、……静かに、彼の心をなんら乱すことなくそこにある。いつも、……いつもだ。


 水は好きだ。浄水も。たしかに、化学が得意だったから選んだ道ではあった。だがそのなかでも循環環境分野、とりわけ浄化的アプローチを専門にしてよかったと思う。人が利用して汚れた環境に手を加えてきれいにすることで、また使える状態に戻す――いつまでも続く途方もない作業だが、同時に、自分の手で環境をきれいにしているという実感が持てた。

 ……自分自身の手が、もう汚くないように思えた。



 彼はそばに控える研究員に声をかけた。


「いったん、戻ろうか。お昼休憩にしよう」

「水質チェックはもう、いいのですか。採取や計算は……」

「今日は晴れてるよなあ。そんな空とおんなじ色。問題があるわけないと、思わないか。もし問題があるならそれはうちの水じゃない。空のほうだ」


 ちょっとめちゃくちゃなことを言って肩をすくめると、しかし研究員は笑った――彼は、ここでは慕われている。


「……それも、そうですね。水は濁っていれば空の色も映さなくなりますからね」

「このところ、水質チェックを厳密にやり過ぎたと思っていてね。みんなも根を詰め過ぎては疲れてしまう」


 そう言いながら、しかし、それは本音ではなかった。休みたいのは、どちらかというと自分だった。

 ……ちょっと、ここ数日、いろいろありすぎる。

 仕事で、ではない。水は一昨日も昨日も今日もきれいだ。彼の導入した新しい浄化システムによって、確実に浄化されている。だから明日も明後日もその後もずっときれいだろう。彼がやるべき仕事は、それらの浄化システムが問題なく動き続けているか注意深く監視することと、よりよい浄化システムを研究員と共に開発することだ。彼にとっては、どちらもそう難しい仕事ではなかった。


「行こう。一斉にお昼休憩のアナウンスを出すんだ。そうだな、久々に出前でも取るか……希望者を募ろう」


 彼が歩き出すと、研究員が後に続く。信頼しきったようすで、研究員は彼に話しかけた。


「所長って、ほんとうにお優しいですよね」

「……優しい? 俺が?」


 口元が歪みそうになるのを堪えた――いままでだって、ずっと、ずっとこうしてきた。だからやっぱり、そう難しいことではなかった。


「はい。僕たち研究員や職員のことを、いつも思いやってくださって。やりがいのある仕事をくださって。でも無理はさせないで。……所長の取る出前、研究員のあいだでもほんと評判いいんです。あ、誤解しないでくださいね、べつに飯につられてるってわけじゃないんですよ? ただ僕たち研究員は浄水という魅力だけではなく所長のお人柄にもつられて――」


 たしかに。

 たしかに、彼が所長になってから、高柱第四環境循環研究所に応募してくる人間が増えた。みな優秀だ。そして彼は、応募してきた人間が最低基準を満たしてさえいれば、基本的に採用するようにしている。最初こそ、人材費がかさむ、と上から怒られたが――それもいっときのことだった。……高柱第四環境循環研究所は、すぐに成果を上げはじめたからだ。


 でも、そんなのは。

 ……どうでもいい。ほんとうは。

 他人になにを求められているか、いつもわかる。だから婚約者――元婚約者が自分になにを求めているかも、その家庭がなにを自分に求めているかも、わかった。

 処世術だ、ただの。

 独りぼっちで生きるしかなかった自分自身の――。


「……それもこれも、俺がみんなに感謝しているからだよ」


 求められている言葉を言うと、にこり、と研究員は嬉しそうに笑った。




 仕事中にはもちろんだれにも言わないし、仕事中にそうすることも、けっしてないが。帰宅したあと、プライベートの時間では、いつもいつも。

 ……酒の量が、増えている。煙草の量も。

 いけないと、わかりつつも――あの時代に、戻りつつある。自分自身の、心が。小さなちゃぶ台しかない世界に戻りつつある。……そして、そこに、彼女はいない。



 幸奈は、もういない。



 あんなにも疎ましかった婚約者。消えてくれてよかった、と心底思った。そしてそれはいまでも変わらない。だが消えた。ほんとうに消えた。そうしたら――彼のなかでも、彼女はすべて消えた。どこかにいってしまった。

 現在、だけではない。過去を思い返しても。アパートの一室にも、幼いころから共に通い続けたどの学校にも。彼女はもういない。現在で、消えてしまえば――その存在はすべて消えるのかもしれない。……馬鹿らしいとわかっていても、そう思う。



 自分だけがまだあの家に――南美川家に、とらわれ続けている。




 研究員と職員の控え室に戻ると、壁に垂れ下がったプロジェクタースクリーンでニュースが流れていた。数人の研究員が、昼食をとりながらニュースを眺めている。



 とある国立公園の前。紫色や水色の複雑な波形を見せる、虚無、という状態になった公園の入り口の前で、リポーターが真剣なようすで話している。


「海沿いにある国立公園の時空消失事件、通称、公園事件ですが、いまだなんらの進展を見せておりません。ただ虚無が広がるばかりです。いったいこれは何を意味しているのでしょうか。思い当たる各分野の専門家を総動員しても解決しない難事件。おそらくは物理次元的事故として、公的機関と連携の上、物理学者のチームが集中して調査に当たっていますが……」


 ――公園ごと消失してしまった家族や友人をもつひとびとが、警備員たちの持つ立ち入り禁止テープの前で、ピクニック用のシートなんかを敷いてぐったりと疲れきったようすで座り込んでいる。




 ……このニュースに触れるだけで、うんざりする。いや。もっと、もっと深い、根底のところで、……根本的な、疲労を感じる。

 だが彼のプライドは、彼がその感情を外に出すことを、許しはしない。


 彼のうしろからついてきた研究員は洗い場で手を洗いながら、不思議ですよねえこの事件、と言った。


「僕、化学畑の人間のくせに物理にもけっこう興味があるんで、この事件に関してもいろいろ情報集めてるんですけど。ほんとうに、なんなんだかわかりませんよねえ、この事件」

「ですよね! いまちょうどわからないなーってみんなで話していて」


 先に控え室にいた研究員がそう言って、もともと部屋にいたメンバーとあとから来たメンバーの雑談は、こうやって、今日もとけあっていく。……なにも問題はない。



「ねえ、ほんと謎ですよねこの事件、峰岸所長」



 だから、彼は、笑った。ほんとだよな、と爽やかにさえ見える笑顔で。



 問題なんて、なにもないから。

 そう、なにも問題はないのだから――ただ、自分自身が問題がないと思っていれば、ほんとうに、なんにも、問題はないのだ。……ただ目をつぶれ、耳をふさげ、沈黙しろ、……存在しない人間とおなじになれ。ただただ――そうでなければ、無事で済むわけがないじゃないか。……あの家と、あのふたごに、逆らってはいけない。そのことを骨の髄まで――峰岸狩理は、刻みつけられていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る