試験、開始

『……そうか。まあ、覚えるってんならよ、これ全部一字一句間違えず覚えて試験で一字一句間違えず書けるんなら、それでいいからよ。まあ、せいぜい頑張れよ』


 銀次郎は、彼が練習に使っていたペーパーを差し出した。だが彼は受け取らなかった。銀次郎はおおげさにため息を吐いて、身じろぎもしない彼のテーブルにペーパーを置いた。

 蝉が鳴き続けている。

 教壇に戻ろうとした銀次郎に――彼は、小声でなにかを言った。


『あ? あんだよ、聞こえねえんだよ』

『……ありがとう、ございます』


 いったい、何に対する感謝の言葉だ。

 銀次郎は戸惑ったが、その戸惑いを言葉にする前に。



 意外なことに彼は今度はみずから顔を上げた――しかしその表情は、純粋な感謝とはかけ離れたものだった。その瞳は諦めのような哀しさのような悔しさのような、よくわからない感情を映して濁っていた。媚びている、ということはすくなくともわかった――感謝ではなく、これではまるで、……命乞いだ。



 ついさっきペーパーを奪われたときには、脅えるようでいて抗議するように、奇妙に、あんなにも目をぎらつかせていたのに――銀次郎は両手で髪をぐしゃぐしゃにした。不気味なやつだ、と思った。


『感謝されること、なんもやってねーだろ』


 言葉の表面だけを捉えて、そう返すのが精一杯だった。

 自分の違和感をうまく自覚することができなくて、気持ちが悪かった。

 蝉の鳴き声すらも、……うっとうしい、と感じた。




 真夏の季節に、新時代情報大学の前期試験期間はある。



 Necoプログラミング入門は、前期開講の授業だ。後期からはいよいよNecoを学生たちが自分で動かせるようになるために、「Necoプログラミング基礎演習」という授業に入る。

 基礎演習は銀次郎の担当ではないが、カリキュラム的にはNecoプログラミング入門を合格した学生たちが後期にそのまま流れていく、いわば続きのような授業だ。その関係で、後期のNecoプログラミング基礎演習のコマは毎年、前期の銀次郎のNecoプログラミング入門に合わせるかたちで組まれていた。

 Necoプログラミング入門はもう長く銀次郎の担当だ。その銀次郎がどんどん優秀性を高めていったことに関係するのだろうか、基礎演習は気がついたら、今後優秀になっていく見込みの、比較的若手のNeco専門家が担当するようになっていた。彼らにとっては、Necoプログラミング基礎演習を任されるというのはひとつの登竜門みたいなものだ。

 そんな彼らの多くが言う――冴木先生が入門で学生たちにNecoプログラミングの精神を教えてくださっているおかげで、学生たちは無駄なことをしないし、効率を重視するし、何よりお互いに助けあって情報を活用してますよ。ほんとうに助かります、と。

 まあ彼らは若手であるし、超優秀な俺におべっかでも言っているんだろうな――あるときまで銀次郎はそう思っていたのだが、素子がもろもろ極秘で調査したところ、そうでもないらしいということがわかった。つまりたいていの場合、彼らは心の底からそう思い、銀次郎にそう伝えている、ということだ。


 銀次郎の意図は成功し、学生たちは能力を身につけている――最初はなるべく楽をしたくて考え出したNecoプログラミング入門の授業構成だったが、案外いけんじゃねえか、と銀次郎は思うようになっていた。


 つまりはNecoプログラミング入門とNecoプログラミング基礎演習は別の授業である――実質的にひと続きという年間の構成にはなっていても、担当者も違うし、評価基準も違うだろう。なによりも、Necoプログラミング入門はNecoプログラミング入門としての単位を与えるのだ。Necoプログラミング基礎演習とは独立している。



 Necoプログラミング入門が合格であるか不合格であるかは、この前期で完結するのだ。

 すでに合格した学生たちは、ともかく――試験を受けて、……本気でそれで受かるつもりであれば、最終試験にすべてが、かかっている。



 受験者は、五名だった。

 大講堂でまったく顔を見なかった学生も混ざっている。試験だけを受けに来たのだろう。いちおうは最後まで出席していた学生もいたが、授業中いつもぼーっとしていた印象しかない。

 みな、受かるはずがない。いや、むしろそれが普通だ。毎年、そうであるはずだった。

 だが黒ずくめの学生は、あるいは――。


 試験開始時間は、午前十時ぴったり。

 授業コマとは対応していない。想定された課題つまりNecoプログラムのサンプルをすべて書き写すならば、推定六時間かかる。その時間を確保するために、例外的に、Necoプログラミング入門の試験時間は別に設けてあるのだった。


 試験用紙は、名前欄以外は真っ白なだけのペーパー。

 すでに名前と学生IDは記入させている。

 銀次郎は腕時計を見た。


『試験、はじめ』


 他の受講生がぼんやりと真っ白なペーパーを見下ろすなか、黒ずくめの学生はアナログペンを手にとって――猛然といえるほどすさまじい勢いで、しかしあくまでも物理的には静かに、筆記を始めた。

 蝉の鳴き声と、彼の書きしるすペンの音だけが銀次郎の耳に届く。


 銀次郎は腕時計の上部についたボタンを押すと、この授業ではいままで一切使わなかったデジタル黒板に、試験時間と退室可能時刻の情報を映し出した。

 試験開始時刻、午前十時。

 退室可能時刻、試験開始後一秒より――つまりいつでも退室してよい。

 試験終了時刻、午後四時。



 窓際、大講堂の前方の壁にもたれかかり、銀次郎は腕組みをして彼を見ていた。


 試験監督中は試験監督だけに集中するべきとされていた旧時代でもない、試験監督中には教員は別の作業をしていたっていい。なんなら別の教員や職員に試験監督の仕事を振ってもいいのだ。そちらのほうが合理的だ――銀次郎は新時代情報大学においては、一、二を争う超優秀者なのだから。

 だが、銀次郎はNecoプログラミング入門の試験監督を毎年自分でやっていた。普段ならば三十分もしないで終わる仕事だ。素子ならば他の教員や職員との調整も難なく行ってくれるが、結局そうなると素子の仕事が増えて、もっと優先してやってほしい仕事が滞る。当然、そのぶんの見返りも頼んだ相手に与えなければいけない。

 トータルで見ると、若干だが、他の教員や職員に頼む手間やコストのほうが上回るのだ。それにまあ、試験監督中の時間は自分の研究にあてられる。そう考えれば天秤はあきらかに自分で試験監督をするほうに傾いた。


 だから、そうせねばいけなくて、そうしていたのではない――彼を観察することは。むしろ合理的に効率的に考えるならば、いまは自分の仕事を進めるべき時間だ。それなのになぜ、前日に本日ぶんの仕事を調整してまで時間をつくり出して、こうしてひとりの優秀でもなさそうな学生を眺めているのか、自分でも、……不合理で非効率的で、よくわからなかった。



 五分すると、学生がひとり荷物をまとめて席を立った。銀次郎は窓際から教壇に移る。

 差し出されたペーパーは、まったくの白紙。銀次郎とその学生は顔を合わせることもなく言葉を交わすこともなく、ただ不合格の学生がひとりできあがって大講堂から出て行って、それだけだ。

 その学生につられるのかのように、二人め、三人めの学生が出て行った。やはりペーパーは白紙だった。

 もう十五分ほど、最後まで出席していた学生は試験に取り組んでいた。例年であればもっとも我慢強い学生ということになる――もっとも、不合格は当然不合格であるが。しかしその学生もやがて荷物をまとめて席を立つと、押しつけるかのような乱暴な動きでペーパーを提出した。いちおうペーパーの半分は埋まっていたが、正しいのは最初の二行半までだ。ほかは記憶というか何というか、めちゃくちゃで――まあそれでもこいつは粘ったな、と銀次郎は思った。だからといって、情報を活用できないその能力の低さがカバーできるわけではない。

 不合格であるが、毎年こうして最後まで粘る学生というのがいて、そういう学生に対して銀次郎は単純にああ粘ったな、と思うだけなのだ。たとえば、最後まで生き残って鳴く蝉がいて、粘ったな、と生物としての上から目線で思うかのように。ただ、それだけの話だ。



 そう。例年通りならば、そうだった。

 これで、終わりだった。



 彼は、来栖春は――アナログペンを、動かし続けている。

 最初から変わらない勢いと、静けさで。

 蝉が鳴く。

 ミーンミンミン、ショワショワショワ、と。気が遠くなりそうなほどに、一斉に、真夏を覆い尽くしてしまうかのように、鳴いている。

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