本気で
Necoプログラミング入門も十回を超えてくれば、銀次郎はそこにいる学生たちやその結果にほとんど興味はなくなる。
王は出ないし、王たちほどではなくとも優秀な学生はすでにみな合格して消えた。
銀次郎の意図したことを何も理解できないか何も実行できないか、そんな学生たちに興味を抱くことは難しかった。でもこの授業はそれでいいのだ。だからこそ、夏と呼べる時期にはすくなくともこの授業に関してはもう、仕事らしい仕事もなく、自分の研究やほかの仕事に時間をあてることができるのだから。
蝉が、すこしずつ鳴きはじめた。
この大学の蝉はそういえば、天然の生物としての蝉なのか、人工の機械蝉なのか――毎年この季節になると一瞬気になるのだが、その思考も劣等者に対する思考のようにやっぱり泡で、いまだけ思ってもすぐに忘れてしまう。
もうほとんど、どうでもよかった。
この授業のことは。少なくない年度、こうなるのと同じように。
ほとんど、ただの作業時間と化していた。
ただ――銀次郎が春に目を留めたのも、同時に、このときだったのだ。
合格なく教室に残った学生は、春を含めてたったの四人。一人はスマホをいじるだけで、もう一人は爆睡、もう一人は呆けたように座ってたまにアナログペンを手にするだけというありさまだったが、春は、ようすが違った。
この段階にくれば、この授業の現時点で合格をもらっていない出席者はほぼ例外なく持ち込んだデバイスをいじるか寝てるかいちおう作業はするがまったく集中していないか、まあ、そうでなくてもそれらに準ずるようすであるか、いずれかなのに――春は、違った。
銀次郎はあるときふと気がついたのだ。きっかけは覚えていないほど些細なことだったが、とにかく、目を上げたのだ。蝉が鳴き出してうるさかったのかもしれないし、夏のはじめの陽射しが明るすぎてうっとうしかったのかもしれない。いずれにせよ、取るに足らないことだ。
そのときに、窓際にいる黒ずくめの学生に視線を留めた。
いくらエアコン完備だからといって、窓際は陽射しが入ってきて暑いだろう――それなのに首もとを完全に覆い、手首は長袖でほとんど隠している。しかも指だけの出る、アナログペンでの筆記にも対応しているタイプの手袋をしていた。下半身はどうやら長ズボン、その下はすぐに靴で、くるぶしすらも見えなかった。髪はやたらと長く伸ばしていて、それもまたうっとうしいと銀次郎は思った。
うつむいて、必死でアナログペンを動かしているようだが、それ以上のことはわからない。黒ずくめの全身やら髪やらで覆い隠されていて、それ以上のようすがうかがえないのだ。
ただ――作業に集中しているのは、たしかなようだった。この授業では、珍しい。
なんだ、ありゃあ。
口もとだけで小さくつぶやいて、銀次郎は立ち上がった。やっていた作業は雑務だったし、ちょうど区切りがついたのだ。ちょっと変な学生に事情聴取をするくらいの余裕はあった。
『おい、おまえ』
話しかけると、彼の肩はびくんと跳ねた。銀次郎にはおおげさに思えるほどに。
返答を待ったが、返ってこない。ただ握りしめたアナログペンももっと強く握ったのと、さらに深くうつむいて、身体を小刻みに動かしていることがわかっただけだ――まさか、震えているのか? 嘘だろう、と銀次郎は思った。
銀次郎はバンと片手を彼の隣の空いた机に置いた。
『おい、おい。話しかけてんだよ、俺が、おまえに。聞こえてんのか。返事くらいしろよ』
うつむいたまま、彼がなにか言った気がした。しかし、聞き取れない。
銀次郎はバンバンバンと煽るように机を叩いた。彼の身体はまたしてもびくりと跳ねた。しかし顔は上げない。
『うっとうしいな、面倒だな、なんだよおまえ、授業やってる教授に返事もできねえのか。単位なんざもういらねえってか』
『……す、すみ、……あの』
『だあら聞こえねえっつんだよ』
『……すみ、ません、先生、……ごめんなさい……』
うつむいたまま、肩を震わせたまま、彼はしかし言葉を発した。
銀次郎は腕を組む。
『あんだよ、しゃべれるんじゃねえか。聞こえてねーのかと思った』
『すみません……すみません……ごめんなさい……』
うつむいたまま、その学生は謝罪の言葉を繰り返す。
壊れた再生機のように。
こりゃ重症だな――銀次郎は呆れ果てた気持ちで思った。たしかに銀次郎はその超優秀性ゆえに学生にはあまり気を遣わず、当たりが強い。だが、話しかけただけでがくがくと震え、顔すらあげず、謝罪を繰り返す学生というのは、さすがに初めてだった。
Necoプログラミング入門すら突破できない学生のなかでも、こういうやつがとりわけ、劣等のなかの劣等にでもなるんかね。
強い感情もなく、銀次郎は思った――この学生への興味はほとんどなくしかけていたが、しかし、それでもまだ、気になることはあった。
『先生に向かって、顔すら合わせねえのかよ。ああ?』
『……ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、先生、顔、……顔は、駄目なんです、あの、……すみません、勘弁してくださいお願いします先生、お願いします……』
『だあらおめえは壊れた再生機なのかよっ。おいちょっと何やってんだおまえ見せろ』
銀次郎は、彼が筆箱やノートで隠した領域に手を伸ばすと、その領域の中心にあるアナログペーパーを無理やりひったくった――そこで初めて彼は顔をあげた。
口もとはほとんど首の服に覆われていて、見えなかった――だが鼻の上と目はかろうじて見えた。目もとも長すぎる前髪に覆われてはいたが、……その奥にある両目が、心底脅えたような光とともに、わずかであるが抗議するような光も宿していたのを、銀次郎は見た。
正直に認めると、少しだけ、驚いた。
どうしてだかは、自分でもわかりきらずに……なんて目で
しかし、そんな光は錯覚なのかもしれないとすぐに思い直すほど――その目はすぐに光を失ってさまよい、下を向き、……すみません、と銀次郎がなにも言っていないのにまたしても彼は言った。
返してください、とも彼は言わなかった。ただうつむいて、両手を膝の上に拳のかたちで置いて、従順な家畜のようにじっとしていた。
銀次郎は彼の目の前で、彼の作業していたアナログペーパーを読み込む。
それは銀次郎の配布したロストペーパーではなく、どこかの中流層向けのスーパーマーケットのチラシの裏で、そこにはびっしりと――銀次郎の指定した、Necoプログラムのサンプルが、細かすぎるほどの字で書かれているのだった。
銀次郎はしばらくそれを読み込んでいた。
それを書いた当の本人は、動かない。
蝉が鳴いている。
銀次郎は、やがて――ゆっくりと、彼を見下ろして問いかけた。
『……おい。なんで、俺の配布したロストペーパーを使わねえんだよ』
『あの、たくさんいただいたんですけど、……あの、それはもう、……その、……全部、使ってしまって』
『全部使ったのかあ?』
銀次郎の語調が強くなったのは、あくまでも驚きのせいだったのだが――この学生はまたしても、びくん、と肩を震わせた。
『あんだ、その使ったってーのは、楽しく折り紙でもしたのか』
『……いえ、……あの、……課題の、練習のために』
『あれを全部使って、まさか、足りねえってのか』
彼は、少しの間のあと――気まずそうにうなずいた。
蝉が鳴いている。
『……僕、あの、頭が、悪いんです。他のひと、だったら、その紙の量で、覚えられるんでしょう、……けど、……すみません、頭がほんとうに……悪いので……』
――こいつ。
まさか、本気で――俺の指定したあの無茶な量のNecoプログラムを覚えようとしているわけじゃあ、ねえよな。
銀次郎は、そう思って。
その学生は、うつむき続けて。
蝉が鳴き続けている。
銀次郎は、そのチラシの裏をあらためて見た――チラシを使うのすらもったいないと言わんばかりの細かい文字で、埋め尽くされている。手袋の先に少しだけ露出した指先は、鉛筆で真っ黒だ。しかも、いまどき珍しいペンだこができている。
銀次郎は、その学生、……来栖春を、見下ろしていた。
蝉の声が――やたらにうるさく感じる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます