ポジション国王、依城寿仁亜

 研究室のドアが、落ち着いた音とともに開いた。そこにいたのは、黒髪の短髪が爽やかな、三十代ほどの男性だった。顔は端正、身体は細すぎるというわけではなく、実は筋肉もしっかりつけているのだが、スリムに見えた。フォーマルなスーツをきっちりと着こなしている。ネクタイは上品なレッドの生地に、控えめなゴールドの刺繍。


 彼はみずから礼儀正しくドアを閉めると、これまた礼儀正しく、しかし深すぎないお辞儀を銀次郎に向かっておこなった。


「冴木先生、ご無沙汰しております。依城よりしろ寿仁亜じゅにあ、参りました」

「おう、依城。やっぱりおまえがいちばん乗りだったな」


 銀次郎はタイピングの手を止めずに言った。

 寿仁亜はその言葉に対して直接返事をせず、顔をあげた。

 その顔には深い泉のような微笑みがたたえられ、その身体はすっくとまっすぐ立っている。

 たとえば、この世のどんな立場、どんな身分の人間が話しかけようと、その慈悲に満ちたように見える顔で、しっかりと地に足をつけた佇まいで、穏やかに相手の望むように対応をしてくれるんじゃないか。そうとさえ思わせる立ちすがただった。


 寿仁亜は趣味のいい革靴で踏み出す。在学中から面識のある銀次郎の秘書、素子はもちろん、初対面のふたりの女性にも、気持ちのいい挨拶を欠かさずに。


 そして銀次郎のデスクにたどり着くと、しゃがみ込んだ。その仕立てのよいスーツの膝頭が、床に直接ついてしまうのもかまわずに。

 銀次郎がタイピングを続けているディスプレイを、寿仁亜も覗き込んだ。すこしのあいだ目で画面に表示された大量のNeco言語を追っていた寿仁亜だが、やがて、憂慮、という言葉がぴったりの表情を浮かべた。


「どうやら、先生。大変なことになってしまったようですね」

「まったくだよ。まさか異次元空間がNeco言語で記述できるとはな」


 銀次郎はさらっと言ったが、それはまだこの場のだれも、いや、それどころか社会のだれも知らないのではないかという情報だった――だが寿仁亜は驚かない。そういうことも、ありえるんじゃないかとわかるからだ。

 もちろんそれは、銀次郎も寿仁亜もともに、超高度なレベルのNeco言語を理解し、使いこなしているからに他ならない。


「僕も、驚きました」


 あくまで控えめに、寿仁亜は感想を口にする。

 そのうえで銀次郎がいまキーボードを叩いているのは、異次元空間の記述されたNecoプログラミングを解析し、変換し、実行に移すためのプログラムだ。こんなに短時間でここまで思いついて創れるプログラマーは、おそらく世界規模でもそういない。独創性の著しく高い銀次郎だからこそできる芸当だと、寿仁亜にはわかった。


「おい、依城、おまえにはこれを頼む」


 銀次郎は、デスクの上にあるペーパーを寿仁亜に向かって突き出すかのように差し出した。言葉数も少なく、慣れたようすだった。それだけで、銀次郎が寿仁亜のことをいかに信頼しているかということ、当たり前のように重要なことを任してくれているのだと寿仁亜にはわかり、ちょっと微笑みたい気分になるのだった。

 寿仁亜は立ち上がって、銀次郎の後ろで、そのペーパーに印字されたNeco言語を読みはじめた。素子が淹れるコーヒーの匂いはいつも落ち着く。ソファに座る関係者らしき女性ふたりは、そちらはそちらでなにか話し合いをしているようだ――。



 寿仁亜は、銀次郎の一番弟子だ。


 幼いころから優秀者の見込みが大きかった寿仁亜は、たぶん選ぼうと思えば進学先ももっと選べた。でも、たとえば国立学府や、そうでなくともそれに準ずるほど優秀な大学というのは、自分にとって不利益だと思った。

 専門性、というものへの情熱に自分が若干欠けることを、寿仁亜は早くに自覚していた。広く浅く学ぶのは好きだ。ものごとや世界を広く見渡して、あれこれ判断する。小学校、中学、高校と、たいていの科目は同級生よりよくできた。同級生に教えるのも好きだった。だが現代は教養などが必要とされる時代ではない。必要なのは、専門性一択だ。


 高校に入ると、進路に悩むようになった。自分の、広く浅く学びたいという好奇心のほうを優先するか。優秀性を選び、社会評価ポイントを少しでも多く稼ぐ道を選ぶか。

 もちろん、後者のほうが賢明だ。だがそれは、必然的に専門性をもつということを意味する。


 手当たり次第に大学のオープンキャンパスや説明会に行った。行った学校の数は、三ケタはくだらないだろう。そんななかに、新時代情報大学もあった。


 冴木銀次郎というNecoの専門家が体験授業をしていた。時間が合ったので、出席してみた。たいして期待はしていなかったのだが、なにやら光が出たりモニターを切り替えたりする針金のようなスティックを手に動きまわりながら、彼が言った言葉に、ふと、意識をもっていかれた。


『いいか。Necoを学ぶということは、世界を見下ろせるということなんだ』


 ――世界を、見下ろせる?

 このエリアでは、主流とはいえ。ただの、いちプログラミング言語が?


『Necoはなんでも記述できる! この宇宙の法則だって現代の社会だって果てはどうして人を好きになるかまで。すべてを記述し、解析し、変換し、実行する無限の可能性をもつ』


 うさんくさい、とまでそのときは思った。おおげさに過ぎないか、と。

 だが、寿仁亜は、銀次郎の授業から目が耳が離せなくなっていた。いつのまにか、こんなにも引き込まれていた。


『Necoはすべてのことに対応できるんだ――』


 その言葉が、決め手となった。


 ああ、それは、つまり。

 ……Necoはすべてのことを俯瞰できるのかもしれない、と。すくなくともこの教授は、そうだ、と信じて、次々に紹介されるNecoを応用した技術について、受験生候補たちに向かってこんなにも熱く紹介しているのだから。


 その後、寿仁亜は高校時代の残りの時間をかけて、自分自身の気持ちを振り返った。

 自分は、広く浅くやりたかったわけではないのかもしれない。広い、という点は合っている。しかし、広く浅く教養を身につけたいという想いは、たぶん、垂直ではなく水平に学びたいという気持ちがあらわれていただけだったのだ。

 そう、水平に、ひろくひろく――かつては真っ平らだと信じられていた大地のごとく、ひろく、ひろく、……俯瞰するように、学んでみたい。


 そうして。いまどき流行らないかも、しれないけれども。

 俯瞰ができる者だからこそ、できること。そういう者ではないと、できないことを。成し遂げてみたい。この、優秀性という上下ばかりが気にされる社会において――。


 水平的な学び。

 それは、寿仁亜が自分で発見した、自分のしたい学びを的確に表現する言葉だった。


 新時代情報大学に入ったからって、そういった学びができる確証はなかった。冴木銀次郎は人気で、ゼミに入るのもひどく大変らしい。それに、かりに冴木銀次郎のゼミに入れたとしても、そもそも彼はべつに寿仁亜が受け取ったような意味で説明をしていなかったのかもしれないし、考えてもいなかったかもしれない。

 それでも寿仁亜はよかった。考えれば考えるほど、Necoという分野は、水平的な学びにふさわしいと思えてきた。

 高校の教師や家族からは反対された。最低限でも準国立学府レベルのところ、あわよくば、国立学府に進むものと思っていたらしいから。だが、寿仁亜の意思は変わらなかった。生まれてはじめて、父親と倫理的にアウトすれすれの殴り合いの喧嘩をしても、それはむしろ決心を固めるのに役立ってくれた。



 ……そして、それなりの年月が経って、いま。

 在学中に冴木銀次郎ゼミに入り、彼のはじめての弟子として本人に認められた寿仁亜は、銀次郎に紹介された近所の大学で教員をやっている。

 その大学というのがわりあい大きなところで、優秀者がごろごろといて、競争も激しい。だがそんななかでも、寿仁亜はすでに准教授になっており、あとは教授になるのも時間の問題だった。寿仁亜の勤務年数からすると、非常にスピーディなステップアップといえた。

 寿仁亜は礼儀を忘れず、謙虚に、いつでも穏やかに振る舞う――そしてそれは偽りのすがたというわけでもなく、ほんとうに、彼のなかには感謝が満ち満ちているのだ。……たくさんの、いろんなひとたちがいるからこそ、この世界が成り立っている。そんな、寿仁亜にとっては当たり前のことが、アカデミックな世界で認められば認められるほど、なんだか身にしみてわかってきたのだ。


 そして、そんな生活のなかでも、こうしていまも銀次郎に呼び出されては彼のことを手伝ったりしている。銀次郎には大変な恩があるから、どんなに仕事が忙しいときでも、いついかなるときでも駆けつけることにしている。……他のメンバーもおなじことだ、と寿仁亜にはわかっている。


 だから。

 こうして呼び出されるのは、けっして珍しいことではなかった。

 しかし、受け取ったペーパーに書かれているNeco言語は、ちょっと、……異質だった。


「……ユニークな、書きかたですね」

「ユニーク。はっ。そうだな。よく言うなら、な」


 Necoプログラミングは自由なものだから、べつにどうやったっていい。だが、寿仁亜がいまでは学生たちに教える通り、一定のセオリーというものはある。このプログラミングはそういったものをほとんど無視している。けれども――なるほど、とたまに唸ってしまうほどの箇所があり、そして、けっしてこのプログラミングは間違いではなく、……動くだろうな、ということもわかるのだ。


「これは、先生。どういった事情で書かれたものですか」

「事情は、全員来てから説明するよ」

「ああ、今回はみなさん来られるのですね」


 全員、も、みなさん、も。ふたりとも、すっかり承知している。いつものメンバーだ。


「でも急ぎなんだ、だからとりあえず依城おまえには、そのプログラムの評価を頼みたい」

「わかりました」


 寿仁亜がペーパーから目をあげると、部屋の光を反射してその瞳は少し光った。

 ――プログラムの評価。

 それは、最終的に寿仁亜がもっとも得意とすることだった――彼の、いまではプロフェッショナルな分野ともいえる。


「それと暫定的な指揮もとってくれ。時間が惜しい」

「理解しております。そのように」



 ……そして、寿仁亜が評価のために春のつくったプログラムを読み込み、同時に、それぞれにどのように仕事を割り振っていくか、方向性を頭のなかで猛スピードで構築しているときに。

 次の到着者――ポジション、魔王が、きた。

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