コネクト

「おい。素子。キーボード」

「承知しましたー」


 画面を凝視したまま顔色が変わった銀次郎に、素子はサッとキーボードを差し出す。旧時代から存在しているようなかたちの、ごつくて、大きなキーボード。Necoプログラム専用のキーボードだった。

 銀次郎は、多くの業務をこのキーボードなしで行う。いまどき仮想タッチパネルシステムでたいがい困ることはないし、音声入力システムは高度で、モニターの前でただしゃべっていれば勝手に文章をつくりあげてくれる。


 だが、Necoに関係する業務だけは別だった。プログラムの原点はキーボードにあり。いつか自身の師匠に言われたことを銀次郎は心の礎として、現代ではプログラムくらいそんなごついキーボードに頼らなくても、なんならキーボードなんかなしでもできる、という周囲の批判に真っ向から反抗し、若いころからかたくなにキーボードでのNecoプログラミングを推し進めてきた。

 結果的には、いまや銀次郎はNecoプログラムの第一人者となり、横に並ぶ者はほとんどいない。キーボードでのNecoプログラミングの実効性も立証され、それがスタンダードとなる社会的な流れをつくったのも、銀次郎だ。


 とはいえ、いまの銀次郎は普段そこまで本気でプログラミングをするような機会もない――彼の日常の業務といえば、講義とそれに付随する採点、学会や研究会への参加、あとは彼がもっともくだらないと断ずる会議や雑務なのだし、彼の現在の探求心はNecoプログラムの創造性に向いている。空き時間を見つけては、このキーボードであれやこれやとNecoプログラムの可能性を探るが、既存のプログラムをキーボードで入力するという機会など、銀次郎にはもうほとんど存在しないし、必要のないものだった。そういうのはすべて通り抜けてきたのだ。



 しかし、いまは――。



 銀次郎の指が、手のひらや腕、果ては肩ごと、それじたいで意思をもって独立した生きもののように動きまわる。忙しなくという表現が無粋であるほど、その動きは洗練されていて、華麗とさえいえた。ピアノの熟練者に似ている――実際、Necoプログラムの熟練者である彼は、いまキーボードという鍵盤を叩いている。これまでの生涯で習得した、その非常に高度な技術をもってして。


 キーボードの紡ぐタイプ音がかろやかに銀次郎の研究室に響く。

 テレビはつけっぱなしだ。リアルタイムの情報がほしい。そちらの映像には、いまだ動きはない。


「素子、音声入力システムをオンにしてくれ。精度は最大で」

「かしこまりましたー」


 冴木銀次郎研究室の音声入力システムがオンになる。これで、指ではプログラミングをしながら、声での音声入力と、入力内容のモニターへのテキスト変換が可能になる。

 紡がれ続けるタイプ音に重ねて、銀次郎は音声入力を開始する。


「来栖。冴木だ。コネクトは受信した。いまどうやってアクセスしている?」


 しかし、返信はない。

 銀次郎は舌打ちをした。


「ちくしょう、一方通行か」


 一方的に。

 次々に、メッセージは表示される。


『このプログラムは、口頭で構築しています。現在、僕のところに、キーボードやパソコンなどのプログラム構築環境は、ありません。ですので、音声入力でこのプログラムをつくりました。ここからは、プログラムの基本情報について、説明申し上げたほうがいいかなと思うので、そのようにします』


 口頭? と、銀次郎はすっとんきょうな声を出した。

 たしかに、理論上、音声入力でのNecoプログラミングは可能だ。だがそれはあくまでも理論上、の話であって。そんな滅茶苦茶なことをするやつは、初めて見た――そう思ったのだ。


 相手は加えてメッセージを送ってくる。


『先生が、Necoプログラミングは、文字入力だけではなく音声入力でも理論上可能、と教えてくださったので、活用してみました』

「理論上はよ。理論上は可能だよ。本気でやってるバカは初めて見たよ」


 普段の他愛もない会話みたいな雰囲気。

 しかし――銀次郎は、タイピングをする手だけは止めなかった。


『文字変換は、モールシング変換を使いました。ですので、口頭でしゃべっていても、うまくいっていれば、文章がつくれているはずかと思います』

「なんだってそんなオールディな変換方法を……って、そうか。口頭でプログラミングしてるからか。それ以外、方法が思いつかなかったのか」


 モールシング変換とは、いくつかのNecoプログラミングの言語の文字を、自分で決めた一定の法則に従って並べて、そのエリアのローカル言語を表現するという、古典的で、ごくシンプルな文字表示の理論だ。文字を置く法則を自分で決めることができるゆえに最低限のセキュリティは確保され、どのようなローカル言語にも対応できるというメリットがあるが、一方でいくつかの言語の文字をひと単位としてまとめなければいけないデータ使用上のわずらわしさや、単に文字を表示するだけのためにあまりにも時間がかかりすぎることから、いまではあまり使われていない。

 だが、パソコンもキーボードもない状態で、ローカル言語をNeco言語でどうにか表そうとすれば、たしかに、モールシング変換くらいしか方法がない――しかし、そうなると。銀次郎の頭には、次から次へと疑問が湧いてくる。こんな感覚は、ひさしぶりだった。


『漢字変換は先生のパソコンのシステムに任せました。パーソナリティ変数を入力すれば、先生のパソコンのほうで、勝手に漢字にしてくれるかもって思って、最悪ひらがなだけでもと思ったんですけど、もしこの文章がひらがなだけではなく、漢字でも表示されていたら、よかったと思います。もし、そうではなかったらすみません。ひらがなだけだと、先生に怒られてしまうかもと思いましたので。すみません』


 実際いま銀次郎のモニターには、ひらがなだけではなく漢字も使った、ナチュラルな日本語表現が表示されている。


 そこでパーソナリティ変数を使うのか。普通は、その変数は、そんな使いかたはしない。

 銀次郎は、そう思ってまたため息を吐きたくなった。在学中から、ほんとうに妙に独特なプログラミングをする学生だった――Necoプログラミングは自由とはいえ。

 しかし、来栖春のプログラムは、動くのだ。

 理論の段階では突拍子もないように思え、ときにはふざけているように思えるコードやモジュールさえ用いるが、実際に動かしてみると、たいていはみごとに動く――。


「来栖、おまえ、俺に怒られるとか怒られないとか、いっちょまえに気にしやがって。余裕があるのか、ないのか、どっちだよ。いったい、どういう状況だよ。だいたい、おまえ、わけわかんないよ。なんだよ、こんな一方的な通信を送ってきやがって。どういう理屈で動かしてるんだよ、この一方的なメッセージツールはよお――文字の表示方法もいい、漢字の変換方法もいい、もっと、……もっと教えやがれよ!」


 モニターに向ける銀次郎の、一見怒っているのではないかというくらい険しい視線と表情。

 もちろん、一方通行だから届きはしない。けれどもそれにしても、銀次郎が、他人になにか説明を求めるのは珍しい――とりわけNecoプログラミングにおいては。そのことをもっとも理解しているひとりである素子が、コトンとおかわりのブラックコーヒーを銀次郎のテーブルの邪魔にならなそうなところに置いた。

 こんどのブラックコーヒーは、特別に熱く入れられている。立ちのぼる湯気が、今夜は長いということを知らせていた。

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