猫よ(3) 明けない夜はないというけど

 ……ここまで、崇められる存在になりたかったのかな。

 現代社会をつくりあげた革命者、新時代をつくった天才、いまのすべての祖として――だれしもに讃えられる、そんな存在に、猫、アンタは、……なりたかったのかな。


 アンタの生涯はひととおりのところは知っている。

 それはもちろん、隠されているところもあるのだろうけれど、すくなくとも、その明るい面――社会のひとびとみんなに褒め称えられるようなそんなところならば、大人たちはなんどだって熱っぽく話す、語る、……たとえば歴史の授業は重視しないはずなのに、高柱猫の話だけは、教科にさえかかわらず話したい教師だって、たくさんいるのだから。



 ……高柱猫の、僕の知っている生涯。



 優秀者として、生まれた。

 心と身体の性別が異なった。……これは当たり前のことだけれど、現代ならばそう問題ではない。幼いころに検診で気がつけばそのまま身体の性別を変えることは容易だし、幼ければ幼いほど簡単ではあるが、たとえ成人してから気がついて、そうだと社会から認められたとしたって、さして問題ではない。ただ多少のコストが必要というだけだ。費用的にはたとえばそれは、平均的な高校生や大学生であれば、ひと月、いや数週間もアルバイト的奉仕活動をすれば賄える程度のもの。時間的には個人差があるが、短い人で三日程度の入院、普通は一週間程度の入院。まあつまりは、その程度のコスト。……でも高柱猫の時代にはそれは違ったんだよな。まだ技術が発展していなくて、心と身体の性別が異なったとしても、身体の性別をそう簡単に変えることはできなかった。……社会的に認められるなんて当たり前で簡単に思えることさえ、当時は当たり前ではなく簡単にはいかなかったのだという。

 そういうわけで高柱家の「娘」として育った彼は、弟や妹が多く、能力があるのに高校まではその能力を充分に発揮できる環境に、恵まれなかった。その優秀性を、認められずに。周囲の劣等者と、いっしょくたにされて。いまなら劣等者、すくなくとも偏差値五十未満の存在がやるような仕事も、やらざるをえなくって。高柱猫ともあろうものが、まるで劣等者のような生活をして、劣等者のように扱われて……このあたりの話をすると、急に涙ぐみはじめる大人にも、いままで何人か当たり前のように会ってきた。本気かよって、僕は、……思ったけれど。


 そんな彼が、能力を発揮する正当な機会にはじめて恵まれたのは、高校を卒業した直後、十八歳のときだ。正確には、彼はそれを知っていて、着々と準備を進めていたのだろうけれど。

 まだ世界は人工知能圏ではなく国という単位で基本的には区切られていて、だからこの地が「Neco人工知能圏」ではなく「日本」と正式に呼ばれていたころのことで、でも、それはもう終わりに近づいている時代。そんな時代に――当時の、現代から見るとまだ未熟ながらも、でもたしかに芽生えていた世界一致意識によって、世界立学府せかいりつがくふプロジェクトが、はじまって。……「日本」の最も優秀な大学と、それに準じて優秀とされるいくつかの大学あるいは関係機関は、その流れに乗って、寄り集まって、ひとつになって。「日本」における世界立学府、第一号――現代においても「優秀者のその」として第一に数えあげられる「国立学府」を、設立したのだった。


 国立学府は、旧時代の価値観をあまり受け継がなかった。つまり、学費だとか、出身高校だとか、そういうやりかたは捨てたのだ。

 当時は、社会評価ポイントよりはむしろ、金銭的な収入面のほうが生活や進路や行く先、実質的にもつ権利を、左右したのだという。いまでなら、それはすくなくとも第二あるいはそれ以下のことだ……社会評価ポイントがあってこその、金銭的収入なのだから。収入の数字だけあったってどうしようもない、そんなものは、その人間の優劣であっというまに当たり前に変動するのだから。

 でも当時は違った、まだそういう時代ではなかった。だから、貧しい家に生まれたというだけで、あんな飛びぬけた優秀者であった猫は、……いまであれば信じられないことだが、劣等者同然の生活、進路、行き先、実質的な権利しかもっていなかった。


 ……当時は、建前はともかく、あらゆる要因によって、けっきょくのところそういう環境にある人間は、選択肢が狭まった――もっと具体的にはっきりと言うならば、あんなに優秀であった高柱猫の、相応の進学先が、当時は、ほぼなかった、ということ、らしい。……ほんとうに、いまの感覚からすると信じられないことである、けれども。



『それは僕にとって福音だった』



 猫は、自伝のひとつで、……そう、語っていた。

 いつか、なにかで読んだ自伝。僕自身が、なんとはなしに印象深くて、覚えている、ところだけだろうけれど。ひきこもりの、こんなときに。なぜだか、鮮明に、……ほんとうにふしぎなことに、どうしてかこんなにはっきりと。まるでその声を聴くみたいに――その文章が、よみがえってくるのだ。



『国立学府は、優秀であればなんでもいいんだという。学費もすべて出してくれる。優秀になれば給料だってくれるんだって。信じられない嘘だろうって条件だったけど、本当なんだ。やった! 僕は当時の日記にそう書いた。日付といっしょに、やった! ってさ、でっけえ字で、手帳の開いたところに、殴り書きをしてあった。あの日は夜勤明けで糞上司にハラスメント受けて自分の女であるこの身体が憎い憎い憎い、そう言って深夜ずっとずっと自分をいつものように痛めつけるためだけに殴りつけてさ、そんで翌日の午前はあいつらの面倒見てそんでいつも通りあいつと怒鳴り合って、もう昼になってさ、いつものようにくだんねえ最悪、そんでヒラッヒラした女用の制服を着崩した遅い登校で知った。で、そんなときに、やった! なんざ殴り書いてんだから、本当に嬉しかったんだと思うよ。奨学金も支援制度もあんな糞家庭と糞環境じゃ現実的には無理無理無理。なんっもわかってねえ社会を救ってくれんのはグローバリゼーションなんだなとかさ、嘘だろ俺そんなこと思うのみたいなこと本心から思っちまったよ、笑える』


 ……ちょっと、なにを言っているか、僕には、わからないところもあるのだけれど。それは、……時代性というものだろう。

 でも、わかることならば、ある。

 猫は、たぶん、……自分のことが、あまり好きではなかった。

 そして、あまり、いい生活をしていなかった。


『僕みたいな底辺でも未来が開ける! そりゃあ嬉しいに決まってるよなあ』


 猫は、自分のことを、そう、……底辺、だと。



『だから、それは僕にとって福音だった。僕も生きてていいんだと、学んでいいんだと、底辺からあがいて、抜け出していいんだと。生まれて初めて他人から言ってもらえた気がしたんだよ。明けない夜はないというけど、』



 ……そう、猫は、そうだ、……そうやって、語る、自伝で、語っている。

 ……「明けない夜はないというけど、」



『僕にとって、明けた夜は初めてだった』



 アンタは――たしかに、語っている。




『でも、』


 ……「でも」。



『夜は、明けたと思ったら、また暮れた。一瞬で。それももっと酷い……僕は、もっと暗い暗闇の世界に突き落とされたんだ』



 ……猫。

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