高三のすがすがしい朝

 そして、僕はそのまま、進級する。

 ……それは、高校三年生のときの、非常によくある日常の風景。



 僕は生徒のだれより早く、登校する。教師たちや警備ロボットの管理人さんも、僕の事情はもう知っているから、こんなに極端に早く登校する僕に、いちいち驚いたりしない。ただ さわらぬ神にたたりなしとでもいった感じに、避けていく。……僕は自分が世界一劣等で孤独な神のなりそこないにでも、なった錯覚がしてくる。


 剃られた頭は、いつまでも伸びない。

 ちょっと伸びることも、あるような。いや。どうだっけか?

 ……もうそこらへんの選択も南美川さんに委ねてあるし、僕は、自分の頭ひとつのことさえ、わからない。……それは頭皮という表面のことだけではなく、僕の頭の中身のことも、かもしれない、なんて思ったらちょっとだけ心があたたまった気がして、微笑みがこぼれた。


 だれもいない廊下。だれもいない教室。

 ……ガラリとオールディなドアを開けて、教室のなかに入る。



 朝の光はまぶしくて明るい。

 もちろん、曇りの日や、雨の日も、あったはずなのだが――どうしてだろう。僕のいつもの朝はそうして、……決まって、晴れていたように、思うんだ。僕自身の心とはまるで対照的に――いやそのときの僕の心といったらもう、……ほとんど、壊れていたから、ある意味そうだな雲ひとつない青空といったって、……過言では、なかったのかもしれないけれど。

 すっからかんに、もうなにもない心。もうなにも、……感じてはいけない、感じた瞬間、壊れる、そんな心。


 荷物を、教室の後ろに置く。

 そこはもう僕の定位置。

 僕の机なんて上等なものは、もう、ない。三年になってもクラスのメンバーに人気で相変わらず担任をやってる和歌山による指示――それは表面的なもので、あくまで南美川さんたちが実質的に主導で片づけてしまった、……生徒としての僕のまっとうな席、思えば――あれはいつの季節だったろう。もう、季節の感覚だって、……壊れていて、わからなくなっている。

 そんなことを考えては、薄い笑みが浮かぶ。……このころの僕は自分自身が壊れていることをそうやってはっきり認識するときのみ、なんだろう、なんでなんだろうな、こうしてふっと、笑うことができた。気が緩むように、リラックスするみたいに。逆に言うとそれ以外のことでは、……ほとんど、もう感情なんて感じずに、ましてや笑うなんてこと、なくなっていたわけだけれど。



 自分が壊れているんだなとわかると、ちょっと安心するんだ。



 壊れている。そう。……だから。だいじょうぶだ。

 壊れているから、それじゃあなにがだいじょうぶ、だなんてこと、わからない。論理的にいやもっとシンプルなレベルで、考えてみたって、わからなかった。

 でも壊れているとだいじょうぶなのだ。

 壊れないより。壊れたほうが。……だいじょうぶになる。

 僕にとって、それは大きな発見といえた。



 壊れないから、つらくなるので。

 あるいは、壊れていくときが、いちばんつらいのかもしれない。

 壊れてしまえば。そう。こんな朝のすがすがしさも。光も。まぶしさも。明るさも。……感じることができるんじゃないか、こんなに。



 それはまるで朝にだれよりも早く教室に来て、花でも飾るような心境だった。

 じっさい僕は朝にだれよりも早く教室に来ているんだし、やっていることといえばクラスメイトという他人を喜ばせることだし。……あながち間違っているたとえでもないんじゃないかと思って、僕は、もういちど微笑んだ。



 僕は、そう、荷物を教室の後ろにそうやって置いて。……どうせろくに使いもしない勉強道具。せいぜいが、たわむれに、身体に、突っ込まれるだけの役割となってしまった、それら。

 ……あとは、鼻歌でも歌うような、軽い気持ちで。

 いつもの通り。服を自主的に脱ぎはじめる――。


 脱いだ服は、きちんと畳んで置いておく。この折りかたが下手だと、怒られてしまうからね。南美川さんに――仰ぎ見る、優秀者に。なにしろ優秀者の言うことは絶対だ。服もきれいに畳めないから僕は劣等者だと言われたら、その通りなんだよね。うんうん。だから僕は……おかげさまで、服を畳むのもうまくなったし、うん、うんうん、……いい教育ってものを、してもらったんじゃないか? なんて。


 そう思うことでいくぶん心が楽になってくるのを感じる。


 脱いでしまったら、あとは心を殺して待つだけ。

 地獄の一日を、もう慣れてしまった一日を。……すべての感覚を鈍らせることだって、慣れてしまえば簡単だ、ほら、……こんなに簡単に、できる。


 こんな簡単なことでどうして高校二年生のときは苦しんでいたんだろう。一種穏やかな気持ちで、僕はしみじみ、そう思った。



 心を殺してしまえば楽になれる。それだけの話だったのに。



 ……やがて、南美川さんが来る。

 南美川さんは、早く来る。

 僕を見つければ、僕の名前を呼ぶ。

 シュン、って。けっして、春、とは響かない。犬のような。……僕のその名前を。



「今日も気持ち悪いわね」



 そうですね。僕は、ひっそり微笑むようにそう思う――朝の光のすがすがしい、ああかくも、すべてを洗ってしまえるほど、すがすがしくって。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る