僕の感情よ

 這えば、どうにかなると思った。身体さえ、動かせば。そこにさえ、到達すれば。どうにか――。



「ちゃんと、くわえて持ってくるのよー」



 いちいち声をかけてくる、……うるさい。黙ってほしい。さっきから。僕に、こんなことをさせておいて。僕の人権を、尊厳を、……僕のことを、さんざん馬鹿にしておいて。まだ、言う。そんなことを。いや。きっとそんな人間なんだって、僕は理解しつつあるのだけれど――。


 赤いハイヒールは、もうすぐそこだ。

 這って、這って、目の前だ、……手をちょっと伸ばせば、手に取ることだってできるだろう。

 でも。そうではなく。口で、くわえてこいと。

 ……逆にいえば、それさえすれば、いまこの状況は、乗り越えられるということだ。



「シュン、遅いわよ。早く取ってきてよ、早く!」



 ――なにがおもしろくてそんなことをするんだか。

 劣等者が迷惑なのはわかる。僕だって、人間未満になるような、極端な劣等者は人並みに軽蔑しているさ。でも。……ちょっとの差なら、ほっとけばいいじゃないか。



 いや。でも。それはほんとうに、ちょっとの差、なのか――そんな思考を続ける代わりに僕は、そんな思考を振り払うようにして、……覚えてろよ、という思いをさらに固めて、そっと、そっと――そのハイヒールに、口を近づけた。



 ……ファーストキスとやらが、他人の脱ぎ飛ばしたハイヒールになるとは、思っていなかった。ファーストキスだなんて、べつにそもそも若者の戯言、どうでもいい、……どうでもいいのだけれども。



 あははっ、と南美川さんがひときわ大きく、笑った。ほかのクラスメイトたちも、もう、愉快そうな感じを隠さず、笑っていた。

 ……僕の顔は全身は、熱くなった。もちろん僕の意思とは反して。違う。これは。恥ずかしいのではない。覚えていろよという人間的意思のあらわれで――。


「はーい、じゃああとは、そのまま持ってくるのよー。最後まで、じょうずに、できるかしらー?」


 最後――そう。これで、最後。こんなことは、もちろん、……最後。



 僕は一気にハイヒールを口で挟むようにして持った――つまりは、くわえた。これで殴られたときはもっと硬いものだと思っていたのに、こうして口に含んでみると、意外なほどに柔らかい感触に、驚く。口で湿らすと、なんだか、ふにゃっとしてしまう……そのことで、……あのひとは、また、機嫌を損ねるんじゃないか、そんな妙な恐怖感が芽生えてきた。機嫌を損ねてはいけない。機嫌を損ねてはいけないんだ。ろくなことにならない。それは、僕が怖いからとかじゃなくて、違う、……違う、僕はほんとうは、あのひとのことを軽蔑しているから。

 そう。僕は、軽蔑しているんだ、いま。怒って、いるんだ。正当に。

 だから――だから、そう、当たり前のことだ。もうあのひとたちの、あのひとの機嫌を損ねたくない、と思うことは。

 ……だからなるべく、湿らせないように。元のままで。唇の乾いたところで、どうにか、くわえて――そう思うのにうまくいかない。落とさないようにと思って深くまでくわえればますます湿りそうだし、かといって浅くくわえすぎると――。




 ……ガツン、という音を立てて、ハイヒールは僕の口からあえなく落下した。

 クラスじゅうの、苦笑が、……僕に向けられる。



「ちょっとー、なにやってるのよー、シュン。おばかさんねー」



 僕は、すぐに。もういちどハイヒールをくわえて。

 南美川さんを、睨みあげた。……僕の気持ちがすこしでも伝わればいいって思って。

 だけれど、南美川さんは――ますます不敵に、笑うだけなのだ。



「なあに。くわえるだけじゃ、駄目なのよ? ちゃんと、わたしのところに、持ってくるのよ? ……劣等者は、犬ができることもできないの?」



 僕の感情など、なにひとつ、伝わらない――あのひとにはたぶん、そういうことが理解できないんだろう。だから。僕は。……粛々と、淡々と、いまやるべきことをこなすだけだ、わかっている、そう、わかっている、……だからどうか僕の感情よ、いまだけは静かでいて。

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