内心と、行動

 ――できない、そんなこと。



「人権侵害だ……」



 そうつぶやいた僕の言葉に、Necoが反応しない。つまりは、それが、答えだって、……頭では、わかっているけれど。



「早くやりなさいよ。できないの? だったらもっとひどい目に遭わせてやるんだから――」

「やる、……やるよっ、やりますからっ」


 冷静になれ僕。さっきと、おなじことだ。つまりは、……こうして這いつくばって、頭を下げたことと。あれだってただの動作だと思えばよかった。そうしたら、できた。

 そうだそこに深い意味はないと考えればいい。事故のようなものだ、単純に。運が悪くて、そういうことをしなくっちゃいけなくて――道ばたで汚いものを踏んでしまったものと、おなじ程度のことなんだ、って。

 たとえば体育のときとかも、ストレッチをするからといって、四つん這いになることはある。充分に、いつもありうる。


 ただ手を伸ばして、ついて、歩けばいい、体育のストレッチなんかとなんにも変わりはない、それで、ハイヒールを、そうだな、体育祭の古きよきパン食い競争みたいにくわえて、持っていけばいい、そうだ体育祭だ、借り物競争なんかと本質はなにも変わりはしないな――。


 だからそんなに深く考えなくていい。だから――自分自身の権利とか、プライドとか、……ある、あるよ、でもいまは無視するんだ、とにかく――いまさえ乗り切れば、なんとかなるんだから。

 ……僕が劣等者だなんて、なにかの、あるいはたったいちどの間違いだってことが証明できれば、こんな時間は、終わるんだから。だから、それまで――。



 ……僕は、正座したまま、教室の後ろを振り向いた。

 横たわる、南美川さんの赤いハイヒール――あの釘のようなヒールが、僕の身体をあんなに痛めつけたんだ。そう思うと、いますぐ、……へし折りたくなるけれど。僕がじっさいにいま、しなければいけないことは、意味としてはそれとまるで真逆の――。


 ……その思考を、慌てて振り払った。首を横に振ったから、すこし髪の毛先が揺れた。

 だから、そうやって、意味を考えてはいけない。

 意味なんか、ない。ましてや、価値なんて。

 これから僕がすることは――ただ、事故に等しいこと。

 この場をぶじに乗りきるための。なにかの手違いであることをいったん乗り越えるためだけの――。



「ねーえ、シュン!」



 南美川さんが苛立って叫ぶように言って、それだけで僕の肩はびくりと跳ねあがった。僕の、意思とは反して。

 早くしろ、という気持ちが、そのひとことだけに溢れていた。これ以上あの人間を怒らせてはいけない――直感的にそう思わせるためのなにかが、……迫力とでもいうべきものが、そこにはあった。

 南美川さん――南美川幸奈は、もともとそんな印象だっけか。

 うるさいギャルだな、とは思っていたけれど、……こんな怖い一面があっただなんて、僕は、知らなくて。



 たぶん、きっと――これ以上、あのひとを怒らせてはいけない。



 僕は、腕を伸ばした。

 おそるおそる、左手を、ついた。そのあとに、すこしためらって、右手をついて。……これだけでもう嫌になる、自分の存在というものすべてが嫌になる。四つん這いみたいな格好。でも、また、……続きがある。

 左手を、ひきずるように進めた。そのあと、右手も。……自然、下半身もその動きについてくる格好になる。下半身を、足をひきずって。僕はそのハイヒールを目指すことになる――南美川さんや、クラスメイトたちに、尻のほうを向けて。



 背後では。

 南美川さんがおかしそうに、きゃらきゃらと笑った。

 クラスメイトたちのからかいに歓談。もう取り返しがつかないレベルでおこなわれているらしい、このときの僕の撮影――。



 ……覚えてろよ、と思った。

 僕は、真っ赤だった。でもそれは、屈したからとか恥ずかしいとかではない、もちろん、……けっして。

 僕は、怒っているのだ。

 ゆるさない。こんなこと、ぜったいぜったいゆるさない、って思っているのだ。

 ……ゆるされるわけ、ない。そもそも。僕は、人間なのに。こんなことをして、あとで、後悔させてやる。不当に権利を行使したって僕は訴えてやるし、なんなら、おんなじようなことをさせて、復讐してやる。だから。それまで。覚えとけよ――。



 そう思いながら僕は進む、……進む、僕がじっさいやっていることといえば――四つん這いで、尻を向けて、……赤いハイヒールに向かって、這うように進んでいることだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る