偏差値、ゼロの可能性

 ――開けられない。

 試験結果の書かれたアナログペーパーが、まさか、この手で。


 片手に載せられるほど小さなそのアナログペーパーの表面おもてめんには、開封してください、という黒字の指示のみがある。一見すると一枚の紙にしか見えないのだけれど、この厚みからすると、紙が重なっているのかもしれない。

 だから、どこかをどうにかして、開けるのだ――そこまではわかっても、アナログペーパーに慣れていない僕にはそこからどうすればいいかさっぱり、わからなかった。


 嘘だろう、と思った。

 手がわずかだけれど、震えはじめる。嫌な汗も、滲みはじめる。

 ああ、この感じ。覚えがある。僕は、僕はこの嫌な感じをいままでだって経験してきたんだ。頼れない。思い通りにいかない。思い通りにいかなければ、僕はそのままだ。なにもできずに、朽ち果てていく――そんな漠然として、でも、背中に張りついて離れない、この、感じ。


 手を、ますます焦って動かす。けれども焦れば焦るほど、手つきはめちゃくちゃになり、ぎこちなさが目立つ。マズい。ほかのやつらはもう、とっくに結果を確認しているというのに。どうしよう。追いつかない。どうにかしなければいけないのに、どうにも――。



 僕はそこでたぶん、いちばんやってはいけないことをやってしまったんだと思う。

 顔を上げてしまったのだ。そして、あたりを見回してしまった。

 きょろきょろとして――そう、これはいちばんやってはいけないことだと悟ったのは、その声が、頭上から降ってきたから。



「ねえ、ねえねえ、早く開けてよ、それ」

「……うわっ」



 ――いつから、僕の後ろに立っていたんだ。



 僕は、振り向く。座った僕の後ろから覗き込むかたちでそこに立っていたのは、当然、南美川幸奈だ。

 腕を組んで、ニヤニヤして、なにが楽しいのか大層愉快そうに、そこにそびえ立つ巨大な壁のように、立っているのだ。


 南美川幸奈は、ひとを馬鹿にするような笑みを深めた。


「まさか、開けられないなんてこと、ないわよね?」

「……そんなこと」


 ない、とは言い切れなかった。だから語尾が中途半端に消えてしまった。しまった、こんなふうに答えるつもりではなかったのに、……こういう態度がたぶんいちばん、こういうやつの付け入る隙をつくるのだと、僕は、知っているはずなのに――。


「じゃあ、早く開けてよ」


 そんな、甘えたみたいな声で。そんなのは、……峰岸狩理にだけ、向けていればいいじゃないか。


「さっきからわたし、その結果が見たくてさあ、うずうずしてるのよねえ……」

「……個人情報は勝手に見ちゃいけないんじゃないのか」

「対等な立場ならね」



 睨みあげる僕。

 おかしくって堪らないとでもいうかのように、ますます口もとの笑みを深める南美川幸奈。



「対等だろ」



 僕は、かろうじて、それだけ言った。そう言ってしまうのが、このアナログペーパーに書かれた数字しだいでは、完全に墓穴を掘ることになるとわかっていても――言ってしまったのだ、なぜか、……対等じゃないと言外に、でも直接的に言われて、なにも言い返さないで済ませるということのほうが、……僕にとっては、無理だった。



「そ? じゃあ、そのこと確かめるためにも、早く開けてよ」

「いま、開けてるんだよ……」



 僕は手を動かす、指を動かして、どうにかしてこのアナログペーパーを開封しようとする、でも紙が硬いからなのか、なんなのか、いくら開けようとしても、爪が引っかかり、爪のあいだに紙が入り込み、指がカサカサと紙をなぞり、手のひらの上で紙の表面がまるで体温によって温まっていくような、そんな、そんな感じだ、――そんな感じしかない。

 これでは、開けられない……絶望めいた気持ちが、徐々に芽生えてきている。

 ここでまたしても僕はやってはいけないことをやってしまった、どうにかならないのかと、……視線をあげて和歌山を見てしまったのだ、でも、でも、……あいつがどうにかしてくれるわけもないのはその歪んだ笑みを見ればすぐにわかった、失敗、失敗だ、ああ、なんてことだ、たとえ一瞬でもあんな教師に助けを求めようとしてしまっただなんて。



「ちなみにねえ」



 南美川幸奈が、甘ったるい声で言ってくる。なぜだか、すごく、接近してくる。僕の、耳もとまで。その口を、近づける。どうして。甘ったるい、でも吹き抜けるかのように爽やかな匂いがした。香水だろうか。いい匂いだと……どうして、どうしてこんなときにさえ、僕は思ってしまうのだろうか。南美川幸奈なんて、……好みのタイプでも、なんでもないはずなのに。



 僕はつとめて手元のアナログペーパーにだけ意識を集中させる、駄目だ、こんなのは、それにそもそも、……香水だとしたら、いい匂いくらいするはずだし。



「アナログペーパーの試験表って、返されたときに本人が確認しないと、無効なのよ」

「無効って」


 僕は、初耳だ。そもそもいままで、アナログペーパーという文化にほとんどふれてこなかったのだから。


「試験表を開けるでしょう。そうすると、そこに小さな指紋認証モニターがあるから、指をタッチするの。そうすれば、本人が試験結果を確認したってことが、試験管理委員会のひとたちにもわかるでしょう?」


 やけに、詳しいんだな。僕の知らないこと、……だらけだ。


「アナログペーパーのデータの取り扱いはね、デジタルデータよりももっと、ずっと、厳しいのよ。不正データの防止よね。だからそういう手間もかけなきゃいけないのよ。……同意しなかったら、無効だから、偏差値はゼロよ」

「偏差値、ゼロ?」



 そんなこと、あるもんか。そんな気持ちを込めて、僕は南美川幸奈を見上げた――南美川幸奈は嬉しそうに、にっこりと笑った。ああふつうにしていれば派手だけれどふつうにかわいい女子だろうに――この女子は。



「偏差値二十九より、もっとひどいわね」



 そんなことを言って、喜んでいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る