どうするの

 目の前の女子ふたりへの苛立ちは、……それは、それとしても。

 そもそもそんなふうに、いまこの状況での思考の優先順位を間違えるくらい。僕は、ひどく動揺していた。偏差値、二十九だって? そんな、そんなのは、ひどい、いやひどすぎるどころの話ではない。ありえない、と言われてしまえば、ほんとうにその通りなのだから。

 ……きっと峰岸狩理の計算ミスだ。あるいは、なにか勘違い。あるいは、不手際。そうに決まっている――。


 そう思うのに、心臓は、ばくんばくんと、……相変わらずうるさく鳴るのを、やめてはくれないのだ。



 南美川幸奈は、ひとしきり奏屋繭子とはしゃぐと。

 またしても、こっちを見てきた――つきあっている峰岸狩理からすれば、もしかしたら、いたずらっぽくだなんてかわいらしく映るかもしれないその表情。僕にとっては、意地が悪い表情以外の、なんでもない。



「ねえ、もしさあ、どうすんの。ほんとうだったら」

「……なにがだよ」



 思えば、南美川幸奈と、明確なかたちで会話を交わしたのはこれがはじめてだったかもしれない――おなじ教室、おなじ学年。おなじ空間と時間で過ごしながら、僕と南美川幸奈はお互いほとんど存在しない存在のはずだったのに。



 くすり、と南美川幸奈は含むみたいにまた、笑った。



「そのヤバい偏差値のことに決まってるじゃない。二十九って、それ、おかしいもの」

「……まだ、ちゃんとした結果は返ってきてないんですけど」

「やだ、狩理くんの計算を疑うの? 狩理くんの計算が間違ってるわけが、ないじゃない。アンタとは違うんだから」


 ……悪かったですね、と吐き捨てた僕の声は、しかし小さすぎて――ただのだれにも届かない、ひとりごとみたいになっていただろう。



「ねえ、ねーえ。だからさ」


 南美川幸奈は、身体をずいと引き寄せてきた。ひゅう、と奏屋繭子が口笛を吹く。僕は、思わず、後ずさる。なんだ、なんだよ、……なんのつもりだって、いうんだよ。


 顔を、さらに寄せてこようとする。僕は、首の角度を曲げて、どうにか逃げようとする。でも、駄目だ、どんどん、……カーペットのほう、教室の後ろの隅の壁に、追い込まれていく。


「アンタは偏差値二十九なんでしょう? そのことに対してどうすんのかって、訊いてんの。そんな偏差値、人間やめたいとしか、思えない。……人間をやめたくてこのクラスに来たってこと?」

「違う、僕は、……研究者になりたかったから」

「はっ」


 南美川幸奈は、僕の必死の返答を鼻で笑った。

 細身でスタイルのいい腰に両手を当て、あのねえ、と怖い表情になって言う。


「偏差値二十九の人間未満が、どうやって?」

「僕は人間未満じゃない」

「……やあだ、冗談だってば、そんなにムキになってさ、大声出しちゃって、……ばかみたい。どんだけ赤くなってんのよ」


 僕は、目の前のこの女子を睨んだ。せめてすこしは、効果がありますようにと内心ばくばく、思いながら。もう、嫌だ、どうしてこんなことに――こんな時間、いますぐに終わってほしい。


「……だって、まだ、わかんないんだ。結果は、出たわけじゃないんだ」

「アンタさっきからそればっかりね。じゃあ、いいわよ。……ちゃんとした偏差値が出てから、もういっかいお話しましょうか」


 南美川幸奈はそう言うと、急に興味を失ったかのように僕の目の前からどいた。背中を見せる。……短いスカートと、腰に巻いたカーディガンが、ひらひら揺れる。金魚のように。


「マユ、いこー」

「えっ、もういいのっ? ぜんぜんまだオープニングだと思ってたんですけど!」

「オープニングだよ。でも今日もうこれ以上できそうなこと、ないっしょ」


 ……なんの、話だろうか。

 そんなことを言い合いながら、南美川幸奈と奏屋繭子は――並んで、連れ立って、教室を出ていこうとする。



 扉をくぐろうとしたとき、ふいに南美川幸奈はこちらを振り向いた。


「ああ、でもさあ、だからね」


 肩ごしに、冷たい視線で。どこか褪めきった声で。


「はっきり結果が出たら、アンタのこと、人間未満ってみなしてもうタダじゃおかないから。いいわよね。……劣等者ってそういうものでしょう?」


 そうして、なぜだかちょっと親しげに微笑むと、奏屋繭子ともどもそのまま駆け足で教室を出ていった――ぞわっとした、ぞくっとした、……なんだ、いまのは、なんだったんだ。

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