けっきょくのところ

 葉隠さんは、僕を見ているのだった。

 鋭い目で。

 向こうと、ここ。だいぶ離れている。それでも、わかる。そんな、距離感で――。



 葉隠さんを介抱しているだれかが、葉隠さんに優しく、親しげに、気遣わしげに話しかけた。葉隠さんはちょっと首を傾けるようにそのひとを見て、やはり優しく、親しげに、かえって気遣わしげになにかを答えるのだった。

 それは僕の知っている――というか、僕はあの人間について、ほんとうのところ本質的なことなどなにひとつ知っていない、知りえないのだけれど、その限定のなかでという意味での、僕の知っている葉隠雪乃という人物ではなかった。


 南美川さんを嘲笑いに来たときの、やたら強気で意地悪な感じとも違う。

 僕をやはり親しげに、四人組になりたい、と、くんづけやらさんづけやらで、妙な、でもぐいぐいくる距離感できていたときとも違う。

 機嫌がよさそうなときの、古都出身特有のはんなりとしていた雰囲気とも違う。

 友人たちを慮っていたときとも違う。

 やたらと険しい顔をして、髪をなびかせていたときとも違う――。


 広場をまわってひとびとに声をかけているときには、たしかに、あんなようすになるようだ。ふしぎな人間だ。……万華鏡のように、いろいろな側面があるらしい。

 人間は、みなそうなのだ、と言われてしまえばそれまでだ。その通りだ。でも、すくなくとも、葉隠雪乃は――たくさんの面がくるくる、しかもきらきらと、それも目まぐるしく変わっていくという点では、やはり、際立っているのではないかと――僕は僕のこれまでの乏しい人間関係を思い出して、そう感じていたのだった。



 そして、あの女性は。

 なんとなく、だけれども。僕とかかわるときにもなにか、違ったものを見せている――。



 反射的に。

 ほとんど、反射的に。


 僕は南美川さんを抱き寄せた。

 僕の、けっして素肌を晒すまいと着込んだ分厚い真っ黒な格好での、狭い狭い体育座りの、ほんとうに狭い、ほんとうに僕と密着した、……ほんらい他者を招き入れるにはあまりに失礼なその小さく醜いスペースに、それでも、押し込むように南美川さんを抱き入れたのだった。



「シュン……?」

「じゃあどうしろっていうんだ」



 僕は、ほとんど息だけで吐き出した、けれど。



 それは、このひとに問うべきことではなかった。いや、世界のだれにだって、他者にはすべて問いかけるべきことではないのだ。それは。せいぜいが、自問自答のうちに組み込まれるのが許されるくらいのことで――だからましてや南美川さんに言うことではないのだ、聞くことではない。……それは僕の内部で処理しなければならない。わかっている、そんなこと、そんなことは、……慣れているはずなのに、どうしてなんで結果的にけっきょく僕はこうして――言葉を、口から出してしまっている。……汚い感情を吐き出している。




 ほとんど、息のまま。低く、聞き取れないくらい小さく。だからこれはひとりごとなのかもしれない。ただ南美川さんという人犬を抱き寄せて意味が通らずともつぶやき続ける、僕のそんなエゴでしかない行為なのかもしれない、それならやめればいい、なんだけど、そうなんだけど、……もう僕のもともと足りない容器は、満杯すぎて、こぼれすぎて、いまにも決壊しそうだった。いまにも、僕は、……このまま決定的に壊れてしまいそうだった、どうしてか。



 どうしてか。ほんとうにだ。どうして、どうしてだろう。どうして僕はこんなときにだって自分のことばっかり、けっきょくのところ――。



「どうすればいいのかわかんなかったんだよ。……ねえ南美川さん教えてくれないか。僕は、あのひとたちを、真っ先に助けるべきだったのかな」

「シュン――」

「どうしてだ。嫌なんだ。怖いんだよ。他人を、助けるだなんて」

「……他人にふれてしまうのが怖いの? それとも、肌を出してしまうのが怖いの? ごめんなさい、わたしのせいね。わたしが、むかしあんなことをしなければ――」



 もちろん、そういうことも、……だけれど。



「そんな。そんな、人生に、深くかかわること、できるわけないじゃないか」



 僕に、できるわけが、ないじゃないか。



「僕はほんらい人間未満なんだ。あなたなんかより、ずっと、ずっと。僕は間違って人間でいるんだ。他人に影響を与えたくない。他人にかかわりたくない。深く介入したくない。それなのに」



 それなのに、どうしてだよ。……その言葉をかろうじて飲み込むことができたのは、こんなことを言ったってどうしようもないもうほんとうにどうしようもない、……いい歳した大の男が、幼児の駄々みたいなことを、前ぶれも、脈絡も、必要性もなく言っていると――遅ればせながらも、ようやく自覚できたから、なのだろうか。



「……あ……」



 南美川さんが、小さく声をあげた。なにかを、告げるような声のニュアンスだった。僕は顔をあげた。永遠に、顔なんかあげたくなかったけれど、あげたのだ――葉隠さんがまっすぐに僕のほうに向かっているのだった、僕を、僕だけを見て、……その黒い髪を、なびかせて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る