岸にあがって

 葉隠さんと子どもが、男性に助けられて、冷たい水から上がってきた。



 数人が駆け寄った。すべてではない。そもそもここにいるひとたちだって、ついさきほどまで溺れていたのだ。この寒さのなか、服はぐっしょり濡れ、凍えて、体力は落ちているはずだ。ただでさえ疲労しきったなかで。

 けれども、その数人はたしかに動いているのだった。自分自身の状況もあるだろうに、まるで、いっそそんなことまったくないかのように。


 そのひとたちは。

 身体の冷えきったであろう彼ら三人を、抱き寄せるように支えた。


 葉隠さんはぐったりとしていたけれど、どうにか歩いていたし、子どものほうもびしょ濡れで憔悴してはいるが、意識はあるようだった。

 男性はふたりを岸に寝かせた。駆け寄ってきた数人が、ハンカチで子どもの額の水を拭ったり、葉隠さんの肩を揺さぶって変なところはないか問いかけていたりした。


 よかった、とだれかが言った。よかった、よかった、よかったねえ……その言葉は、感情は、こだまみたいにこの池のほとりを駆けめぐっているようだった。



 ひとびとは、男性のほうを気にしている。さきほどの、僕に対するそれとはまったく違って、気にしているのだ。敬意と、感謝と、安心と、そういったものばかりがないまぜになった彼らの表情、感情――それらをすべて受けてなお、男性は冷静だった。ひとびとを安心させるかのように、控えめに、にこりと笑うのみだった。


 だいじょうぶですか。あなたは。お怪我は。寒いでしょう……ぱらぱらと、しかししっかりとあがる声かけに向かって、彼は答えた。


「自分は、あとでいいです。あの子たちを先に」


 その答えに、ひとびとはさらにほっとしたようだった――そういえばこの公園にいるひとたちはみな、ある意味では僕も含めて、こうした純粋な力強さあるいは頼れるようななにかを、ひさびさに目にしたのではないか。

 昨日から、公園、あるいはそれをベースにしたこの公園めいた世界は極度の混乱状態にある――ひとびとは、なすすべなく、ただ混乱して、そのなかで善意らしきものをもつものはなけなしのそれをとりあえず投げることで、せいいっぱいだったのではないか。


 ひとにゆずる――現代社会ではある意味当たり前で、なすべき行為。けれどもいまここはNecoの管理下からおそらく外れてしまっている。社会評価ポイントが一ポイントも入らないであろうに、そんなことをできるとはと、……思ったひとも、少なからずいたことだろう。



 男性は、岸の隅の、目立たなそうなところに物音も立てず移動した。ひとびとの心配そうな視線が彼を追いかけたけれど、彼は、つとめて意識しないようにしているようだった――あるいはそのようなポーズをしている。


 彼の助けた二人がこうしてほかのひとの手に渡り、ひとびとが持っている数少ないタオルやらハンカチやら着替えやらで世話されていることを確認すると、安心したように、あるいは脱力したように、座り込んだ。

 服は脱いだままだ。さきほども思ったが、滑稽に見えたっておかしくない格好。だがそんな感じはまったくしなかった。膝を抱えて遠く海のように池に視線を向けるすがたは、まるで修学旅行で自由選択制で訪れた歴史史料館の、西洋古典の格調高い彫刻を目の当たりにしているようだった。


 たしかに彼は二人に比べればずっと平気そうに見えたが、しかしあきらかに水に入る前に比べると顔は真っ青で血の気がなく、肩で息をしているのだった。

 考えてみれば、それは、そうだろう。いくら鍛えていたって。いくら水泳をやっていたからといって。彼は、この寒さのなか水に飛び込んで、ふたりの人間を助けたのだ。自分の身さえも危ないだろうにそれをなしてみせたのだ――。


 若い女性がそっと歩み寄り、控えめに会釈すると、その肩にバスタオルをかけた。


 この状況下で、バスタオルというのはかなり貴重だろう。たまたま、公園に持ってきていたのか――そう思っているとその女性は案の定というかなんというか、私がスポーツで使ったバスタオルで、汚くて、すみませんと謝った。

 男性は驚いたように、いえいえ、そんなこと、とんでもございませんと片手をひらひら振った。女性は、控えめに微笑んだ。その視線には、たしかに――決定的ななにかの感情が、浮かんでいるように思えるのだった。




 だから。

 この公園で、いま、だれも僕を見ていない。

 そう、思ったのに。……あっちで介抱されている葉隠さんと、ふと目が合ってしまったのだった。

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