チャンスすらない
影さんは、僕を見上げたまま、静かに目を見開いた――このひとのまつ毛は、よく見ると長い。容姿に対する観察眼はからっきしな僕が気づいたくらいだから、つまり、いっそ不自然なほどに長い。……見開いた目は思いがけずあどけなかった。
その目には、怒りとも、狂気とも、絶望とも、また歓喜ともつかない――いやむしろ一瞬のうちにその内容を変える感情が、……目まぐるしく、湛えられているように思えた。
「……いまさら、なにを。守れなかったくせに」
「それは、あなたのパートナーのことですか。いや、パートナーでいいのかな。わからないけど。……あなたが、表と呼んでいた。あの彼です」
「だからなんだっていうんです?」
否定は、されなかった。
「邪魔です。そこをどいてください。いまは神聖なる癒しのサクリィの時間ですよ? 逆らうならば、あなたは絶対者になにをされたって、文句は言えないのです」
言葉が強くなって、そのぶんこのひとの顔も動いた。顔が動いたおかげで、虹色の帽子を揺れた。それは、このひとの言葉の調子を、感情を、端的にあらわしているかのようで。
影さんは立ち上がると、またしても過剰な表情で両手を広げた。一見すると、その胸は列をつくるひとたちに向かって最大限にひらかれているかのようだが――。
「さあさあ、みなさん、いやしのサクリィの続きをしましょう。次のひとは、だれですか? 癒されたいですよね。お疲れのことかと思います。だいじょうぶです。だいじょうぶ。司祭が、ついていますから――」
「あなたは操られてるんじゃないですか」
尋ねた声は、自分でも思いがけず強張った響きになった。
「言わされている、感じがします。……あなたはなにかを受け取っているんじゃないですか。あるいは、なにかをやらされている。あなたのパートナーを取り返すために――」
「いい加減にしてください!」
影さんは、怒りをあらわにした――そのとき、ぽつりとひとびとの行列からも、声が聞こえた。
そうだよ。いい加減にしろよ。
邪魔なんだよ。邪魔をするなよ。
ほんと、空気が読めないやつらだよな。
っていうか、あいつら、なんなの?
なにをしに、来ているの?
自分たちの正義を押しつけやがって――だれかが苛立ち混じりにそう、吐き捨てたのが、僕には聞こえた。
ここにいるひとたちのそんな総意をまとめあげるかのように、影さんは、きっぱりと言うのだった。
「あなたにはいやしのサクリィを授けません」
それは、けっきょくのところどういう意味なのだろうか。どういう、真意なのだろう。……僕と南美川さんはさきほど雑木林の奥で、すでに疲れを取ってもらった。そう、ほかでもない、このひと自身のいま手にしている奇妙な力によってして。
あれはまた、いやしのサクリィとやらとは、別のものだったのだろうか。いや、しかし、疲れならば取れた。存分に、取れた。影さんも、そのために僕たちを呼び寄せたような感じさえもする。それならばなぜいまそんなことを、こんな場で公言する――?
……わからない。わからないことが、多すぎる、あまりにも。
「……だったら僕たちは、いまから池に投げ捨てられるってことですか。困るな。この季節だし、寒そうだ。せめてここにいる僕のペットと、セットで投げ捨ててくれるといいんですけど。もふもふしたところですこしは暖を取れるかもしれないし――」
「どうでもいいことを、つらつら、つらつらと! 言わないで、くださいますか! ……いやしのサクリィは授けないと申し上げたでしょう。それは、チャンスすらないってことです」
チャンスすら、ない。
「司祭が駄目だと言えば、駄目なんです。あなたがたは是でも非でもありません! 無です。いやしのサクリィからこぼれ落ちた無です!」
「……あのときあなたが雑木林でしてくれたことは、それとは、違ったんですか。僕たちはあれで体力的には元気になって――」
「問答無用!」
影さんの叫びとともに、僕と南美川さんは黄金色の光に包まれて、そしてそのまま突き返されるかのようにまっすぐに押しやられた。元いたところに投げ飛ばされるかのようにして戻った僕たちのことを受け止めてくれたのは、とっさに動いてくれたらしい葉隠さんだった。すべり込んで僕の尻餅の衝撃を緩和してくれて、……南美川さんの全身を、胸で抱き止めてくれていた。
受け止めてくれたままの体勢で、歯を食いしばるかのようにして、葉隠さんは影さんを睨みつける。
「むちゃくちゃやん、あんなん……」
「言っておきますけど。そこのかたにも」
今度は影さんの言葉は、あきらかに葉隠さんに向いていた。
「神聖なるサクリィを邪魔するのであれば、あなたからも、サクリィにあずかる権限を奪いますよ。……いい子にしていることです。おとなしくしていること。そうすれば――絶対者の絶対的な願望は、果たされるのですから」
「だからなあ、あんた、言っとることむちゃくちゃやで――」
「ねえ、雪乃、お願い、お願い、もうやめて」
守那さんがかがみ込んで、懇願するのだった。
その隣に、やっぱり黒鋼さんもしゃがみ込んで、あくまでも落ち着いたようすで葉隠さんを諭す。
「それ以上やるようだったら、私は力ずくでも雪乃を止めるよ。……だって、友達が危ない目に遭うの、ほっとけるわけないもん」
葉隠さんは、悔しそうに、唇を引き結んでいた。
その胸に受け止めた南美川さんのことなど眼中にないようで、でも、……南美川さんのほうは一心に、その顔を見上げているのだった――まるでそのままそっくり、人間を案じる犬であるかのように。
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