嫌な予感

 そのまま、雑木林を進んだ。

 南美川さんのリードを曳いて。

 手で手を引くように、曳いていって。



「……とにかく、歩かなければいけないよね」



 南美川さんは肯定のしるしにうなずいて、だからその鈴がりりんと鳴った。軽く、いちどだけ。……シグナルを決めておくというのは、たしかに便利なことだった。



「あなたのノルマをこなすことが、いちばんだいじなことだ」



 こんどは、南美川さんの首も鈴も、……揺れなかったみたいだけど。



 僕はなんとはなしにスマホデバイスを取り出した。外部通信は、やはり不能。しかし時計としてなら使えた。……現在の時刻は、午前の十一時半近く。まだ、そんな時間なのか。まだ、目覚めてから、……あれらの地獄を目の当たりにしてから、たったこれだけの時間しか経っていないだなんて――。




 ……今日起きてから経験したことを思い返すと、正直なところ、それだけで吐きそうだ。

 だから僕はそれを振り払う意味でも、……自分に言い聞かせるかのように、つぶやいた。



「あなたの、ノルマをこなす」



 そう。僕のこなすこと。それは、いちばん。南美川さんの、歩行ノルマをこなすこと。

 コミュニケーションの欠陥。意思疏通の不全。

 出会ったひとたちと人間どうしとして最低限満足にさえかかわれなかったこと。



 それらのことは、……でも、いいのだ。

 僕のなすべき、ことじゃなかった、ほんらい。



 僕がなすべきことは、南美川さんを人間に戻すこと。それだけなのだから。それだけに、フォーカスしておけばいいのだから――。




 雑木林は、そよそよ揺れる。

 ……まるで世界の異変なんか、まったくなかったかのように。




 土を、湿度を、木々のにおいを。踏みつけるように、踏みしめるように進みながら、僕は自分自身の意思を、自分自身に確認する。



「そして、この世界から出る――」




 そうつぶやいた瞬間だった。

 硬質な音が響いた。

 雑木林で聞くには、不自然な音。

 澄んで、きれいな音ではあるが、……それがまた不自然さを、煽る。


 ゲームでたとえるならば、水晶と水晶をぶつけ合わせたような音だ。

 よく、重要なアイテムを発見したときに、そういう音がクリアに鳴った。

 でもいまここは、ゲームではないはず――では、いったいなんの音?




「奥かな」


 南美川さんに問うと、南美川さんも顔を上げて真剣な顔つきでうなずいた。

 僕もひとつうなずいて、走るよ、だいじょうぶ、と問うて確認したあとに――駆け足に近い早足で、雑木林を、ひたすら進んだ。



 ……公園の雑木林は、基本的には行き止まりはない。

 突き当たれば、かならずどこかに抜けるようになっている。

 だからその音がしたところはたぶん、人が通る道のほうではないのだった。

 ちょっと脇道に逸れて、……木々ばっかり繁る、そういうところからあの硬質な音は響いてきたのかもしれなかった。



 しばらくそうして進んでいると、風がじょじょに唸りはじめた。

 ちょっと不自然なほどにごうごうと吹いている。


 それと同時に硬質な音もうるさく鳴りはじめた。

 最初はいちどだけ、短く響きわたったはずのその音は、風の唸りに合わせるかのように、いつしか風鈴のようにカンカンカンカン繰り返し鳴るようになった。

 ……風鈴だったら、涼やかだ。でも。この音は。ちょっと異常に感じる。こんな音、こんなふうに、続くべきものではないと感じる――。




 音が、近づいてくる。

 そうして、これでもかというほど音に近くなって。

 ……ある地点で。

 進行方向の、雑木林の、右手が、光っていた。

 木々が素知らぬ顔で立つなかで。

 蜂蜜のようなとろっとした光が、溢れ出ていた――きれいに、でも、だからこそ、不自然に。




 美しいのにどうしてこんなにおぞましい感じがするのだろう。その輝きが、強すぎるから? 蜂蜜みたいに、いや、いっそとろけた黄金のようにそれらが、――あんまりにも、蠱惑的に、光っているから?




 ……僕は、南美川さんのリードを強く握った。

 嫌な予感がする。

 全身が、逆立つほど……どうしてこんなふうに感じるのだろう。どうして、いま僕はこんなにも、――嫌な予感に、支配されているのだろう。




 カンカンカンカンカン――と、この音も鳴り続ける。

 まるで、いざなうように。訴えるかのように。

 うるさく、うるさく、僕の聴覚を……支配する。



「……だいじょうぶだよ。なにかあっても、僕が、……どうにかする。最悪の場合はリードを離すから、逃げてほしい」

「逃げたってわたし、なにもできない……! あなたがいなければ、わたしは、わたしは、なんにも」

「そうだったね。……じゃあ、そのときにはいっしょだ」

「シュン、まさか、このなかに行くの……」

「行くよ」

「そんな、危ないわ。ほっとけばいいわ。せめて、だれかを呼んでくれば……」

「僕が呼ばれている気がするんだ」




 僕は、光を真正面から見据えた。




「……彼らに勝つにはこの世界の秘密を知らなければいけないよね」



 それは、なかばひとりごとだったわけだけど。

 意外なことに、いや、もはやたいして意外でもなく、呼応するように光は輝きを、強めた。



 木々の前。輝く光。大口を開けるように、入り口として僕を出迎える。

 はりぼてみたいな、リアルな光景だ。

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