この世で、しゃべれる相手は
「……あなたは、たまに」
南美川さんは、僕の頭のうえで、にど、さんど、肉球を動かす。
これ以上ないほどに縮こまってうずくまってる僕と、これ以上ないほどに全身を伸ばした南美川さんとでは、……ちょうど、目線の差が、合うみたいで。
「あなたはたまに、ふっと、よくわからないことを言うわ」
「……僕はそんなに、唐突にNeco言語をつぶやいてしまっているのかな。それじゃあ、病気だ。Neco言語発作症候群だ。僕は病院に行ったほうがいいんだろうね」
「そうじゃないわ。おもしろいこと、言わないで……」
脱力したような、静かな、明るさ。
「Neco言語もそうだけれど、あなたは、ずっとそうよ。むかしから。気づいていない?」
「……なにを?」
「だから、あなたはたまにふっとよくわからないことを言うの。……高校のときからずっと、そうだった。普段はたいしたことない、考えていることも、こっちのすべてわかるみたいに、振る舞うのに――」
すこし、間があった。
そうして、なにかが、……南美川さんに、続きを言わせるのをためらわせたようだった。
「あなたはたまによくわからないことを言う。そうね。……そうとしか、言いようがないのかもしれないわ」
「そうか。それは、僕があまりに劣等だからじゃないかな」
「どうなのかしらね……」
南美川さんは、小さく笑った。
……風が、ぴたりと止む。
「僕はたぶん、よくわからないことばかり言っているんだろうな。さっきも、あのひとたちは、……きっと僕が劣等だとわかってしまったはずだろう」
「……雪乃と、里子と、美鈴?」
「そう……彼女たちだ」
そうねえ、と南美川さんはため息にも似て言った。
「あの子たちが言ったことは、あのね、本心じゃないと思うのよ……」
「じゃあ、なんだっていうんだ。……僕のことをあからさまに軽蔑していた」
「あのね。あのおばあさん、……ミサキさんのときもね、そうだったけど。あの子たちもね、あなたとね、仲間になりたかっただけだと思うのよ……」
「方便だろう。僕を味方に巻き込めば、あなたをもっと攻撃できる。そのための道具として、ゲットしたかっただけだ。僕なんかと心底お友だちになりたいわけがないしね」
「それも、あるだろうけど、ううん、……それがあったとしたって、あの子たちはそうね、あなたのいまの言葉を借りれば、お友だちになりたかったんだわ」
「そんなわけ、ない。南美川さん。わかるだろう。僕と友だちになりたがる人間なんかこの世にいるわけがないんだ」
「じゃあ、あなたは、お友だちがひとりもいないの……」
静かに、問いかけてくる。
だから僕は南美川さんには、……南美川さんに対してだけは、いまここで、正直であろうと思う。
「いないよ。前も、話しただろう。大学でも、社会人になっても、そんな関係になる人間はひとりもいなかった。中学までのひとたちは、全員いまどうしているかさえわからない。高校はあなたの知っての通りだ。……僕に友だちなんかひとりもいない。簡単なことだ。僕と友だちになりたがる人間なんか、いないんだから。僕だって僕じゃなかったら僕と友だちになりたくなかったと、思うよ」
「なにが、あなたを、そこまで卑屈に……」
柔らかく、やっぱり、南美川さんは、……笑う。
眩しそうに。目を細めて。なにか遠くを、見るかのように――。
「……そこまで卑屈に、って、そんなのは、……わたしがいちばん言うべきじゃないわね。でもね。シュン。それはね、それとしてね。ミサキさんも、あの子たちも、……あなたとほんとうに、近づきたかったのだと思うのよ。できれば、仲よくなりたかったんだと、思うのよ」
「利用するために、かな。もしミサキさんと仲よくなれば僕は体よくキメラの実験材料にされて、もし南美川さんの大学の同級生たちと仲よくなれば僕はいっしょに南美川さんを足蹴にするんだ。目的がクリアでいいね、ありがたい話だ、けれども僕にはもったいない」
南美川さんは、咎めなかった。
なにも言わなかった。
そんな言いかた、ってくらいのこと、……言うかと思ったけれど、なにも言わなかったのだ。
「あなたのほんとうの心の声を、知っているのは」
南美川さんは尻尾をまるく、……楕円を描くように逆時計回りに一周、くるりと、ゆっくり、回した。
「じゃあ、いまはわたしと、……もしかしたらNecoだけ、ってことになるのね」
僕は、答えなかった。
「だれもあなたの本音を知らない」
南美川さんは、肉球を僕の頬に這わせて、そのまま四つん這いの体勢に、戻った。やはり二本足で立ち続けているのは、きついものがあったのだろう。
……だから。うずくまった僕より、もっと低いところで、地面に近いところで。このひとは、一心に、僕を、僕だけを見上げて。肉球を頬に当てて、なにか、なにかを、伝えようとしている――。
「人間は、だれもあなたの本音を知らないのだわ」
「あなたが、知っている。南美川さんが……」
「わたしは人間じゃないもの。……忘れたの?」
南美川さんは、上半身をのけぞるように起こした。……ああ、胸が、人間のときのままの剥き出しのその部分が、あらわになる。白い。そして、赤い。荒れてしまっている。それでも、きれいだ。荒れてしまっていても、それでもすべすべだ。きれいだ。……きれいだ。僕は、どうして。こんなときに。そんなことばっかり――。
「わたしは、人犬よ。人間じゃないの。……忘れないで」
「あなたは」
人間だ、と言おうとした僕の言葉は、続かなかった。
南美川さんが前足を伸ばして、肉球で僕の口を塞いだからだ。
茶目っ気を孕んだ視線で、目もとだけで、南美川さんは笑った。
そうしてもう一周尻尾をくるりと回すと、……僕の頬に口を近づけて、口づけではない、けっして、犬さながらに、いやあるいは犬そのものとして、ちろりと、頬を舐めてきたのだった。
……その舌の感触に僕は一瞬、すべてを委ねて、支配されたくなってしまう。
あなたは人間だと言うことさえも、放棄して。すべてを、忘れてしまって。人間でも、人間でなくてもどうでもいい、南美川さん、南美川さんと、――すがりたくなる僕は、愚かだ。
ほんとうは、わかっているんだ。
いまは、人犬そのものとされてしまう、南美川さんと。人工知能の、Necoと。
……僕がこの世界で多少なりともふつうに話せる相手は、それだけなんだ。
ほんとうに、それだけ。
僕は、たしかにこの世界に、――人間として、人間どうしとして、まともにかかわれる相手をだれひとり、もってはいない。僕は人間とは、たぶんまともにかかわれない。
この異常な状況下において、おばあさん、彼女たち、――求められたとしたって、かかわれなかったのだから。彼女たちも残念だったのかもしれないけれど僕は、……僕だって、残念なんだ、僕の心に芽生えた拒絶、僕が感じる人間への嫌悪――それらはけっきょくのところ僕が悪い、僕が原因のはずなのに、僕は、……そんなかたちで感情をいだくことしか、やっぱり、けっきょくのところできないって自分自身に証明してしまったのだから。
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