無理を通してでも
ミサキさんは、そのまま行ってしまって。
広くて寒い芝生広場に、南美川さんとふたりで取り残されたようになって。
僕はしゃがみ込んで。南美川さんは、地面に伏せている格好で――。
南美川さん、どうしよう。
僕はそう問いたかった。そうすれば、どうにかなるかもしれないと思った。
正直なところを言えば、とても正直なところを言えば。南美川さんに、すがりたかった。もちろんそんなの間違っていることはわかっている。もちろん。いまこのひとは人犬で、僕のほうが人間が。……そのことがそもそも徹底的に間違っているとしても。
でも問いたい。
すがりたい。
こんな状況、どうすればいいのかって。いや、……Necoについてなら、僕のやることできることは、もう決まっていると思う。
南美川さんは僕を見上げていた。
もの言いたげだったので、なんとなく、……その顎の下に手を入れて、ちょっと撫でまわしてみた。
南美川さんは、ちょっとだけ目を細めた。そして人間のときのままの唇を開く、こんなに寒いのに、いや、かえってこんなに寒いからなのか、強い紅色に染まっているように見える唇――。
「……どうしようって、思ってるの、シュン」
「どうして、わかるの」
「わかるわよ。あなた、わかりやすいもの……」
南美川さんは疲れたように微笑んだ。僕は弾かれて、唐突に起こされたような気持ちになった。僕は、わかりやすい――その言葉は僕が高校時代にさんざん言われてきたものだったから、……このひとから。
僕は後頭部の髪をくしゃりと掴んだ。
「僕は、そんなにわかりやすいかな」
「……わたしにとってはね」
南美川さんは、つぶやくようにそう言った。僕はじっとその目を顔を見た。……僕をいじめ抜いたひと。南美川さんはそのままの哀しげな目つきで表情で僕を見ている。だから、……僕はそっと目を逸らして、うつむいて、それまでだった。
そんな僕の膝に、南美川さんは前足を置いた。そうして僕がうつむいていても見える角度で、顔を滑り込ませてくる。……そうして、さらに見上げてきた。
「どうすればいいのかわからないなら、いっしょに整理してみればいいのだわ。あまりにもたくさんのことが一気に起こったのだもの、……あんまりにも。呑み込めないのは、当然よ。でも、整理すれば、なにかがわかるかもしれない……」
南美川さんは人間らしくしっかりしていた。人犬としての存在、人犬としての特徴。それらがしっくり馴染むまでに人犬という存在になってしまっていながら、……南美川さんはいまこんなにも人間らしく――人間として、僕の前に、……いま、こうしていてくれるのだった。
僕は深いため息をついた。不甲斐なさと、申しわけなさと、悔しさと、恐怖と、……とにかく、ありとあらゆるそんなには快でないものが、ごっちゃだった。
「どちらにせよ葉隠さんたちのもとに行かなければいけないと思う。無事なのかどうか、たしかめなくちゃいけない。……あなたがそれでいいなら、だけど」
「いいのよ。いまさら、もう、気にしないもの」
……南美川さんが自分でそう言うほど、そうではないことは僕にはわかっている。でも、……僕は、とりあえずこくりとうなずいた。とりあえず――そういうことに、させてもらった。
「だったらその道中、すこしだけ遠回りをしようか。どちらにせよ、……あなたの歩行ノルマを今日もこなさくちゃいけない。できる?」
「……わかんない。でも、がんばるわ」
「今日は、何日目?」
「五日目ね。……もうすぐで、折り返し」
僕にはもちろんわかっていた。確認のために、ちょっと意地悪みたいな気持ちも込めて南美川さんにそう問うたのだった。もちろん、南美川さんもわかっていた。それだけのことで、こんなにもあっけなく――嬉しくなる。
「……そうと決まれば。ところでさ」
僕は立ち上がる前に、このひとの身体をすこし抱き寄せた。左手の黒い手袋を外して、背中やら、臀部やらを撫でていく。冷たい。陶器のように。まるで生き物の身体ではないかのように――。
……風が、冷たい。
「マッサージも、できていない。お風呂にも、入れていない。……その身体では寒いはずだ。体調とか。疲労とか。気になったんだけど――」
「……そんなのはぜんぶボロボロよ。でも、慣れてるの」
南美川さんは、また、……微笑んだ。
「寒いなかで過ごす訓練も、たくさん、したから。そういうときにね、人間の衣服をねだったりしないように。だってそれは悪い子だから……。だからね、慣れてるの。……だいじょうぶよ。たしかに寒いけど、疲れるけど、それでどうにかなるくらいだったらわたしとっくに調教施設で死んでいるもの――」
無理は、しているんだろう。
でも、いまは、……僕のほうからあんなことを訊いておきながら、ほんとうのところ、無理をしてもらうほかないのだ。
そもそもが、無理なところに。
またさらに、巨大な無理の重なる現状。
まったく予想もつかない状況。
けれどもそんななかでも無理を通さなければいけない。
そうしなければ――南美川さんは、人間には戻れない。
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