ミサキさんは、背を向けて

 相変わらず奇妙に静かな朝の広場、そこにこうしてお互い立ったままで。

 興奮ぎみなミサキさんの話を、ひと通り聴き終えて。

 心臓の鼓動が、速まっていた。


 だって、違う。

 たぶん、いやほぼ確実に、違うんだ。


 べつにこの世界はそのような意図でつくられたわけではないだろう。

 あくまでも、南美川さんの弟と妹が、なんらかのかたちで変更を加えた世界なのだ。

 ……進化生物学者のため、とかではないと思う。

 ましてや。このひとに、原始の楽園とやらを見せるためでも――。



 ……でも。

 


 不安に思って南美川さんを見下ろしたら、南美川さんも、不安そうな顔でこちらを見上げて尻尾を水平に振っていた。……なにかざわざわする気持ちの渦中にいるのだ、このひとも。



「……そんなお話を、僕なんかに聴かせていただいて、ありがとうございました。でも――」



 言いよどむ。しかし、言わなければ。言え、言うんだ、僕。うつむいてしまって、それでもやっとのことで、……僕は言葉を、続けていく。



「この世界は、ミサキさんのおっしゃる原始の楽園と、いうよりは、ほかの事情が、あるんだと思います。その、ええと――」

「ほかの事情ってなにかしら!」



 あまりに強い声で言われたので、僕は肩ごとびくりと震えてしまった。情けない。でも、それほどの勢いの声だったのだ。

 一瞬のちに考えればあるいは、過剰な明るさとも取れる声の響きだったのかもしれない。でも無理だった。いきなりそんな大きな声で、はっきりと言われて、それを明るさと捉えられるのは――よっぽど社会経験を積んできた優秀な社会人か、もともと優秀ななにかをもっていてコミュニケーションが得意だったりする、そういうひとたちに――限るのではないか。いや、それとも、ふつうのひとはこれくらいのことはふつうに対応できるのか……わからない。わからない、けれど。



「私がおおよそ八十年も待ち望んでいたことが実現しているのよ。ここは、原始の楽園。みんな原始の楽園はこうだって言っていたんだもの! みんながいなくなっちゃったって、……私には、それがわかるんだから。それとも、なあに? ここは原始の楽園ではないっていうの――」

「いえ、そうとは、言いません、……けれど」



 僕は、言いよどんだ。……どうしよう、どう言えばいいんだ。どう説明すれば、このひとに伝わるんだ。しかもまだ南美川化や真のことを話すわけにはいかない。その情報をこの内部のひとたちと共有していいかどうかは、まだ微妙だ。検討せねばならないことが山ほどある。だから、まだ、言えない。

 言えないうえでどうやって説明したらいいんだ。もちろん、そちらから見ればこの世界というのはそういった、原始の楽園、とやらに見えているんだろう。でもそれはたぶん単なる偶然の一致か、そうでなくても、なんらかの意図ある――ふたごのとってのオプションみたいなものだと、思う。もちろん、まだ根拠はない。根拠はないけど、調査中だし、……その調査を僕が昨晩おこなって、今晩もおこなう、ということすらバレてはいけないのだ。いいことがない、お互いに。


 だから、だから、言えない。情報を出して納得してもらうこともできない。でもじゃあどうすればいいんだ。


 嘘をつけばいいのか? 僕がじょうずな嘘つきならそうしている。でも僕は嘘も下手だ。そのせいで、……高校時代だって、南美川さんたちになんども見抜かれてひどい目に遭った。

 じゃあ、黙っていればいいのか、しかしそれもいい手ではないかもしれない――黙っていることがひとを苛つかせるのだということも、僕は同時に、知ってしまっている。これも高校時代に学んだ。僕は嘘をついてもひどい目に遭ったけれど、黙っていても、ひどい目に遭った。もしかしたら、そっちの回数のほうがトータルでは多いかもしれないというくらい――。



 どうすれば、どうすればいい。ああ。説明の方法が、わからない。コミュニケーションが、うまくできない。



 ……会社でのことをこんなときに思い出す。なぜだか。僕は会社でもほとんどコミュニケーションができていなかった。でも、それでも、日々の業務にほとんど差し支えはなかった。ある意味では、まったくと言ってよかったかもしれない。なぜならコミュニケーションはおなじチームである杉田先輩の担当だったからだ。僕が、どれだけ、ひととダイレクティにコミュニケーションがとれなくっても、杉田先輩は僕の意思を根気づよくしかも正確に読みとってくれて、橘さんをはじめとする会社のほかのメンバーや、偉いかた、取引先に至るまですべて、そちらの意思も汲みとって僕にもわかるように教えてくれた。


 杉田先輩。うっとうしいとばかり思っていたりもしたけれど、ほんとうは、すごいことをしてくれていたんだと思う。……杉田先輩がここにいてくれたら。そんな情けない、ひとりの男としてあまりにも情けなさすぎることを僕は思った。子どもじゃ、ないんだぞ、赤ちゃんじゃ、ないんだから。

 ……でもそれは僕の本音だった。杉田先輩だったらこんなとき齟齬や誤解や無駄な負の感情なく、話を進めてくれる。まとめてくれる。いい方向に、もっていってくれる。



 けれどもここには当然ながら先輩はいない。

 だから、僕がやるしかない。やるしかないのだけれど、……できない。

 ああ。――あの能力が、僕にもあったなら。せめて、せめてもうすこしだけ……ひととまともにコミュニケーションのとれる人間であったならば、僕が。僕は。こんなときに。こんな思いを、することもなく――。




 はあ、と大きなため息を、ミサキさんはついた。……過剰なほどに。




「……お若いひとにはわからないのかもしれないわね。せっかく、私が、世界の真理を教えてあげても。それが真理ゆえ、わからぬひとびとは拒否をする……」

「いえ。ミサキさん。僕は。その――」

「いいわ。いずれはわかることだもの。……あなたはどうして楽園を否定するのか。その理由でさえも。神はすべて、ご存じだから」



 あはは、とも、くふふ、ともつかない、きゃらきゃらとした含み笑いで、ミサキさんは、僕を見ていた。……目は、まったく笑っていなかった。



「私は、この公園を探求して、研究し続ける。……いい成果がわかったら、そのときあなたにも教えてあげる。そうして生物の真理がほんものだとわかったら、……あなたはそのときこそ、私たちのよき仲間になってくれるのでしょう。それじゃあ、またね、……そう遠くない、いつかに。おはなしできてよかったわ、信じているから――お若いひと、ね?」




 そう言って、ミサキさんは。

 それまで立ち止まって、あんなにも熱っぽく話していたのが嘘みたいに、あっさりと背中を向けて――どこかに、立ち去っていってしまった。……研究道具のひとつだというハサミを、昨日も見かけたそのハサミを、ひらひらと――顔の横で、振っている。その一般的に危険な動作は僕に対して手でも振っているつもりなのか、……それともほかの、意図があるのか。




 ……りりんりりん、と鈴の音が鳴った。

 南美川さんが首を上下に二回、振ったのだ。……なにかを僕に伝えたい、というシグナル。僕はしゃがみ込んで、その顔に自分の顔を、近づけた。



 南美川さんはあたりを見回した。そばにほかにひとがいないか、たしかめていたのだろう。僕もさっと見回した。そばには、いない。だから、……いいよ、と手で口を覆って僕は南美川さんに語りかけた。




「ねえ、シュン。いまの、あのひとね……」

「……ミサキさんが、どうしたの」

「あなたに、仲間になってほしかったんだと思う」



 南美川さんの、目は、唇は、表情は、真剣だった。

 ……冗談を言っているふうでもないし、そもそも冗談を言うような状況でもない。





 その、ベージュの背中は。

 どんどん遠ざかっていっていた。

 もう、ハサミは振りかざしていない。




 ……仲間に、なってほしかった。

 そんな可能性――みじんも思い当たらなかった。いや。いまだって、そんなことは、思わない、……でも。




「断られて、傷ついちゃったと思うのよ……」




 そんなふうに、どうしたらそんなふうに人間の機微を捉えられるんだ、僕には、無理だ、そんな捉えかたはできない、いまもただ怖いと、恐怖だと、理解できないと、説明できないからもう駄目だと――そう感じていただけだった、……そんななかにそんな気持ちの可能性がわずかでもあったことをまったく気づくでもなく――。

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