たぶんヒロインなんだろう
「……どういうことなん……」
飛び出したのは葉隠さんだけだった。
だから、葉隠さんが、その惨状にいちばん近いところにいた。
しいて言えば。
あくまでしいて言えば、の話だ。
あの三人家族の末路のぐちゃぐちゃ。
葉隠さんだって、だいぶ距離があるところにいる。近づききれは、しなかったのだ。むろんあの親子があっというまにその子どもを喰らってしまって、そしてあっというまに崩壊して、ぐちゃぐちゃの塊になってしまったから、という事情もあるだろう。でも。それは、それとしても。葉隠さんも、つまりこの状況で率先して行動してどうにかしようとするひとで、あっても――近づききることは、できなかったということだ。
ほかのひとたちは。
もちろん、僕も――僕たちも。僕が動かなければ動けない、南美川さんも含めて、ということだが。
影さんも。
ほかの、この広場にいるひとたちも。
動けなかったのだ。
距離をとって、見ていただけだったのだ。
だから、やっぱり、その末路たちの惨状のすぐそばにいる人間なんて、いまひとりもいなかった――。
「……どういう、ことなん」
もういちどおなじことを、でもさらに切実な響きでつぶやいて、葉隠さんは、一歩踏み出した。広場の芝生の上を、すくなくともいまはまだ芝生らしく見えている、でもよく見るとその表面にすこし虹の膜が張ったみたいに不自然なその地面の上を。頼りない足取りで、……ふらり、と。
「どういう……」
こんどは、最後まで言い切れなかったようだった。それでも、もう一歩踏み出していた。またしても、ふらり、とした足取りで。いまにも、くずおれてしまいそうな――でもそうはならない。すくなくとも二本の足でしっかと立って、葉隠さんは、……またしても空を見上げている。
……そのすがたは。
たぶん、ヒロインなんだろう。
ほら、風も吹いている。
まるでおあつらえ向きのように。
その髪の毛は長くて、艶もあるといえるのであろう、そんな黒髪だから、風が吹けば素直にさらわれる。どうやら、髪がさらわれると手で押さえるのが癖のようだ。さきほどから、そのような動作をするのを何回か見ている。
悲しそうにか、悔しそうにか、どちらなのか、あるいはそのどちらもか、どちらでもないのか、僕などには知るよしもないけれど。
でもなにか深そうな感情をその顔に、たしかに静かに浮かべて。
ただ、空を見ている。
深く、なにかを感じながら見上げているのだろう。
唐突に、高校一年生のときの担任の先生の言葉が脳裏に浮かんだ。……研究者志望クラスに進みたい、という僕を、どうにか止めようとしてくれた、でも僕は振り返ればあまりにも的確なそのアドバイスに、従わなかった――いまにして思えばおそらくは若く、まだ教師になりたての、笑顔が人気な、でもその笑顔はなぜだかすこしさみしそうで、僕はいつも、あの先生と一対一でしゃべるときは、うつむいてばかりいて、……そんな、あの担任の先生が、ときどき感極まったみたいなときに、よく言っていたことだ。
――みんながみんな、みんなの人生の主人公なのよ。
なにを当たり前のことを、と。
あのときは、意味など考えずに、耳をただつるりと滑って、僕の心にはまったく届かなかった。
……学校にありがちな偽善だと思った。
そんなことを頬杖つきながら教室で思える程度には、まだあのときの僕は、……自分自身も人間だと、信じきっていたのだ。
じっさい、あの言葉が心に響いていた同級生は、少なかったように思う。もちろん、わからない。ぼうっとしてるように、つまらなそうにしているようにばかり見えるうちのだれかの心には、じつはその言葉はしんから響いていたのかもしれない。でも、すくなくとも傍目にはまったくそんな気配はなかった。生徒の多くは頬杖をついているか寝ているかなにかのスマホデバイスをいじっているかで、優等生で知られる者たちさえも、うんうんとうなずく動作の合間にこっそりとあくびを噛み殺していたようだった。
だから、どうしてこのタイミングでそんな言葉が思い浮かんできたのか。
わからないけど、……僕はたしかに、高校一年生のあのときとは違った意味で、角度で、深みで、あの言葉を捉えていた。
たしかに、葉隠雪乃にとっては。
葉隠雪乃が、主人公なのだろう。
僕はその身にいままでなにが起きてきたのか、その一部しか知らない。国立学府に行ったこと、でも研究者にはならなかったこと、いまはべつの仕事をしていること、……南美川さんに、なにかいじめのようなことをされていたということ。
南美川さんのいじめというのはたしかにすさまじいものがある。
だから、ふつうの人間、……つまり自分自身を人間だと思いきれているまともな人間からしたら、それは耐えられないほどの、なにか、そのひとを、……そのひとの人生の主人公にするほどの、できごとだったのかもしれない。
でも。
僕にとっては、違う。
それは、僕にとっては、……いつまでも、僕が主人公だなんて存在になれないという意味でも、そうだし。
僕にとっては。
どうしてだろう。ああ、どうしてだろうな、こんなにも。
いま目の前にいる、葉隠雪乃という女性が。客観的にはこんなにも、ヒロイン、いや主人公に、ふさわしいんだとわかっていても――。
その黒髪がなびくことより。
その秘められたらしい深そうな感情より。
その横顔より。たたずむそのすがたより。
……僕の右手のリードから動けない、このひとのほうが気になる。
そういえばこのひとの髪の毛はあのひとに比べてしまうとけっこうボサボサだ。……調教施設ではまともに手入れされていなかったらしく、僕の家に来たときよりは、まだマシになっている、と思う。でも僕が女性の髪のお手入れなんて慣れているわけもない。南美川さん本人にいろいろ聞いて教わって、生まれてはじめてオープンネットショッピングでリンスだのトリートメントだの買ったけど、……それでも、不足はあるのだろう。そもそも南美川さんはなにかを恥ずかしがって、遠慮して、もともとおこなっていた髪の手入れ、それらのすべてを僕に伝えているという感じは、しないのだ。
そもそもこのひとは人犬だ。せつなくたたずむことも、かっこよく進むことも、できない。……凛となんて、できない。
それなのに。
僕にとっては。
……ヒロインらしい、あそこのひとよりも。
南美川さんのほうが、ずっと気になる――ふと見下せば、心配そうに僕を見上げていて、すこし尻尾を振ってくる、このひとのほうが、ずっと、ずっと、……世界のメインだと思ってしまうんだ、ああ、なにもこんなときに――気づかなくたって。
こんな、この世界にとって、どうでもいいことを。……僕にとってはどうでもよくないことを。でも。こんなときに。不適切だ。でも。でも――感じてしまうことじたいを、だったらどうやって止められるっていうんだ。教えてほしい、だれでもいい、……いまここに、高校一年生の担任のあの先生があらわれてくれたって、いいよ。そんな馬鹿げたことを思うくらい――。
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