獣の襲来

 とっさにそちらを振り向いた。自分でも驚くくらいのすばやい動きだった。でもそれほどその咆哮がおかしかったのだ。化物じみていたのだ。聞いたことのないタイプの咆哮だった。いや、あるいはもしかしたら遠いむかしの子どものころにけっこうえぐい冒険映画でも観たときに、そうでなければちょっと残酷な要素もあるタイプのゲームでもプレイしていたときに、聞いたのかもしれない――でも記憶にはない。それにそういう経験があったとしてもそれはあくまでフィクションでかつほとんど二次元での話で、こんな生々しいものではなかったはずだ。

 現実としてその咆哮は届いた。

 もちろん、この世界そのものが現実かというと、そもそも疑わしい――でも感覚としてここは完全に現実だ。映画やゲームとは体感の度合いが違った。背後で、しかもそう遠くないところで、――その異形の咆哮は響きわたっていた。


 ザッザッザッ、と木々を掻き分ける音が続いた。あまりにも軽やかで、それはつまりこの雑木林の木々をそんなにも容易くあっけなく踏み潰してきているということ。最初は耳にやけにクリアに届くなという印象だったその音は、秒刻みいやもしかしたらそれよりもっと素早いスピードで、突進し、踏み潰し、駆けて、駆けて駆けて駆けて、あっというまに近づいて――くる!



 そのあまりにも速い接近の気配を全身で感じながら。

 僕は土の上に滑り込むように南美川さんを捕まえに行った。依然、人権制限者たちを慰めていた南美川さんは、その音のするほうに呆然とした顔を向けて、耳も尻尾もぴんと立てていた。表面がぴりぴりと毛羽だっていた。

 僕は有無を言わせずその小さな身体を持ち上げて、胸に抱いた。いつも思うけど南美川さんの身体はほんとうにほんとうに小さくて抱きかかえることができる程度のボールのようなのだった。南美川さんはおとなしく抱かれていた。でも前足をすこし伸ばしてもいたから、もしかしたら、――呆然とするなかでもなにかをしようとしていたのかもしれない。

 でも、いま、それをかなえるわけにはいかない。南美川さんの望みをかなえるわけには。それよりも安全だ。身の安全。このひとだけは、なにがあっても――そう思いながら僕は南美川さんをたとえなにがあっても落としてしまわないように強く抱きかかえ、ほとんど転びかけの足取りでもつれる足でしかしたしかに、雑木林のすこし奥まったところに逃げるのに、成功した――木の幹を背もたれとしてずるずると崩れ落ちる。胸のなかに、腕のなかにいる南美川さんがつぶらで真剣で心配そうな瞳で、僕を見上げてくる。だから、僕は、ちょっと笑った。なぜ笑ったのか自分でもよくわからなかった。感じている気持ちは、ただただ、――疲労と、恐怖だけなわけなんだけど。



 ソレは。

 そう、ソレ、としか形容できない、それは。

 あっというまに、あらわれた。

 おそらくは、木々を掻き分け。いや、掻き分けるどころではないのかもしれない。あの巨体ではやはりほんとうは、――雑木林の木々なんてポキンポキンと、たとえば小さな子どもが簡単に花を手折るよりも簡単に、潰せてしまったものなのだろう。



 事実、登場するときにも、ソレは何本もの木をかるがると無情にも踏み潰して、あらわれた。この公園でずっと手入れされ、それなりの矜持をもってぴんと立っているごとくにも見えた、雑木林の木々たち。いまは深くうなだれるように重なりあい、人間の死体の山のごとくにも見えて僕は目を逸らした。

 その木々のいくつかは、人権制限者がつながれていたものでもあった。木が吹っ飛ぶのと同時に彼らの身体も強制的に移動させられる。……いま、目の錯覚でなければ、折り重なりあうように崩壊する木々のなかに紛れ込むように押し潰されたひとが、ふたり――いた、いや、……いたのかも、しれない。わからない。確認するには――いまはまだ、危険すぎる状況だから。

 崩壊する木々のなかでは、あともうひとり。口枷を嵌められた顔に恐怖そのものを浮かべながら、つながれた鎖をぴんと伸ばして必死で逃げようとしていたひとが、いた。でも間に合わなかった。ソレ、の足ぶみで簡単に木々は崩壊し、そのひとの上に、砂煙とともに落ち――そこまでだった、……僕が目視で、捉えることができたのは。



 僕は息をひそめながら雑木林のすこし奥まったところで状況をうかがい続けている。南美川さんの口も、……念のために、手で覆って塞がせてもらっている。正解、だったかもしれない。南美川さんの喉はさきほどから、全力で叫ぶことを欲するがために――強く、強く振動し続けているからだ。





 ソレ、というのは。

 まるで巨大な猿だった。そうでなければ、猪のようだった。


 身体がでかい。

 ゆうに五メートルはあるのではないか。

 そして身体の幅もでかい。こちらも、……三メートルは、あると思う。


 毛むくじゃらで。

 四足歩行だが、前足の爪が鋭く、てらてらと象牙色に光るそれ一本一本が太刀のようになっていた。けっこう器用に動かせるようで、……進行方向のモノを、思うがままに的確に、破壊することが、できるのだろう。


 咆哮するたびに空気が震える。とても気持ちよさそうに咆哮している。まるで、……まるで、理性の枷からようやく解き放たれたとでも言うかのように――。



 ……そして、その、顔は。

 真っ赤な、猿そのもののような。それでいて、人間のかたちもとどめた。巨体に似つかわしくないほど、人間の顔のサイズそのままの、その、顔は――。





「表!」





 影さんが、絶望的な響きで見上げて叫んだ通り。

 まぎれもなく、彼のものだった。……カル青年、表さんの、ものだった。





 その顔には好青年らしかった彼の顔の特徴は、そのまま残っていて。

 にこにことした人がよさそうだったあの対外的な笑顔であると、そう見えなくもない表情で。




 そんなすがたをした獣は、――あの青年をベースにして、なにか、決定的に変質してしまった獣は、ベースだったころの愛想のよさを奇妙なままに残しながら、――あくまでもただの単なるバケモノとして、雑木林を破壊して、破壊して、破壊しては、ついでのように、人権制限者たちを――踏み潰してその人生を強制的に終わらせているのだ。あまりにも、あっけなく。予想だにせず。ここで終わるだなんて思ってもいなかったであろうひとたちが、紙きれが吹き飛ぶよりも簡単に終わり続ける――目のやりばがなくて空を見上げれば、あんなにもいつも通りみたいにきれいな青空と機械鳥の悠々自適なすがたがひろがって、いるのに。

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