哲学技術
カンちゃんさんが目を細めてこちらを見ていることに気がついた。……注目、されている。
世間的にはただの犬にすぎない南美川さんを相手にずっとしゃべりかけているのだから、それはそうなるか。それにパソコンでの作業もいったん中断してしまっている。
……僕は立ち上がり、そのまま南美川さんを抱きかかえた。軽くて小さな身体はやっぱり、……さほど力を入れずとも、すんなり持ち上げることができてしまう。
南美川さんからすればいきなり持ち上げられたはずだが、とくに抵抗することもなくすんなりと僕の腕におさまってくれた。毎日いっしょに暮らして散歩もしていれば、こういうことは日常茶飯事だ。
……僕なんかに、抱えられること。素手で、素肌や、犬の部分にふれられること。それに慣れてくれた南美川さんがえらくて愛しいという気持ちもあったし、それとおなじくらい切ない気持ちもあったし、そしてまたそれらをときには上回るほどの――やりきれず、人間どうしとしての、……そしてほんとうは男女どうしであるはずの、なにかどす黒い炎みたいな気持ちを……僕は、感じることがあった。いつも、ではない。――でもこんなふとしたときにでもその炎はちりりと、醜く燃える。
……振り払うように、呼吸を整えた。
「あの」
カンちゃんさんの前に立ち、話しかけた。なんですか、と目線で問われる。……もともと、無口なひとではあるらしい。でもぶっきらぼうな印象はない。必要最低限しか言語を発さないタイプなのかもしれない――そういうタイプのほうが、やっぱり、僕はやりやすい。
「……ちょっと、作業に疲れたので、休憩として散歩をしてきたいのですが――」
カンちゃんさんは、人権制限者の管理者の制服である帽子の下の目から。
まずは僕をまっすぐに数秒間見つめて、そのあと顎だけを軽く引いて、南美川さんを見た。
……南美川さんはたぶん、ただの犬みたいなふりをしてこのひとのことを見上げてくれているはずだろう。
「……そちらの、ワンちゃんと」
「はい。ワンちゃんと」
「そうですか。いってらっしゃいまし。……カルには、言っておきますので。Necoプログラマーの社会人のかたはペットのワンちゃんとすこしばかりお散歩に出ました、と」
「あ、その。三十分もすれば戻ってきますので……そうしたらもちろん作業の続きもやりますので、だから……」
「承知しました。社会人のかた。問題ございません」
そう言ってカンちゃんさんは、帽子を脱いで一礼した。……やけにきれいなその動作に恐縮しながら、僕はこのひとよりずっと不器用に、それでも礼儀として――頭を、下げた。
南美川さんのお散歩というていで抜け出してきたので、リードでいっしょに歩く。ノルマの歩数計もいっしょだ。……どちらにせよあとすこし本日ぶんを歩かなければいけなかったので、ちょうどいいといえばちょうどいい。
それにいまは広場に人は集まっているから、都合がいい。話を聞かれる心配がさほど強くない。
めきめきかたちを変えていく雑木林。どんどん神話めいてくる池。
……そんな原始の自然に逆行するような公園を歩き、抜け、そしてまた戻って歩きつつ、僕たちは、話をした。
「……ねえ、シュン。ここがデータ世界か、そうでなければ、……化ちゃんの夢のなかっていうのは、どういうことなの……」
「現時点では、どちらとも取れる。……もしかしたらどちらも両立しているのかもしれない。ねえ、南美川さん。……たしか彼は国立学府で哲学をやっていたね」
「うん……流行りで、優秀の、学問」
「そうだね、それが科学技術に関与するかぎりは、哲学はいまはとっても尊重される分野だよね」
「そうね、前時代までと違って、……思考するだけが哲学ではないから」
哲学は、いっとき死んでいたも同然と聞いたことがある。
つまりそれは、思考の遊戯にすぎなくなった……と。
もちろんそれに対していろんな反論もあったのだろう。でも、その言説はたしかに、……僕みたいな分野外の人間に届くくらいには現代社会で一般的なのだ。
「前時代では、思考するだけが哲学だったなんてふしぎな感じだな。前時代だって行動していたひとがいただろうけど、でもそれはいまみたいな意味ではなかったはずだ――」
「そうよね、だってシュンはお仕事で……」
僕は、すこし重たくうなずいた。
そうだ。その通りだ。その続きを言わずとも、わかる。僕みたいな技術屋は、
なぜなら、いまの科学技術の発明の多くは哲学技術に依存しているからだ――前時代の思考実験というものを拡大解釈してだれか有名な哲学の専門家がはじめた哲学技術というものは、いまや、科学技術の発明の、――根本の論理部分の形成に不可欠なもので。
「……彼は、優秀なんだよね。とてつもなく。デザインされた、天才……」
「そうよ。古代言語だって、わけもない。現代数学だって、わけもない。哲学の技術開発だって、きっとわけはない――」
「……彼の専攻は哲学のなかでもとくに世界観の構築だったよね」
「そう、聞いているわね。そしてそうね、化ちゃんは、国立学府においてプロに準ずる立場の哲学家として、もちろんいずれはプロとして、哲学技術の論理形成にも深くかかわりたいんだって、教えてくれたこともあったわ……世界観構築を専攻として」
沈黙が、おりる。
それは、僕の仮説が、……あるいは南美川さんももう気づきはじめてふたりで共有できているかもしれないこの世界の可能性が、あながち的はずれではないんだと――ふたりして、とりあえずはどうにか飲み下すための時間だったんだと思う、ああ、そんなときにでも、……この世界は、さらに虹色目指して神話世界のように一見芸術的に美しく、変貌を、続けるのだ。
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