痛々しい

 南美川さんは目から涙を溢れさせた。

 そして、泣きじゃくりはじめる。僕の胸に金髪と金色の犬の耳をもった頭をくっつけ、両方の肉球でぺたりと全身を支えている。



「シュンは、訊いて、くれるから」

「……うん」


 なんのことかは、しいて言わずともわかった。僕は散歩中いつも、定期的に南美川さんにリードのシグナルを送ってトイレはだいじょうぶか尋ねる。そうでもしないと無理してしまうからだ。家のなかでももちろん恥ずかしいけれど、外で人犬としてそうするのはもっと嫌だ――南美川さんがそう感じることはもっともだし、まっとうな感覚だ。だから僕はいつも気を遣っているし、……南美川さんのほうにもどうやらそれは伝わっているようで。


「でも、……そうは、してくれなかったから。でも、しょうがないから。でも。だから。わたし。ぎりぎりまで、我慢して。いけると思ったの。シュンのところに、戻ったらって……でも耐えきれなかったの。わたし、わたし、……おトイレ我慢するだけのことも、わたし……」

「わかってるよ。もう、いいよ。それ以上言ってもつらくなるだけだ。……お疲れさま、南美川さん」



 僕は右手でその頭を撫でて、左手でその背中をさすった。



「……できないの……」



 呻きのように泣きじゃくるなか、その言葉が聞こえた気がしたけれど。

 僕は、あえて無視した。……そのことを肯定したって否定したって、南美川さんは傷つくに決まっている。



 南美川さんはやがて僕の名前を呼んだ。

 呼んで、呼んで、呼び続けた。

 嗚咽を漏らしてもなお壊れたスピーカーのように僕の名前を呼び続けるこのひとを、僕は、……それとおなじだけ、撫でるのがせいいっぱいだったのだ。



 そして、その時間も過ぎると――。



「シュン、わたしね、笑われたの」



 南美川さんは僕の胸に、顔をうずめたまま。



「あのね、あの子にね、……あのひとにね、わんちゃんはおトイレひとつもできないんでちゅねーって、すごく、笑われたの」

「……うん」



 不毛なことだとは、思う。正直。それをいくら語ったって、泣いたところで。……つらいだけだから、ほんとうはやめたほうがいいとも思う。

 でも。このひとが。いま語ることを、望むのならば――僕はどうやらそれに耳を傾けるしか、なさそうで。



「わたし歩きながらおもらししちゃったの。ぎゅっと我慢して、歩くでしょう、……リードが強く引っ張られると後ろの足もぐらつくのね、それで強く引っ張られてね、……バランス崩れたら、そうなっちゃって」

「うん」

「……我慢していたぶん、出ちゃったの……そうしたら、わたしのこと指さして、大きな声でね、笑ったの」



 服ごしに、このひとが震えている気配がダイレクトに伝わってくる。……身体も、おそらくは心も。



「止まらないの。わたし。……嫌なのに、止めたいのに、我慢していたから止まらないの。恥ずかしくって、伏せたんだけど、……そうしたら木の枝でね、おしりを、叩かれてね、立てって言われたから、立って、そうすると、……そうなっちゃってるところ、丸見えなの。隠せないの。それで、それでね、そのあと、その木の枝を……こうね、後ろから……入れられたの。それでかきまわしていたずらされて、わたしキャンキャン言って降参したんだけど、でも、許してもらえなくて、わんちゃんは、おバカさんやなあ、って――」

「……南美川さん。もう、やめよう」



 つらい気持ちは、もちろんわかる。つらすぎて、どうしようもなく溢れて、語る気持ちも。言語化しなければ耐えきれないほどの経験も。


 溢れるものは溢れさせればいいとはもちろん思う。でも。やっぱり。――聞いているだけで、それはつらい話だった。



 僕はこのひとの頭を撫でる。小さく、二回、三回。……南美川さんは、小さく震えた。それこそ、長い排泄の後にすこしそうするみたいに――。



「でもほんとうのことだから」



 唐突に、会話はそのままつながって。

 南美川さんは、僕の胸から顔を離した。


 その表情を見て僕はいよいよ鼓動が強く跳ねた、……笑っていたからだ。



 もちろん純粋な笑顔ではない。もちろん。そうではなくて、まるで無理やり笑わされる薬でも飲まされてつらいのに顔面の筋肉は笑顔のかたちになるよう調整されている、みたいな――。



「わたし、いま、トイレも満足にできないから」



 それは、……そうされているだけだ。

 そういう身体に、そういう立場に、させられてしまっているだけ。

 でも。南美川さんの立場からすれば、自分ができない――そういう表現になるのは、それはもちろん道理だろう。



「当たり前のことが、なにひとつ自分ではできない……」



 南美川さんは、片目からほろりと涙を流して。

 それでも、媚びるかのように笑顔で顔を固めることを、――やめない。

 その表情は。態度は。様子は。……すべては。



「馬鹿にされても、仕方がないのよ。だから。それに。……わたしは大学のときあのひとやあのひとたちにそうされても仕方ないことをしているの。だから。だからね」



 それは、至極、痛々しい。

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