取り返しのつかないこと

 ……その笑顔をかき消すかのごとく、僕は、その頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 南美川さんは照れたようにうつむいて、でも、やっぱり、……明るいふりが、痛々しい。



「たしかに南美川さんはむかしあのひとたちになにかしてしまったのかもしれないけれどね」



 僕は、語りかける。……なるべくこのひとの心の邪魔にならなければいい、と勝手に願いながら。



「でも、それは、いまの南美川さんに……なにかをしていいという理由には、ならないと思うんだ」

「シュンが、おかしいのよ……」



 南美川さんは、疲れたように微笑む。ある意味では年齢相応といえるその笑顔に、僕の心は、――またも、竦む。



「雪乃にいろんなことされながら、いろんなこと言われながら、……いろんな馬鹿にされかたをしながらね、わたし悲しかったけど、でも。当然よって思うわたしもいて、そっちのほうがたぶん正しいの。だって。わたしは。……あのひとたちに」



 なにかを、したのかもしれない。いや。



「……なにかを、してしまったんだよね。あのひとたちの人生が、歪んでしまうくらいには」



 うつむいてうなずく南美川さんには、もう――欠片も、笑顔の気配はなかった。



 僕は、撫でる速度を緩めて。それとおなじくらいの速度で、このひとに、語りかける、……どうかその心に届いてほしい、届け、とまたも自分勝手に思いながら。



「でも、それはむかしのことだ。いまは、いまだ。南美川さん。今回は僕のせいだ。嫌な思いをさせてしまった。ごめんね。僕がちゃんと、あのひとたちにも南美川さんにも説明しなかったから。ごめん。いっぱいいっぱいだったとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまったよね。こんどはもう南美川さんが嫌な思いをしないようにするから。僕はこれからもやらなきゃいけない仕事があるから、あのひとたちにまたなにかを頼まなくてはいけないかもしれない。でも、もし嫌な思いをこれからするようだったら、いつでも、遠慮しないで僕に――」

「シュンのほうがおかしいのよ」



 鋭い声に、僕は言葉を止めた。

 南美川さんは、……完全にうつむいていて。



「……こんな言いかたしかできない自分が、わたし、嫌。でも……雪乃たちのほうが、正しいのよ。まっとうな反応よ」

「正しくても、まっとうでも、そんなことは関係ないだろう。問題はいまあなたがどう感じているかということで――」

「どうしてあなたはわたしをいじめないの」



 南美川さんの澄んだ目が、至近距離で僕を見上げている。……おそろしいほど静かな目にたたえられたそのなにかを、僕は完璧に読み取れていないと感じる。いまも、いまだに、まだ。




「シュン。あなただって、わかるでしょう。……わたしはあなたをいじめたのよ。あなたの人生を台なしにした。……あのひとたちにも、おんなじことが起こったのよ」

「それはね、そうだね、あのひとたちもずいぶん苦労されたんだなあと痛み入るけれど――」

「ひとごとじゃないのよ!」



 ごめん、ごめんと言う代わりに、苦笑した――そんな僕のこともきっと南美川さんはおかしいのよって思っているのだろう。どうしてそこでそうやって笑うのとか、思ってるのだろうか、……このひとは、どこまでも限りなくまっとうだから。



「……あのひとたちにも、わたし、ひどいことをしたわ。あのひとたちの研究者としての夢を根こそぎ奪ったということも、いまならわかる。……わたしはわたしであのときそうするしかないと思っていた。切羽詰まっていた。だから、考える余裕もなかったの。でも人犬になってからはそういうことを考える時間ならたくさんあったわ。わたしは、……してはいけないことをしたの。だから、わかるでしょう。あなたなら。シュン。……あのひとたちとおんなじで、わたしがそうしてしまった、その経験をしているあなたなら。……わたしが言うのも、変だけど」



 それこそ、取り返しのつかないことよ――と、南美川さんは耳をしおれさせてつぶやく。わかりやすく。



「でもねシュン。……たぶん、あなたのほうが大変だった。ほんとうは、……わたしにこんなこと言う権利はないんだけれども。でも。……でもね」



 南美川さんは、……蚊の鳴くような声で。



「あのひとたちにも、わたし、いろんなことをしちゃった。子どものころから、小学校や中学校でも、いろんなひとに、いろんなことをしちゃったわ。どれも、取り返しのつかないこと。やっちゃいけなかったんだわってことばっかり。……でも、でもね。わたしの人間だったころをすべて振り返っても、わたしあなたにいちばん――」

「南美川さん。間違っているよ」



 僕は多少わざとらしかったとしてもなるべく楽しそうに見えるような笑顔をつくって、その鼻に、……身体加工されなかったゆえに人間の鼻であるその鼻の頭に、ひとさし指を……柔らかく、押しつけた。



「あなたは人間だったわけではない。いまも、ほんとうは人間だ。そしてまた、これから人間に戻るんだ」



 南美川さんは、目を、見開く。……くりくりの、どんぐりみたいでかわいい目。

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